Ⅶ
長引いた雨が途端に降らなくなり、暑い夏が訪れる。
ディディエに青い薔薇の話を聞かされてから、庭に咲く薔薇たちへの愛着が俺にも湧いていた。
強い日差しの中で開いたばかりの薔薇の株を眺めていると、垣根を越えてウスターシュが現れた。ウスターシュは背もそれなりに高く、精悍な顔立ちをしている。無口で愛想がいいとは言えないけれど、腕は確かだから父も母もウスターシュのことは気に入っていた。
「やあ、ウスターシュ」
俺は彼に笑いかけた。でも、ウスターシュは軽く会釈をしただけで愛想笑いすら浮かべない。ニコルを失ってからは特にそうだ。
年季の入った道具箱を地面に下ろすと、カチャカチャと剪定ばさみなんかの道具をいじっている。いつも俺には見向きもしない。
でも、この日はふと俺の方に視線を向けた。
「……レナルド様」
ぼそ、と小さな声で俺を呼ぶ。せっかく顔立ちも整っているのに、ウスターシュは少し陰気だ。ニコルもディディエも朗らかなのに。
「うん?」
俺が小首を傾げてみせると、ウスターシュは眉根をきつく寄せた。それが解けた時には深々と嘆息する。
「……いえ、いつも娘がお世話になっております」
きっと、言いたかったのはそんなことじゃない。それがわかるのに、踏み込んではいけないような気になった。
ウスターシュ自身がその先を拒絶している。わけがわからないながらにそれだけを察した。彼自身が考えを整理し、自分から言い出すまで待った方がいいのだろう。
「いや、俺の方こそディディエには助けられてばかりだ」
それは俺の心からの言葉だったけれど、ウスターシュはあまり嬉しそうでもなかった。建て前でやり過ごした、そんな印象だった。
気まずさから、俺はウスターシュの作業に目を向けた。美しく咲いた薔薇の株なのに、下の方から伸びた枝をぷつりと切り離す。
「何故その枝を切るんだ?」
思わず訊ねると、ウスターシュは作業の手を止めずに答えてくれた。
「これはベーサルシュートという若枝なのですが、早めに切り戻してやらなければ水分と養分を取りすぎて他の枝の生育の妨げになるのです」
気ままに伸ばすだけではいけないんだ。全体のバランスを見て剪定してやらなければ、薔薇の美しさは保てない。そういうことか。
俺がウスターシュの説明に納得していると、そこへ俺を探しにディディエがやって来た。夏物の制服だ。半袖から伸びた腕はブラウスの白に負けない艶やかさをしている。
「レナルド様、昼食の支度が整いましたよ」
ニコニコと微笑む彼女に、ウスターシュも目を向けた。でも、ウスターシュはそんなディディエにも笑いかけることをしなかった。
「もうそんな時間か」
「ええ」
ディディエは俺にうなずくとウスターシュに笑いかけた。仕事中だと思うからか、ディディエの方も父親に多く言葉はかけなかった。
「お父さん、じゃあまた」
「……ああ」
その陰鬱な返事と視線に、俺は少し複雑だった。
✤✤✤
本来なら開放的になるはずの夏の間も、俺は馴染みの女のところに足を向けることはなかった。何か、そこへ行き着くまでの道のりがひどく億劫に思えた。少し行かなくなっただけで行きたいと思えなくなったんだから不思議だ。
彼女は俺に他の女ができたとでも思っただろうか。それとも、俺を貞淑に待ち続けているんだろうか。
女心なんてどうせ俺には理解できない。
それ以外の外出も極端に減った。体裁上仕方のないところに顔を出すだけだ。スティードは時々やって来るけれど、そのことに関しては何も言わない。むしろ以前が派手だっただけで、それくらいが好ましいとでも思っているんだろう。
ただ、リュファスやポレット嬢は俺が顔を見せないことに不満の声を零しているとだけ教えてくれた。そんなことはどうでもよかったけれど。
屋敷にこもる日々が続き、いつの間にか秋の入り口を越えていた。
燦々と輝く夏の間にもウスターシュは薔薇の育種に明け暮れていた。それでも、まだ青薔薇を咲かせることができたとは聞き及ばない。ニコルが亡くなって七年――焦りはないのだろうか。
少しずつ、夏の夜のように明るい空ではなくなった。暗くなるのが早い秋の色だ。木枯らしが落ち葉をすくい上げる。
俺は屋敷の部屋から街の情景を眺めていた。街灯の明かりは点々とあるものの、すっかりと寒々しい闇色に染まって行く。
そこでふと気づいた。
ディディエはどこだろうか? 今日は買出しに出かけると言っていた。こんな時間まで帰っていないとは考え難いけれど、ディディエなら戻れば真っ先に俺のところへ報告に来る。それが……まだ……。
ゾッと血の気が失せた。まさかとは思うけれど、もしまだ帰っていないのだとしたら?
