ⅩⅦ
それからも、ディディエは俺に対してどう振舞っていいのかわらかない風だった。顔を見るとうつむいて、とっさに逃げようとする。俺は手を伸ばしてディディエを背中から抱き締め、耳もとで気持ちを伝える。返事はいつもないけれど、それ以上のことはしなかった。最後の日まで待とうと思った。
切なくはあるけれど、これくらいなら待てるから。
そうして、穏やかに過ごせる日々は逃げるようにして過ぎ去る。働くと言った俺に、おじさんは仕事を割り振った。主に薪割りだ。斧なんて持ったこともなかった俺が硬い薪を割るのは容易じゃなかった。力いっぱい振りかぶれば狙いを外し、狙いを定めれば力が足らない。見かねたおじさんが割り方を指導してくれた。でも、無駄な力が入りすぎているらしくてくたびれた。手の平が擦れて、赤くなっていた。
でも、あんな量の薪はこの寒さの中ではすぐに消費してしまう。おじさんが俺に課した仕事は、この地方で暮らす人々にとっては生ぬるい量だったんじゃないだろうか。
当たり前に暖を取っていた自分の裏側にこうした苦労を誰かがしてくれていたのだと気づけた。
ここでの経験は、傲慢な俺がそれに気づく、きっと大きなものになったと思う。疲れはしたけれど、嫌ではなかった。上辺だけの貴族社会よりずっと充実した暮らしがここにはある。ここでディディエと暮らして行けたら、なんてことも思ってしまうけれど、それは逃避に他ならない。
過ぎた時のその先に現実が待つ。
父もウスターシュも容易に首を縦には振らないだろう。でも、それに立ち向かわなければディディエと共にいられないのなら、逃げるわけには行かないんだ。
その前に俺はディディエの気持ちを確かめなくてはならない。
俺はその晩、すでに勝手知ったる宿の中でディディエを探した。そうして彼女の背中を見つけたのは宿の中ではなく、外だった。窓の外の木の下にディディエの背中が見える。
雪の中、上着も着ないで外にいる。あれでは風邪をひく。俺は急いで外へ出た。
「ディディエ!」
名を呼ぶと、ディディエはびくりと肩をすくめた。そうして、慌てて顔を擦る。泣いていたんだとすぐにわかった。
そうっとこちらを向いてうつむいたディディエの表情は、外の薄暗さでよく見えなかった。
「どうしたんだ?」
俺が訊ねてもディディエは曖昧にかぶりを振るだけだった。でも、今の状況でディディエがこんな風に泣かなくちゃいけない理由が思い浮かばなかった。そこでハッとした。
「ディディエ、お前、記憶が戻ったのか?」
そうしたなら、病床で苦しむウスターシュを思って泣いていたのだと思う。
俺がはっきりとした言葉にしたせいか、ディディエはくしゃりと顔を歪めた。そうしてこくりとうなずいた。
「そうか、よかった……。いつからだ?」
ドクリ、ドクリ、と心臓がうるさく鳴る。俺の乳兄弟としてのディディエが俺からの気持ちをどう感じるのか。その答えを知る日が来たんだ。
そうしたら、ディディエはまた泣き出しそうな声になった。そのまま深々と頭を下げる。
「ごめんなさい、レナルド様……」
そのひと言に心がえぐられる。微かな望みが遠退く、その瞬間にディディエは涙声で言った。
「本当は昨日から思い出していたんです」
「え?」
ディディエは顔を両手で覆って、その隙間から風にかき消されそうな声を漏らした。
「でも、それを言えなかったんです」
「どうして?」
余計なことは言えなかった。なるべくディディエを傷つけてしまわないように気をつけて言葉を選ぶ。
ひく、としゃくり上げてからディディエは言った。
「思い出したら帰らなくちゃいけないから……。私、父のことも嫁ぎ先のこともちゃんと思い出したのに、何も知らない振りを続けて、このままでいられたらって身勝手なことを考えてしまいました。その心の醜さが苦しくて」
俺は泣いているディディエがどう言えば泣きやんでくれるのかだけを考えた。ディディエは何も悪くない。振り回したのは俺の方だ。
