Ⅷ
「ディディエ、焼き栗を買いに行こうか」
あれから二日経って、俺は朝食の時にそう切り出した。ディディエはクスリと笑った。
「そんなにもお気に召して頂けたのですか?」
「ああ。あの味が忘れられなくて」
味……なのか、正直なところどうなんだろう。いろんな意味で忘れられない味にはなってしまったけれど。
ただ俺は、この部屋の中にいるのにも飽きて、段々外に出たくなっていた。でも、ディディエを屋敷に残して遊びに出かけても、きっと以前のように楽しくはない。それがわかるんだ。
それよりはディディエと一緒に黄葉する銀杏並木でも歩きたい。そんな気分だった。だから、焼き栗は口実なんだ。
「でしたら、私がまた買って参ります。もちろん、遅くならないように早めに出かけます」
ディディエは念のためにかそうつけ足した。
でも、それじゃあ意味がない。一人で買いに行かせたいわけじゃないから。
「美味しかったから、どんな店なのか見てみたいんだ。案内してくれ」
ディディエはそんな俺の言葉をまるで疑わなかった。
「そういうことでしたら、ご一緒致しますね」
にこにこと答える。その素直さが可愛いけれど、同時にどこか危うい。だから、目が離せなくなるんだ。
それほど遠くないとディディエが言うから、馬車は使わずに歩くことにした。まだ冬でもないから、薄手のコートを着るくらいで十分だろう。ディディエも制服にワインレッドのマフラーを巻いているだけだ。
屋敷の敷地も落ち葉だらけで、使用人たちはそれを掃き清めるのに大変そうだった。ディディエはそうした者たちに丁寧に挨拶をしながら敷地を抜けた。
ちらほらと舞い落ちる木の葉は澄みきった秋の空を彩る。寂しくなった枝の隙間から見える青が一段と綺麗だった。
ディディエは嬉しそうに街路樹の並ぶ通りを俺と歩いた。ただ、とある店の前に立った時にその笑顔が翳った。そのショーウインドーにはふわりとした優しい色合いのワンピースが飾られている。レースの大きな白い襟が特徴的だった。
何故そんな顔をするのかが俺にはわからなかった。可愛らしい服だから、ディディエによく似合うはずだ。
でも、思えばディディエはメイドの制服ばかりだ。仕事着なんだから仕方ないとはいえ、たまにはお洒落のひとつもしたい年頃なんだろう。
「これが気になるのか?」
気を回してそう言ったつもりが、ディディエは少し困ったように両手を振った。
「いえ、そんなことは……」
慎み深いのはいいけれど、我慢ばっかりしなくてもいい。
「着てみたらどうだ。似合うだろうから」
「えっ……」
戸惑うディディエの手を引いて俺はそのブティックの中に踏み入った。ショーウインドーに飾ってある服がほしいと言った。ここで着替えさせてやろうかと思ったけれど、ふと悪戯心が芽生えた。悪戯というのは少し違うかも知れない。ディディエを喜ばせてやりたいと思ったんだ。それに合うエナメルの靴もそろえた。
「あの、レナルド様?」
おろおろと挙動不審なディディエ。俺は愛想よく対応してくれた店員から箱に収まったワンピースと靴を受け取ると、そのまま店を出た。そうして、ディディエを振り返る。
「ディディエ」
「は、はい」
「焼き栗はまた今度だ」
「ええ!」
俺はそこで適当な辻馬車を拾った。行き先はサロンだ。上流階級御用達だとか、そんな面倒くさい店じゃなくて、下町の女たちが気軽に通えるようなところの方がいい。
何度か女たちにせがまれて足を向けたことがある程度の店だけれど、店名と場所だけは覚えていた。ほどなくして西通りの『ルフレ』という店に到着した。
