Ⅳ
そうして、その二日後、俺は町に繰り出していた。明日出かける予定のパーティーのために新しいカフスを新調していて、それを受け取りに行ったんだ。
ディディエは一人で受け取って来ると言ったけれど、俺も特に用事があるわけじゃなかったから、のんびりと二人で出かけた。とは言っても、実際に歩くわけではなくて馬車での行き来に過ぎない。せっかくだから、帰りに何か焼き菓子でも買ってやろう。
もう子供じゃないって感じたばっかりなのに、子供扱いしていると思わなくはないけれど、ディディエは甘い焼き菓子が好きだから。幸せそうに食べるところを見るのが好きなんだ。
大通りの宝石店で美しい螺鈿とラピスラズリのカフスを受け取った。よく似合うとしつこいくらいに言う女性店員に微笑んで店を出た。
洒落た服を誇らしげに着こなす紳士淑女が道を行き交う。
「あれ? レナルド様、どちらに行かれるのですか?」
馬車が待つ方向とは反対側に歩いた俺の後をディディエが慌ててついて来る。俺はそんなディディエに笑って言った。
「うん、いい匂いがしないか?」
甘いキャラメリゼと焦がしバターの香り。ディディエが気づいていないわけはない。
「ま、まあ……」
と、ディディエは言い難そうに目をそらした。
「たまにはいいだろう。買って帰ろう」
ディディエはパッと顔を輝かせて笑うと思った。けれど、実際は――。
「なんでそう難しい顔をする?」
しかめっ面をする。それは珍しいほどの苦悶の表情だった。甘いものは好きなのに?
「え、そんなことは……」
ないとでもいいたいのか、その顔で。
「まあいい、行くぞ」
風上の方へ向かうと、大通りの一角にパン屋があった。道行く人々の目に留まるよう、商品がずらりと並んでいる。甘い匂いは正直なところ、俺にはむせ返るほどに感じられたけれど。
ディディエをちらりと見遣ると、やはり困惑顔だった。何がそうさせるんだろう、と俺はいぶかしんだ。
「好きなものを選んでいいぞ。買ってやるから」
そうしたら、やっぱりディディエはえ、と声を濁らせた。
「わ、私は食後なのでお腹が空いては――」
「後で食べればいいだろう? せっかくなんだし」
喜ばせたかったのに、何か俺の方が意地になっていた。ディディエは綺麗に飾られたデニッシュやタルトを前にうんうん唸っている。愛想のない店員は早く注文を決めてほしそうだった。
そこで俺はふと、先日のやり取りを思い出した。まさかとは思うけれど――。
「食べたら太るから、とか言わないよな?」
ギクリ、とディディエは肩を震わせた。その、まさかだ。
こんなに気にすると思わなかったから、不用意なことを言ってしまったらしい。でも、そんなことを気にするディディエを可愛いと思う。やっぱり女の子だ。
「この間のことなら冗談だ。悪かったよ」
「慰めは要らないですよ!」
クスクスと笑ってしまったせいか、ディディエは怒ったように頬を膨らませる。
俺は陳列棚の中からダークチェリーの乗ったデニッシュとオレンジピールとナッツをふんだんに使ったパウンドケーキ、綺麗な焦げ目のついた丸いエッグタルトを注文した。茶色の紙袋に詰まったそれをディディエに押しつける。
「お前はそれくらいが丁度いいんだ。痩せたりしなくていいから」
実際、社交場の令嬢たちの体は不自然だ。コルセットで締め上げた腰、押し上げた胸、どこもかしこも無理があって、見ていてつらい。食事を抜いてまで細くなろうとする女よりも、多少肉づきがよくても幸せそうに食べる女の方が魅力的だと思う。ディディエには笑っていてほしい。
「……レナルド様はお優しすぎます」
ぽそ、とディディエが照れたようにうつむいてそんなことを言った。俺にとってはすごく意外なひと言で、正直耳を疑ってしまったけれど。
「よし、帰るぞ」
苦笑して言うと、ディディエはにっこりと笑った。
「はい」
