Ⅵ
それから数日。外は今日も雨だった。
俺は自室の窓辺に腰かけて外を眺めていた。詩集を手にしているのは形ばかりで、文字を追うよりも窓を伝って流れて行く雨に気を取られていた。
いや、正直に言うと、それすら目に入っていなかったのかも知れない。この雨のせいか気持ちが塞ぐ。
あのルキエ家の誕生パーティーの後からずっと、気分が晴れないままだ。
あの後、上の空でポレット嬢と一曲だけ踊った。でも、気がそぞろなのはポレット嬢にも伝わってしまっただろう。普段ならもっと卒なく捌けた。
それでも苦情を受けつける気はなく、終わって早々に気分が優れないと屋敷を去った。馴染みの女のところに行く気なんてとっくに失せていて、一直線にディディエの待つ部屋に戻った。
予定よりも随分と早い俺の帰宅に、ディディエは諸々の支度が整っていない風だった。それでも嬉しそうに迎えてくれたディディエに、俺は罪悪感のような気持ちを抱いた。スティードの言葉が耳から離れない。
「お早いお帰りですね」
「ああ。退屈だから抜け出して来た」
「まあ、レナルド様ったら……」
と、ディディエの目は俺を咎めるようだった。そんな仕草がまるでニコルそのもので、俺は思わず苦笑してすべてをうやむやにした。
色々と考えなければならないことがある。そう思っているつもりが、気づけば時間を浪費するばかりだ。頭が考えることを拒否しているような――何について考えるべきだったのかと。
そうしていると、部屋の扉がノックされた。
「レナルド様、紅茶をお持ちしました」
「ああ、ありがとう」
カートを引いてディディエが室内へ入って来る。一瞬、扉を閉めるために背中を向けられた瞬間に心がかすかにざわついた。
でも、再びこちらを向いてにこりと微笑むディディエを見たら、その一瞬のざわつきは幻のように消えた。
俺はほっとしてつぶやいた。
「よく降るな」
「ええ、本当に」
詩集をマントルピースの上に置くとソファーに移る。小さく音を立てて茶器を扱うディディエに俺はソファーから声をかけた。うつむき加減のその顔に、違和感を覚えたから。
「ディディエ、紅茶は後でいいから少しここに座れ」
と、俺は自分の座った藍色のソファーを叩く。ディディエは俺の命令が急に思えたのか、困惑した様子だった。
「紅茶が冷めてしまいますよ?」
「冷めてもいいから」
口調を強めると、ディディエは渋々俺の隣に座った。丸い膝がこちらに向く。そこで一瞬の違和感が決定的になった。
向かい合うと俺は目を細める。
「顔色がよくないな」
「え?」
「体調が悪いなら何故そう言わない?」
すると、ディディエはそれをごまかすように両手を振ってみせた。
「そんな……動けないほどじゃありませんから、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」
我慢強くて、無理をして逝ってしまったニコル。もうあんなことはたくさんだ。
「俺がいいと言うまで少し休め」
ディディエまで連れて行かないでほしい、とニコルに祈るような心境だった。
でも、ディディエは俺の気持ちなんて知らずに強情だった。
「本当に、少し頭痛がするだけなんですよ。きっとこの雨のせいです。雨が上がれば治ります。これくらいの体調不良、みなさん我慢して働いてらっしゃるのですよ?」
それは、ディディエの言う通りなんだろう。使用人たちは体調が悪くてもそれを押し通して働いている。簡単に仕事に穴を空けていてはいつ放り出されるかわからないのだから。
俺も他の使用人がつらそうにしていたとしても、そこまで気に留めなかっただろう。ディディエだから、放っておけなかったんだ。
わかってはいる。ディディエは俺が甘やかせば、その特別扱いを使用人仲間たちに申し訳なく思うんだろう。
でも、それでも俺はディディエの頭を自分の膝に押しつけた。きゃ、とディディエは小さく声を上げた。