「レナルド様、ここは?」
「いいから」
白壁の洒落た店構えを前に不安そうなディディエ。その背中を押してドアベルの鳴り響く店内に入る。
香水のような匂いに満ちた、鏡だらけの店内で俺たちを迎え入れたのは、年齢不詳の女店主だ。高く結い上げた髪が彼女の美意識の高さの表れのような気がした。
「いらっしゃいませ。本日はどうなさいますか?」
ここへ来たのは初めてじゃないから、俺の顔に見覚えがあるんだろう。連れている女が違うとでも思っているかも知れない。
でも、そんなことはおくびにも出さない。そういうところはさすがだ。
「この娘にこの服を着せて、髪もそれに合うようにしてほしい。とにかく、綺麗に飾り立ててやってくれ」
俺がそう言って買ったワンピースの箱を店主に渡すと、ディディエはとっさに俺の後ろに隠れた。
「いえ、あの、私は結構ですので――」
そんなディディエを俺は店主に差し出した。
「せっかくここまで来たんだ。綺麗にしてもらって来い」
「で、でも!」
「さあ、こちらへどうぞ」
と、店主に腕をつかまれたディディエは、何かすがるような目を俺に向けながら去って行った。不安そうなのは慣れない場所だからだろう。
俺はそのままロビーのソファーで待つ。戸惑いの表情で戻るだろうディディエのことを想像して、俺は微笑ましい気持ちになっていた。
時間はそう長くかかった方じゃない。ディディエにはこうしてほしいなんてこだわりはなくて、細かな注文なんてつけられなかっただろう。されるがままに、お任せしますとしか言わないから早く済んだんだ。
ただ――。
戻って来たディディエは、仕事中は引っ詰めている長い髪を編み込んでまとめ、薄化粧を施されていた。
薄っすらと薔薇色に染まった滑らかな頬、艶やかな唇。爽やかなワンピースに合わせた清楚で慎ましやかなものだった。
慣れない格好のせいでいつものような人懐っこい笑顔がない。ぎこちない戸惑いの表情が、逆にディディエを大人びて見せていた。
指先が痺れるような感覚がした。とっさに立ち上がることができなかったのは、驚きが強かったせいだ。あんな安物のワンピースくらいでどうにかなるなんて思っていなかった。ディディエが満足すればいいと考えただけだ。だから、心構えがなかったんだ。
「ご満足頂けましたか?」
店主はすべて見通したように笑った。
「ああ、ありがとう……」
それでも俺はなんとか店主に平静を保ってみせた。
「後で戻って来るから、荷物を少しだけ置かせてもらってもいいだろうか」
「はい、かしこまりました」
その店主の流し目が物語るような、そんな疚しいことはないはずなのに、どうしようもなく落ち着かない気分だった。それを理解できないディディエであってよかったと思う。
店を出て、あてもなく数歩歩いた。さて、どうしようか。
ディディエは恥ずかしそうにうつむいていた。そうしてぼそりと言う。
「あの、レナルド様、もう十分ですので帰りましょう?」
「まだいいだろう?」
とっさにそう言うと、ディディエは困ったように顔を上げた。
「でも、仕事が……」
ディディエはどこまでも真面目だ。怠けているような気分になってしまうんだろうか。
「俺がいいと言っているんだから、そんなことは気にしなくていい」
はっきりとそう告げると、一度言葉につまりながら拗ねた顔をして言った。それがディディエの本心だった。
「……こういう格好、似合わないですよ」
似合わないなんてどうして思うんだ?