「嫁ぎ先にはちゃんと断りを入れる。だから、それは心配しなくていい。一緒に帰ろう」
そう言ったら、涙は止まると思った。なのに、ディディエの手を伝って彼女の涙が雪の上の足跡のそばに落ちた。
「帰っても、もうレナルド様のおそばにはいられないでしょう。私は――」
喉を詰まらせながらディディエは声を振り絞った。それは、ディディエの心からの言葉だった。
「私はずっとあなたに恋をしていました。あなたが驚くくらい小さな頃から。あなたが私がいいと仰って下さったから、仕事は難しかったけれどがんばれたのです。いつまでもおそばに置いて頂けるように……」
これはもしかして、俺が見ている夢なのかなという気がして来た。それくらい、現実味がなかった。
呆然と立ち尽くしている俺に、ディディエは秘めていた想いをぶつけて来る。
「でも、私の想いに気づいた父に言われました。レナルド様はいずれ相応しい奥方を娶られるから、いつまでも夢に浸って過ごせるものではないと。だから、二度とあなたに会わないで済むような遠方の縁談を進めて――」
ひく、とまた肩が震えた。
「レナルド様は私の縁談を承諾されましたよね。そこで私はあなたを忘れるつもりでいました。なのに、今になってこんな……」
ディディエは、本当に僅かな望みを託して俺に最後の決断を残したんだ。それを俺はまるで理解しなかった。そうして、こんなにもこじれてしまった。
俺がひと言行くなと言えさえしていれば済んだだけの話なのに。
「……なあ、ディディエ」
心を込めて名前を呼んだ。
ディディエは涙を隠すためにうつむいて返事をしなかった。俺は一歩ずつディディエとの距離を詰めて行った。そっと手を伸ばすと、ディディエはハッと顔を上げた。その外気の寒さの中でも火照った頬に触れる。
「俺だって他の男にお前をやりたくなかったよ。それがお前のためだって自分に言い聞かせても、頭がおかしくなりそうだった。他の誰かでは埋められない穴が心に空いて、苦しくて仕方なかった」
腕に包み込むと、ディディエは緊張からか体を強張らせた。でも、その耳もとにささやく。
「ウスターシュにはなんとかして認めてもらうから、これからはずっとそばにいてほしい。もしうちの親が駄目だと言ったら、その時は駆け落ちでもなんでもしてやるから、もう一度だけ二人でがんばろう」
自分の言葉に笑いが込み上げて来た。
父は俺に、家を捨てたらディディエを養って行くことなんてできないだろうと言った。あの時はその通りだと思った。でも、今は違う。
失ってみて思ったんだ。こんな思いをするくらいなら、過酷な仕事だっていい。死に物狂いで働いて、どんなことをしたって養ってみせる。そばにディディエがいて支えてくれるなら、そんな人生がいい。
「お前じゃないと駄目なんだ」
一生に一度の恋なんだと思う。それが実るんだったら、今の暮らしも何もかも手放してしまっても俺は多分幸せだ。勝手だってことは自覚するけど、ディディエがいないと俺はもうまともに生きて行けない。
「レナルド様……?」
気づけば、俺まで涙を流していた。ディディエは俺の腕の中から俺を見上げると、その涙を拭ってくれた。そうして、赤い目もとで美しく微笑んだ。それが約束のように思えた。ずっとそばに在るという――。
想い合っていてもすれ違ってしまう。もう二度とこんなことにならないように、互いの気持ちは確認し合っていなければと思う。
ディディエの頬を両手で包み込み、親指で柔らかな唇に触れる。そっとまぶたを閉じたディディエに俺は吐息がかかるほどに顔を寄せて唇を重ねた。お互いが何も考えられなくらいに夢中だった。
そっとディディエを解放すると、苦しそうに息をしていた。俺はここまでの道のりの険しさを思うと可笑しくなって笑った。離れる前に一度だけ強く抱き締めた。
