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エンシェント・ブルーローズ  作者: 五十鈴 りく


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2/19

 ニコルがいない。二度と会えない。


 それでも、俺の暮らしに変わりはない。同じ屋敷、同じ部屋で過ごす。

 ただ、その部屋を訪れる人間が一人減っただけ。この部屋の絨毯を踏み締めるのは、今や俺とディディエの二人だけだ。


「レナさま……」


 ディディエは部屋の中央で不安げに俺を見上げた。

 ブカブカのメイドの制服。袖を折ってまくるけれど、細すぎる腕だからすぐにまた落ちて来る。紺のスカートの裾も長すぎて不恰好だ。フリル付きの白いエプロンの紐も肩からずり落ちそうに見える。けれど、それ以上小さなものはすぐには用意できなかった。


 俺の身の回りの世話をしてくれていたニコルが亡くなって、俺はこの短期間で世話役を何人変えただろう。誰も彼もそばにいると息が詰まって耐えられなかった。だから、ディディエをニコルの後に据えた。


「ディディエ、よろしく頼むな」


 俺が笑いかけても、ディディエの強張った顔は変わらなかった。

 ニコルの手伝いをしていたディディエは、仕事の流れはよくわかっているはずだ。それでも、一人は不安なんだろうか。


「あの、本当に私でよいのでしょうか?」


 しょんぼりと眉を下げてそんなことを言う。


「うん、俺はお前がいいんだ」


 はっきりとした言葉で伝えてやると、ディディエは少しだけ表情をゆるめた。緊張は続いていたけれど、顔に朱が差す。

 そうして、俺のそばには常にディディエがいるという状況が出来上がった。


 ただ、俺の目線は主人のもので、使用人たちからディディエがどんな風に見えるのかを気にしてやるのが遅れた。



 ――ある朝、ディディエはなかなか俺のところに来なかった。俺の方が痺れを切らして部屋を出た。階段を下りて、ディディエを探す。闇雲に探しても仕方ない。俺は頭を働かせた。


 まず、ディディエは俺の朝食の準備をしに厨房へ料理を受け取りに行ったと考える。まだそこにいるかも知れないと思って、俺は厨房へ足を向けた。跡取り息子がそんなところへ踏み入ったと知れたら、後で両親にうるさく言われる。だから俺はなるべく人に見つからないようにして、冷たいレンガの壁に沿って廊下を進んだ。堅い石の床で足音を立てないようにして進むと、クスクスと笑う声が聞こえた。


「早く拭かなくちゃレナルド様をお待たせしてしまうでしょう?」

「愚図な子ねぇ」


 ――なんだ、これは?


 俺はドクドクと落ち着かない胸を押さえながら扉のない厨房をそっと覗いた。湿った熱気と、料理の強い匂いがした。この匂いはなんだと顔をしかめた瞬間、それの正体に気づいた。それは、床に零れたブイヨンのスープだった。大鍋をひっくり返したらしく、ディディエが必死でそれを床に這いつくばって拭いていた。石畳の隙間にまで染みて、なかなか上手く拭い切れない。

 なのに、そばにいる若いメイドたちはそれを手伝わない。ただ笑って見ているだけだ。


「お前たち、手伝ってあげないか。ディディエ一人で拭いていたら終わらないじゃないか。これ以上レナルド様をお待たせできないぞ」


 コックコートを着た料理人がディディエを擁護する。けれど、そばかすのあるメイドは意地悪く言った。


「この子がぶつかって来たから零したのよ。責任を取るのはこの子じゃない。この子、一人前の仕事を振られてるんだから、子供扱いして手伝ったりしたら悪いでしょう?」


 その含み笑いが聞こえた瞬間、俺はこのメイドがわざとディディエにぶつかったのではないかと思った。その憶測はきっと外れていない。そう確信したのは、そばにいるもう一人のメイドの発言だ。


「あなたは零したスープを拭かなくちゃいけないから、レナルド様のところへは私たちが行って来てあげるわね」


 そうだ、ニコル亡き後、俺の世話係という役を狙っていたメイドたちにとって、ディディエがどれだけ邪魔な存在なのかということに俺は思い至らなかった。


 ディディエはハッと顔を上げたけれど、何も言わずにうつむいた。うつむいた顔からぽたりと涙が落ちたのを俺は確かに見た。


「ありがとう、ございます。レナルドさまには申し訳ありませんとお伝え下さい」


 涙を飲み込んでそう言った。

 どうして、と俺は叫びそうだった。悪いのはディディエじゃないのなら、そうはっきりと言い返せばいい。どうしてそんな風に耐えるんだ?