俺はその考えを打ち消してくれるものを探して部屋を出た。扉を閉めたかどうかも覚えていない。こんなにゆとりのない自分を感じたのは初めてだった。
「ディディエを見なかったか?」
行き会ったメイドの一人に訊ねる。俺に道を譲って頭を下げていたメイドは、急に声をかけられて驚いた風だったけれど、ぎこちなく答えた。
「い、いえ。まだ戻って来ていないのでしょうか。門限を破るような娘ではありませんし……」
そうだ。だから、戻って来られない何かがあったんじゃないだろうかと考えてしまう。
こんなにも薄暗くなって、年頃の娘が荷物を手に一人で歩いている。悪意のある連中に路地裏に連れ込まれたりでもしたら――。
目の前が白むような感覚がする。早鐘を打つ心臓が硬く縮んだような気がした。
俺はリュファスからの手紙を開封すらしなくなっていたけれど、あそこには何が書かれていたんだろう?
今になってそんなことを思った。ディディエのことを諦めきれないなんてことがもし書かれていたのだとしたら? 屋敷のそばでディディエが一人で出歩く時を待っていたのだとしたら?
そのメイドに言葉もかけず、俺はそのまま廊下を走り去ろうとした。その時、階段を極力走らないように、それでも慌てて上がって来たディディエに出くわした。茶色の紙袋を手に俺を見上げている。
「あ、レナルド様、遅くなって申し訳ありません!」
パッと、輝くように笑った。その笑顔には一点の曇りもなくて、何事もなく無事に帰って来たんだと俺はようやく息をつけた。
リュファスが一度すれ違っただけのメイドにそこまでの執着をするなんて、俺の取り越し苦労でしかなかったのかも知れない。あんなに執拗に手紙を送って来たのは、以前みたいに俺に女遊びにつき合えって意味だったんだろう。ディディエが絡んで過敏になっていたのは俺の方だ。
でも――。
それがわかっても心は晴れない。ディディエが自分の身を危険にさらすような真似をしたことに変わりはないからだ。
トントントン、と軽快に階段を上り、俺のところへやって来たディディエから、かすかな甘い香りがした。何か、それが苛つく。
そんな俺たちの隣をさっきのメイドが会釈して過ぎ去って行った。ディディエは幸せそうな笑顔で俺を見上げている。のんびりとハネを伸ばせて楽しかったんだろうか。その笑顔に腹が立つんだ。
心配した分だけ、余計に。
ディディエは紙袋をカサリと鳴らした。
「レナルド様、あの――」
俺は弾む言葉のその先を冷めた気持ちで遮る。
「ディディエ、こっちへ」
ぐい、と乱暴にディディエの腕を引いた。制服の下の柔らかな二の腕に指が食い込む。俺の態度にディディエは目を丸くしたけれど、俺はそのまま早足でディディエと部屋に戻った。
扉を乱暴に閉めると、ディディエの腕を投げるように放した。けれど、そのままディディエの肩を両手でつかみ直した。ディディエの髪が大きく揺れる。
驚いたディディエは小さく悲鳴を上げ、持っていた紙袋を床に落とした。俺はそれに目を向けることもなくディディエを揺さぶる。
「こんな時間まで出歩いて、何かあったらどうするつもりなんだ!」
ビクッとディディエが体を強張らせたことが繋がる手の平から伝わる。今までこんな風に怒鳴ったことなんてなかった。それはディディエが俺を怒らせるようなことはして来なかったからで、俺も怒り慣れていなければ、ディディエも怒られ慣れていない。カタカタと震えている。
「あ、の……」