今は信じられないくらいに幸せだった。この先に困難はまだまだあるんだろうけれど、ディディエが俺の気持ちに応えてくれるから、それだけですべて乗り越えられるような気がした。
「そういえば、ニコルに謝らないとな」
「え?」
「ディディエが産まれた時、ディディエのことを乳兄妹だと思ってくれたら嬉しいって言っていたんだ。でも俺は、もうそういう風には思えないから」
すると、ディディエはクスクスと声を立てて笑った。
「私も母に謝らないといけません。母は私に仕事を教えてくれましたけれど、私はいつでも公私混同してしまっていましたから」
そんな気持ちが俺に向いていたなんて、気づかなかった。他の女の秋波なら敏感に察知できたのに、相手がディディエだと何もかもが上手く行かない。それもまた新鮮でいいのかも知れないけれど。
「それでも、俺たちが一緒にいることをニコルなら笑って見守っていてくれるんじゃないかな」
なんて、都合がよすぎるだろうか。
でも、そう思いたい気分だったんだ。
宿のおじさんとおばさんにはすべて本当のことを話した。こんなに世話になった人たちだから、そうしたいと思えた。
本当に善良な二人で、この人たちに出会えてなければ俺の今はなかったかも知れない。
「ディディエと俺を救ってくれたんだ。あなたたちは恩人だから、また落ち着いたら会いに来ます」
少し寂しそうなおばさんだったけれど、幸せそうに俺に寄り添うディディエの姿に安堵した風でもあった。元気でね、幸せにね、と俺たちを見送ってくれた。
あの御者は俺たちを村の入り口で待っていた。ディディエの幸せそうな笑顔を見て、まるで我がことのように喜んでくれた。損得なしにして、こんなにも優しい人たちがいる。それを思い知った俺は、今までの自分がひどく情けなくなった。けれど、これからはディディエのために生きて行くから、今までの馬鹿な自分とは決別したい。
馬車の中で俺たちはずっと体を寄せ合っていた。今まで触れられなかった分を取り戻すようにずっとお互いの体温を感じていた。俺にかかるディディエの体の重みが心地よかった。そんな中、ディディエはぽつりとささやいた。
「……二人で通りを歩いていて、私がショーウインドーに飾られた服をほしがっていると思って、レナルド様が買って下さったことがありましたね。本当は私、あの服がほしいなんて少しも思っていませんでした」
「え?」
でも、ショーウインドーを見て落ち着かない様子になったじゃないか。ほしくなかったならどうして……?
俺が戸惑ってしまったことが伝わったのか、ディディエは楽しげにクスクスと笑った。
「あの時、ショーウインドーにはレナルド様と、その隣を歩く私が写っていました。私はそれを見て悲しくなったのです。あなたの隣を歩くには、私は少しも相応しくないと示されたようで」
それを聞いて俺も可笑しくなった。
「ディディエがそんなことを考えてたなんて、気づきもしないで滑稽だったな。でも、お前だって俺が収穫祭の約束を取りつけて浮かれていたなんて気づいてなかっただろう?」
「そ、そうだったのですか?」
照れるディディエの髪を撫で、頭を寄せた。今まで以上に愛しくて仕方がなかった。
途中で休憩を挟みつつ、馬車は着実に進んで行く。疲れていたのか、俺たちが馬車の揺れに心地よいまどろみを覚えていると、馬車は瞬く間に屋敷に着いてしまったように感じられた。
どんなことをしても認めてもらうと誓ったけれど、ウスターシュの容態はどうなのだろう。俺とディディエのことを知って余計に悪くならないかだけが心配だ。自分はもう長くはないと言っていたけれど、少しでも長く生きてほしい。できれば孫の顔も見せてやりたい……見たくないなんて言わないでほしいけれど。
「先にウスターシュに会いに行こう」
久し振りの屋敷を前に、俺はディディエにそう言った。ディディエも俺と同じ心配をしていたのだとすぐにわかる。
俺たちが生涯を共にすることは青い薔薇を咲かせるほどに難しいことではないと思いたい。