そうして馬車まで戻る短い道中、俺たちはある男と出くわした。――リュファスだ。
侯爵家の三男坊。まあ、道楽息子って言ってしまえばそれまでだ。そこはお互い様ではあるけれど。
「レナルドじゃないか!」
赤茶けた髪を揺らして駆け寄ると、大仰に俺の肩を叩いた。そんな仕草はディディエには親しげに見えただろうか。
正直に言うと、何度かこいつの女遊びにつき合わされただけで特別親しくもない。
十人並みの容姿に無難なセンスの服。侯爵家とはいえ三男坊ではさして魅力もないらしい。こいつだけでは女は寄って来ない。
ディディエに余計なことを言わないだろうかと俺は気が気じゃなかった。けれど、ディディエの手前、あまり口汚い言葉も使えない。なんとか適当にあしらいたい。
「ああ、リュファス、君も明日のルキエ家の誕生パーティーには招かれているんだろう?」
心で罵りながら、にこりと微笑む。リュファスはそんなことに気づかない。
「もちろんだ。君もその支度かい?」
「そうだ。もう用を済ませて帰るところだけれど」
にこにこと笑顔で俺は急いでいることをアピールする。リュファスはなんとかそれを察してくれたのかも知れない。
「そうか。じゃあまた明日な」
そのひと言に、俺はほっと嘆息した。そうだ、明日また嫌でも顔を合わせるんだから、今話さなきゃいけないことなんてない。
ディディエは俺の背中からそんな心境を読み取れなかっただろう。ちらりと見遣ると、ディディエは愛想よく微笑んでいた。
「じゃあ、明日」
そう言って、俺はディディエの肩を抱いて――というよりも背を押すようにしてリュファスの隣をすり抜けた。ヤツの視線が一瞬ディディエに止まったけれど、俺はとにかく先を急いだ。
✤✤✤
翌日、俺はディディエに身支度を手伝ってもらった。ルキエ家の令嬢ポレットの誕生パーティーだ。ポレット嬢とは社交場でもよく顔を合わせる。
細身の体と黒の巻き毛、美人と呼べる範囲で、まあ気位はそれなりに高い。腐るほど贈り物をもらうはずだから、俺はディディエの父親である庭師のウスターシュに頼んで豪華な花束を作ってもらった。
色とりどりの薔薇が豪華に連なった花束は、貴族令嬢の誕生日プレゼントとしても不自然じゃないだろう。宝石やドレスのような身につけるものは贈らない。そんなものを贈れば自分に気があると解釈するだろうから、面倒なだけだ。
ウスターシュから受け取って来てくれた花束に埋もれているディディエ。花束に運ばれているようだと可笑しくなる。淡いピンクの薔薇がディディエにもよく似合って見えた。
そこでふと、俺はニコルの墓前の薔薇を思い出した。鮮やかさのない曖昧な薔薇の色……。
「なあ、ウスターシュはニコルの墓にいつも色の薄い薔薇を供えているな。あれは故人に向けるものだからなのか?」
でも、ニコルの朗らかな人柄にはもっと明るい色の薔薇が似合うと思えた。
俺の質問に、ディディエは複雑な面持ちになった。どう説明したものかと考えている風だ。
「すみません、その話は少し長くなってしまいますので、またお時間にゆとりのある時にでも。ほら、遅刻してしまいますよ」
ハッとして俺もジャケットの上着から懐中時計を取り出して見た。確かに、もうそろそろ行かなければ。
「うん、じゃあそのうちにな。行って来る」
「はい、行ってらっしゃいませ」
ぺこりと頭を下げたディディエに微笑むと、俺は部屋を出て廊下を早足で進んだ。頭を下げている使用人たちに特に目を向けるでもなく、ただ外を目指した。
入り口ですぐに控えていた屋敷のお抱え御者に送られ、ルキエ家へと向かう。同じ一等地の中ではあるけれど、徒歩で行くには少し遠い。
カラカラと車輪が回る音を聞きながら、車内の花束を見遣る。ウスターシュほど腕のいい庭師はなかなかいないだろうな。彼の育てた薔薇はいつ見ても見事だった。
そんな腕のよい庭師の彼が想いを込める薔薇の意味は――。