「俺はニコルに返せないほどのぬくもりをもらったから、お前に甘くなるのはニコルのせいだ」
こんなところで名前を出して、ニコルは怒るかな。理由――言い訳にするなって。俺がただ単に無理をするディディエを見ていられないだけなのに。
ディディエは少し笑ったような気がした。顔は見えないけれど、膝から伝わる振動がくすぐったくてそう思った。
雨の音がザアザアと聞こえる。でも、逆に言うならそれだけだ。雨の音は静寂よりもこの空間に気まずさを感じさせた。雨音は心をざわつかせる音だと思う。俺はその雨音を遮るようにして口を開く。
「そういえば、ニコルの墓に備えてあった薔薇のことなんだけどな――」
とっさに出た話題がそれだった。頭痛で喋るのもつらかったなら、また今度と言ってくれてもよかったんだ。でも、ディディエはそっと教えてくれた。
「あの薔薇たちは父の、母への報告なのです」
「報告?」
予想していなかった答えに、俺は余計に混乱してしまった。ディディエはささやくように続ける。
「はい、薔薇には青色が存在しませんよね。父の目標は、いつか青い薔薇を咲かせること。あの薔薇たちはその成果なのです」
なるほど、だから報告なのか。
国中の専門家が目標とする青い薔薇。ウスターシュも例に漏れず青い薔薇の実現を夢見ているようだ。そうして、ニコルはそんな夫をそばで励まし、支えていた。
そのニコルが亡くなった時、ウスターシュはそれでも青い薔薇を咲かせてみせるとニコルの墓前に誓ったんだろう。それがウスターシュの生きる目的のひとつになった。
「そうか。いつか咲くといいな……」
自然とそんな言葉が零れた。
他の誰かが同じことを言ったなら、俺はどうしただろう。薔薇に青色が存在しないことにはなんらかの意味があるんだとか、ないものを作り出そうとするなんて傲慢だとか、皮肉なことを言ったかも知れない。でも、それがディディエたち家族の願いならば心から応援したいと思えたんだ。
そんな俺の膝の辺りでディディエが苦笑した。
「母は、青薔薇が存在しないとは決して言わなかったのですよ」
「え?」
「自分たちが見たことがないもの、触れたことがないものは存在しないのだと決めつけてはいけない。太古の昔に絶えてしまっただけで、本当は存在していたのかも知れないって」
自分の世界だけがすべてではない。自分の知っていることだけをすべてと決めつけるのは、世界を狭めることだ。前向きなニコルらしい。
あり得ないもの。
不可能。
それを決めたのは誰だ。俺たち人間だ。
自分たちの可能性を自分たちで狭め、見極めている。青い薔薇への挑戦は、決して無駄ではないのだろう。
ニコルの言葉は、ウスターシュの背を強く押したはずだ。不可能と決めつけることなく挑戦を続けられるのは、そのおかげなのかも知れない。
二人の絆がいつか幻の青薔薇を実現させることができたらいい……なんて、いつになくセンチメンタルなことを思ってしまうのは、ディディエのせいだ。二人の夢は娘のディディエの夢でもあり、その薔薇が咲いた時、きっと輝くように笑うのだろうと思えるから。俺はその笑顔が見たいんだ。幻の青い薔薇よりもそれは、俺にとってよほど価値のあるものだから。
一人苦笑し、俺はディディエの滑らかな髪を撫でた。雨はいつまでも降り止まなかったけれど、外へ出かけない口実になるのならそれもいいかと思えた――。
それからしばらくして、何度かリュファスから手紙をもらった。雨ばかりで気も塞ぐだろうから、よければ遊びに行こうかとか、珍しい絵が手に入ったから見に来るといいとか。
でも、何を書かれていても俺にはあいつがディディエを狙っている風にしか思えなかったから、そんな手紙はすべて握り潰して返事をしなかった。途中からは読むことすらしなくなった。そのうち、リュファスからの手紙は途絶えた。