Ⅲ
そうして、やっぱりディディエはニコルの娘だから、日増しに似たところも出て来た。朝が弱い俺を起こす時なんかは容赦ない。少し舌っ足らずに、執拗なまでに俺を呼ぶ。
「レナルドさま、レナルドさま、今日はご学友のスティードさまとお出かけになると仰っていたでしょう? 起きて下さいまし」
起きているつもりなんだが、体と頭がついて行かない。そういうのは起きているうちに入らない、とディディエは俺が上半身を起こすまでは諦めない。
「起きている……」
つぶやくと、少し困ったような声が返る。
「起きていらっしゃるのなら、早くお顔を洗って下さいな。朝食の支度をさせて頂きますので」
にこ、と笑う顔立ちはあどけない。ディディエには社交界の令嬢たちのような洗練された華やかさはなくて、可愛らしいという表現がよく合う。……なんて、それは俺のひいき目で、本当はただの田舎くさい子供なのかも知れない。
でも、俺には可愛い妹分だ。
「わかってるよ」
苦笑しつつ、名残惜しいけれどベッドを抜ける。言われた通りに顔を洗い、出されたシルクのシャツに着替えている間にディディエは向こうの部屋でテキパキと朝食の支度を整えてくれた。短い間に手慣れたものだ。
料理長自慢のふんわりとしたオムレットと、かすかな甘みのある香ばしいクロワッサン。野菜が綺麗に盛りつけられたサラードにさっぱりとしたビネグレットソースがかかっていた。
俺に椅子を引き、ディディエはにこにこと愛想よく俺に給仕してくれる。注いでくれた紅茶の香りで目が覚めた。
「今日もお帰りは遅くなるのですね?」
「ん、待たずに休んでいるようにな」
「そういうわけには参りません。何時であろうとお待ちしております」
健気にそんなことを言う。けれど、本当に先に休んでいてくれたら、どれほど気が楽だっただろうか。でも、そんなことは言えない。
「そうか。なるべく早く帰るけれど……」
言葉を濁してオムレットを頬張る。俺の心中は複雑だった。
学友スティードは、四角四面で面白くもなんともない男だ。だから、本当はヤツには会わない――。
「待たせたな」
俺は柔らかな日差しの中、レースで縁取られた日傘を差した女性に声をかけた。端整な横顔が振り向く。
金髪を流行の髪型に結い、純白のワンピースを優雅に着こなしている。大きなリボンが子供っぽく見えるようでいて、彼女の嫣然とした微笑みにそうした印象が払拭される。
「本当に、女性を待たせるなんて失礼だわ」
作り物めいた緑が彩る公園のベンチのそばで、彼女、カミーユは拗ねた仕草をしてみせる。それが男にどう映るのかを熟知していると思わせた。
俺はこの時十七になっていた。そんな年にもなれば女に興味があっても不思議はない。カミーユは同い年。古美術商を営む父親を持つ。出会いは町のカフェだった……確か。
俺とカミーユはベンチには座らなかった。むしろ、茂みの裏で座り込んで他愛のない話をした。でも、そんな会話はどっちもおざなりだ。カミーユの勝気な瞳が俺を見つめる。何を望んでいるのかすぐに知れた。
手を伸ばして抱き締める。形だけの拒絶を一度して見せるカミーユに、少し乱暴なくらいのキスをする。それを待っていたカミーユは、絡みつくように俺を求めた。日の高いうちの公園で、いつ誰が覗くかもわからないと思うことがかえって彼女も楽しかったんだろう。清純そうな装いは上辺だけ。カミーユはそんなヤツだ。
でも、俺も大差ない。カミーユ以外にもこういう相手はいる。別に誰か一人が特別なわけじゃない。ただ、女が持っている柔らかい癒しが、すさんだ家の中の自分の立場を忘れさせてくれるような気がした。
たったひとつの難点は、部屋に戻る時がほんの少し心苦しかったこと。純真無垢なディディエが俺の帰りを待っている。仕事で疲れているのに、眠たい目を擦りながら。
それがなければ、もっと平然と朝帰りくらいはやって退けただろう。
こんな俺でも、この部屋へ戻る時はどんな女のことも忘れてディディエと接した。女の残り香が消えてから戻ると、平然と嘘がつけるようになって、純粋なディディエには俺の嘘なんか見抜けない。
罪悪感はなくもないけれど、どうせいつかは親が決めたつまらない女を妻に迎えなきゃならないんだから、今くらいは自由にしていたい。