 後で更にひどい仕打ちをされると怯えて言えずにいるんだろうか。


 そこで誰かの足音がした。俺はもどかしさを抱えながら急いで来た道を戻った。息を整え、何食わぬ顔をして自室のソファーの上でくつろいでみせた。けれど、腹の中では行き場のない感情が沸き立って、目の前のテーブルの一輪挿しを倒してやりたい衝動に駆られる。

 そんな俺のところへ、あの二人のメイドが朝食の乗ったカートを引いてノコノコとやって来た。


「レナルド様、朝食をお持ちしました。失礼致します」


 なんて媚びた声だろう。俺はイライラと二人を迎え入れた。不機嫌さを顔に出してやったら、二人は怯んだ。


「ディディエは?」

「はい、今日は仕事が間に合わないから代わってほしいと頼まれました。彼女はまだ子供ですから、こういうことも――」


 俺は笑いが込み上げて来て我慢できなかった。いきなり笑い出し、そうしてその笑いがぴたりと止んだ時、俺はディディエが感じただろう悲しみを思って二人を睨みつけた。


「代わってほしい? お前らが容易く代われるような役割か? 身の程を知れ」


 二人は声を失った。身動きも取れず固まる。

 さあ、これからどうしてやろうか。ディディエにしたようにじわじわといたぶってやろうか。そこで俺は思いついた。


「おい、どちらでもいい、今すぐディディエを連れてここへ戻れ」

「え、あの――」

「聞こえなかったのか、今すぐにだ」


 強い口調で言い放つと、そばかすのメイドが逃げ出すように外へ出た。残されたメイドは俺の方を向けずにうつむいていた。膝が震えている。でもそんなのは自業自得だ。


「失礼します」


 ディディエの幼い声が聞こえた時、俺は小さく息をついた。部屋の中へディディエが現れる。その背に、首謀者のメイドが二人。

 俺はディディエの恨みを晴らしてやれると思った。

 ディディエは胸の前で手を組み、一生懸命に話す。


「レナルドさま、あの、私は今日、粗相をしてしまって、それでその後始末があって、レナルド様の朝食が間に合わなくなってしまってしまったのです。申し訳ありませんでした」


 ディディエからは服や靴に染みついたブイヨンの匂いがした。それも熱かったんだろう。小さな手は紅葉みたいに赤くなっていた。それを目の当たりにして、俺はやっぱり冷静じゃなかった。それを精一杯落ち着けながらディディエに問う。


「なあ、ディディエ、お前は本当に俺の食事を運ぶ役割を頼んだのか? そもそも、その粗相というのはお前が悪かったのか? 誰かに苛められたりはしていないか?」


 ディディエの後ろの二人は俺の言葉に竦み上がった。こんな性根の腐った使用人は要らない。俺はディディエを守りたい一心だった。

 けれど、ディディエは困った顔をして小首をかしげた。


「どうされたのですか、レナルド様? 皆さん、私にとてもよくして下さっています。物を知らない子供の私にたくさんのことを教えて下さって、ありがたいと思うばかりです」


 その言動に一番驚いたのはきっとあの二人じゃなくて俺だった。そんな俺に、ディディエは朗らかに笑った。


「皆さんと一緒に働けて、毎日とても楽しいです」


 どうして庇うんだと訊けなかった。小さなディディエが堪えたことを俺が台無しにはできなかった。ディディエはそうしたやっかみの対象になることも含めて、俺の世話役になるという覚悟を決めたんだろうか。


「そうか……」


 俺の声が勢いを失って萎んだ。後ろのメイドたちも愕然としている。


「お前たちはもう下がれ」


 それだけを言った。本当はクビにしてやりたかった。でも、ディディエがそれを望んでいない。だから止めた。

 二人が思いきりよく頭を下げて退室した後、その足音がまだ聞こえる中で俺は立ち上がった。ぽつりと立っているディディエのそばに行くと、その小さな手を取った。


「火傷はちゃんと冷やせ」

「はい……」


 ディディエはまるで叱られたようにして項垂れた。その頭に俺は言ってやった。


「それから、よくがんばった」

「え?」


 ぱっと顔を上げたディディエの見開いた瞳に、俺はそっと笑いかけた。

 俺のわがままでディディエに負担をかけているのかも知れない。でも、やっぱりそばにいて癒されるのはディディエくらいだ。わがままでごめんなと俺は心の中で謝った。



 それから俺は気になって、ディディエがまた苛められていないかと注意深く見守っていた。けれどあの事件があったせいか、意地悪だったメイドたちはディディエに対して嫌がらせをしなくなっていた。むしろ、ディディエが難儀していたら手を貸した。


 俺が口を挟む余地もないくらい、ディディエはしっかりと自分で自分の地位を確立して行ったんだ。

 俺はまるで親みたいに誇らしかった。ニコルの娘ということを差し引いても、ディディエ個人を、こういうと大仰かも知れないけど、尊敬したんだと思う。


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