何かを言おうとする。でも、それを言葉にしようとすると涙が溢れるようだった。大きな瞳に溜まる涙の粒。ディディエの涙を見たのはいつ以来だっただろうか。
でも、ディディエは素早くうつむいてその涙を隠した。
「申し訳ございません」
言い訳はしなかった。謝罪の言葉だけがはっきりと俺の耳に届く。
その時になって俺はようやく少しだけ冷静になれた。ズキズキとこめかみの辺りが痛み出すのは罪悪感だろうか。俺は間違ったことは言っていない。それなのに、どうしてこんな気持ちを抱くはめになったのかがまるでわからない。
帰りが遅いと言って怒るのは父親のウスターシュの役目だろう。どうして俺が父親みたいなことをしているんだろう。そう思ったら妙に気まずい。
このままではいけないと、それだけは思った。だから俺は手の力を抜くと、なるべく柔らかい声音を意識した。
「……なんでこんなに遅くなったんだ? 心配をかけるとは思わなかったのか?」
すると、ディディエは言い淀んだ。何か疚しいことでもあるのかと俺がいぶかった瞬間に、ディディエの視線が床に落ちた紙袋に向いた。
その視線を辿って俺が見たものは、破れた袋から飛び出して床に散らばった焼き栗だった。固い殻が弾けてほっこりとした黄金色の実が顔を覗かせている。一瞬嗅いだ甘い匂いの正体はこれだ。
「並んでいたら遅くなってしまいました。初物だからみんなこぞって買いに来ていて……それを見ていたらレナルド様にも召し上がって頂きたくなってしまって――」
ぼろ、とこぼれた大粒の涙が絨毯の上に落ちた。
その瞬間、俺の中に芽生えていた罪悪感は更に肥大した。ズキズキと頭が痛む。
つまりは、俺を喜ばせようとしてのことだったと。それを俺は頭から叱りつけて泣かせた。そういうことになる。
俺が人の気も知らないでとディディエに感じた怒り。ディディエの、俺のためを思っての行動を否定された悲しみ。ふたつの気持ちはこの無残に散らばった焼き栗のようだ。
危ないのは事実だ。こんなことは二度としてほしくない。だけど、めったに泣かないディディエがこうして傷ついたような様子を見せたことに、俺はとんでもないことをしてしまったような気になった。
ディディエが悪いと思う気持ちもなくはないけれど、嬉しくなかったわけじゃない。俺はディディエの頭に手を置くと、そっと愛しむように撫でた。
「それでも日が暮れてからの一人歩きは若い娘には危険なんだ。これからはもっと気をつけてくれ」
「はい……」
ひく、としゃくり上げる。そんなにもうつむくから、白いうなじに目が行く。ひどく落ち着かなくなって、俺は床に散らばった焼き栗をなんとなく見遣った。ディディエはそれに気づいて慌てた。
「すぐに片づけます」
屈み込んで焼き栗を拾い出したディディエの正面に俺も膝をつくと、そのうちのひとつに手を伸ばした。焼き栗はまだあたたかかった。焼き栗についた絨毯の屑を軽く払うと、俺はそれを齧った。
「レナ様!」
とっさに昔の呼び名が出た。それくらい、ディディエは驚いたのかも知れない。落ちたものを口に入れるなんて、普段の俺からは考え難かったのか。
それでも、俺のために寒い中を並んで手に入れた焼き栗。このまま捨ててしまうのは、ディディエの心に深い傷を残すようで……。
「うん、甘くて美味いな」
いつもよりは少しぎこちない笑顔だったかも知れない。でも、ディディエはそれでも笑い返してくれた。 涙の跡の残る笑顔は、今まで見たどんなものよりも俺の心の奥深くに食い込んだ。どくり、と鼓動がひと際大きく感じられたのは、明らかに予兆だった。
でも俺は、まだ認めたくなかった。