女たちとは後腐れがないように心がけていたけど、しつこくされると興醒めして途端に冷たくあしらってしまったこともある。
そうした俺の裏の顔を知ったら、ディディエの笑顔は凍りつくかも知れない。純粋な尊敬は音を立てて崩れるのかな。ニコルにはきっと、こんな俺はすごく怒られるんだろうな。
✤✤✤
そうした日々が繰り返され、ニコルが亡くなってから七年もの歳月が流れた。
当たり前のように繰り広げられる日常。ニコルがいないことに、俺たちは慣れて行く。
どんなに大好きで大切な人だろうと、喪失には忘却という救いが用意されている。けれどそれは故人にとってはとんでもなく悲しいことなんじゃないだろうか。そう思わなくはないけれど、そうしなければ遺された者は苦しくて生きられないんだ。
晩春のニコルの命日に、俺とディディエはそろって墓参りに行く。ディディエの父親のウスターシュは毎年自分で育てた大輪の薔薇を墓前に供えていた。年を重ねるごとに色が抜けて行くようだった薔薇たちは、今年は逆に色づいて見えた。薄っすらと黄色がかった薔薇は美しかった。
集団墓地の一角。青空がどこまでも続く。緑の中に埋もれる石碑に、俺は色々と詫びるばかりだった。ニコルの『レナルド様ったら困ったお方ですわね』という苦りきった声が聞こえてきそうな気がした。
あまりに真剣に黙祷を捧げる俺をディディエが不審に思っているような視線を感じた。ハッとまぶたを開くと、黒いワンピースのディディエが微笑んでいた。
「母にたくさん報告があったのですね」
俺は思わず苦笑する。
「まあな。お前はどうなんだ?」
私ですか、とディディエは明るく笑った。
「レナルド様のお世話がちゃんとできているのか心配ですけど、これからもがんばりますと報告しました」
いつからか、ディディエは俺のことを『レナさま』とは呼ばなくなっていた。そうした呼び方は立場上相応しくないと思うようになったんだろう。俺自身はディディエにそう呼ばれることが嫌いではなかったから、少し寂しくはあったものの、ディディエが決めたことなのでそれを許した。
俺はディディエの頭をくしゃくしゃと撫でる。とにかく健気なんだ、ディディエは。
「では、そろそろお屋敷へ戻りましょうか」
そう言って俺に背を向けたディディエ。仕事中とは違い、束ねていない少し癖のある長い髪が背中で揺れる。俺はその後姿に、ふと思ったままのことをそのまま口にしてしまっていた。
「お前、少し太ったんじゃないか?」
ディディエは、ええっと大声を出して振り返った。顔はショックで固まっている。
「そ、そんなことはないとは言えませんが……そんなに気になるほどひどいですか?」
俺は自分の発言のまずさに気づいた。けれど、反省するどころか更に苛めてやりたいような気分になる。
「いや、いいんじゃないか。ニコルもなかなか豊満だったし、段々似て来たな。ほら、一番似てるのは胸の大きさかも知れないぞ」
見る見るうちに耳まで真っ赤にしたディディエは、とっさに自分の胸を両腕で隠すような仕草をした。よく膨らんだ胸が余計に強調される。
……ああ、太ったというよりも年頃になって女らしい丸みが出て来たって言った方が正しいのかも。後ろから見ると、腰のラインが――。
なんて思いながら、俺は苦笑した。それでも、ディディエはディディエだ。ニコルの忘れ形見の俺の乳兄妹。赤ん坊の頃からよく知ってる。
体つきが女らしくなったって、俺の中では小さな子供のままだ。実際に、体つきとは反比例して色気があるとは言えないし。男を意識したことなんてないんじゃないかな。
こんなことを言われたくらいで顔を真っ赤にして言葉を失うくらい初心なんだから、子供と同じだ。
でもまあ、年頃の娘になったんだよなぁ――なんて、俺はぼんやりと思った。それはきっと、認めたくない現実の一部だった。
ディディエが大人になるように、俺も年を重ねた。もうそろそろ身を固めろと周囲がうるさい。あの馬鹿みたいに生真面目なスティードも結婚して何年目だったか……。
あいつに似合いの地味な細君。でも、とても大切にしているのが伝わる。仲睦まじい二人は、俺には全く理解できない生き物のようだった。……まあ、俺はあんな風にはならない、なれないんだろうけれど。