今のディディエは清楚で可憐で――でもどこか扇情的に見えると言ったらどうするだろう。
幼い頃や親のことまで知っている俺だから、一人の女として見る前に色々と考えてしまうけれど、それがなかったらどうだろう。初めて出会ったのが今日なら、俺は間違いなく心惹かれたんじゃないだろうか。
それはきっと、軽い関係ではなくて、馬鹿げているくらい身を焦がす恋になったのかな――。
そんなことを考えて押し黙った俺が返答に困っていると思ったのかも知れない。ディディエは消えてしまいたいとでもいうような悲しい顔をした。似合ってなかったら、もっと平然と笑顔で似合うよって即答してやるのに、そういうところがわかってない。
「いや、似合ってる」
その間が嘘っぽいとでも言いたいのか、ディディエはかぶりを振った。
「いいです、わかっています」
いや、わかってない。絶対にわかってない。
俺は思わず嘆息した。
「そういう格好に慣れないのはお前だけじゃない。俺もディディエじゃないみたいで緊張する」
「へ?」
「まあ、お前ももう一人前の女性だなって」
何を言ってるんだろうか、俺は。そう思わなくはない。でも、上手く言えない。
綺麗だとか可愛いとか、そういう褒め言葉は何か軽くて口にしたくなかった。そういう月並みな表現で口説いているみたいに感じられたら嫌なんだ。
なのに、ディディエは妙に嬉しそうに笑った。何故ここで笑うのか俺にはよくわからないけど、笑顔が見えたのは素直に嬉しい。
そんな時、ディディエの足もとにオレンジ色をした何かが転がって来た。静止した時、それが手の平サイズのカボチャだということに気づいた。ディディエはそれを拾い上げる。
そんな彼女に小さな女の子が駆け寄って来た。お世辞にも可愛いとは言えないような、くたびれた服ともつれた髪の女の子だ。大きなカゴにいっぱいのカボチャを持っている。農村から野菜を納品に来た親の手伝いをしているんだろう。
ディディエは親しみ易い笑顔で女の子にカボチャを手渡した。
「はい、重たそうね。大丈夫?」
女の子は一瞬、ディディエをぼうっと見上げたけれど、すぐに大きくうなずいた。
「うん、ありがと。五日後にうちの村の収穫祭があるから、おねえさんもよかったら来てね」
うちの村……ここから一番近い農村は公道を西に折れたところにあったはず。多分そこのことだろう。
女の子は急いでいるらしく、ディディエの返事を待たずに背を向けて去って行った。
「ロンサール村の収穫祭。小さな頃に家族で出向いたことがあるので懐かしいです」
ディディエは女の子の働く背中を見送りながらそうつぶやいた。
「なんだ、行きたいのか?」
俺がそう振ると、ディディエは気まずそうに苦笑した。
「あ、いえ、そういうわけでは……」
本当は少しくらい行きたい気持ちがあるはずだ。仕事が優先だと言いたいのかも知れないけれど。
「俺は行ってみたいな。一度も行ったことはないから」
その返答が意外だったのか、ディディエはきょとんとした。俺が小さな農村の祭に興味を示すなんて思ってもみなかったのか。泥臭い祭なんて、本来なら興味がない。でも――。
「一緒に行こう」
ディディエが一緒なら、どこでも楽しめるんじゃないだろうか。
なんて、こうした約束をしようとするのは何故なんだろう。俺が命じれば、ディディエは従う。わかりました、とかしずく。それが『仕事』だから。
でも俺は、ディディエの意思で一緒に行きたいと思ってほしいのかも知れない。
何故そんなことを思うのか――少しずつ、俺の中で日常がずれて行くような感覚がある。そのずれは、そのうちに直る日が来るんだろうか。
「そういうことでしたら、お供致します」
「うん、『約束』だ」
その言葉を強調したことにディディエは気づかない。
そのうちに直るどころか、更に狂い行くだけなんだろうかと、本当はどこかで感じていた。でも、不快とは言えない。その感情はとても甘美に心を支配する。
そのままどこへ行くでもなく公園をぶらついてみた。鳩に餌をやってみたりしただけなのに、ディディエには珍しいことだったのか楽しげにしていた。
ただ、買ったワンピースは襟ぐりが割と開いていて、夕暮れ時にもなるとディディエは寒そうに体を震わせていた。
……他の女だったら抱きすくめてあたためてやれば済んだのに、ディディエが相手だとそんなことは軽はずみにできなくて、結局俺が着ていたコートを貸してやった。かなり拒否されたけれど、ほぼ無理矢理着せてあのサロンまで戻った。
サロンの店主はどこか意外そうに目を瞬かせながら俺たちを迎え入れた。その反応が少しばかり癪だったけれど。
ディディエは制服に着替え直して戻って来た。あのままでは屋敷に戻れないと言うから……。でも、あの服と靴はそのまま受け取らせた。俺が持っていても仕方がない。
「楽しかったか?」
帰りの馬車から降りて屋敷までの道のりを歩きながらディディエに訊ねる。ディディエははい、とうなずいた。夕暮れの色がディディエを照らすから、ディディエが頬を染めているように見えた。