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ⅩⅥ

 ほとんど眠れないままに朝を迎えた。

 どうやらこの部屋は宿の一室らしい。民宿を営む夫婦が運び込まれた俺を助けてくれたんだ。

 おじさんは昼前になって俺のところにやって来た。


「あんた、貴族様だろう? 貴族の若君がいなくなったって探してる男がいて、それで森をみんなで捜索したんだ」


 とぼけても、遭難した時の身なりでわかる。

 冷静になってみると、俺が戻らなかったらあの御者はどうなるんだろう。すまないとは思うけれど、今は他のことが考えられない。ディディエの無事を確認しなければ、他のことは何も――。


「馬車の事故でいなくなった娘を探していたんだ」

「ああ、そういうことか」


 と、おじさんは安堵のため息を漏らした。そのあっさりとした反応のわけが俺には理解できない。

 事故という不穏な言葉を聞いたら、もう少し眉を潜めるなりあるだろうに。もしかして、おじさんは何かを知っているのか、と俺はハッとした。

 おじさんは俺から顔をそらし、すぐに部屋の戸口の方に呼びかける。


「ラーラ」


 誰かの名前を口にする。それが誰のことだか俺にはわからなかった。

 けれど、柔らかな灰色の髪が視界で揺れた瞬間に、俺は叫んでいた。


「ディディエ!」


 間違いない。ディディエだ。ニットのワンピースが強調する、女性らしい丸みのある体つき。優しい顔立ち……。

 ベッドから抜け出そうとした俺の肩をおじさんが押さえつけて止めた。今の俺は体力が落ちていて、とても振り払えない。首だけを向けると、ディディエはひどく不安げに俺を見ていた。

 その表情に、何かどうしようもなく胸騒ぎがした。


 生きていた。こうしてまた会えた。それを喜んでいたいのに、何故か不安がつきまとう。

 そばに寄って、話したいことがたくさんあるのに。

 おじさんは俺が暴れないことを確認するようにしてそっと手を離した。


「ディディエって名なんだな」

「そうだ」


 おかしなことを言うと思った。けれど、その疑問にはすぐに答えが返った。


「雨に濡れて必死でここまで走って来たんだと思うんだ。そこから高熱を出して、目が覚めたのはあんたが運ばれて来る一日前だ。……でも、目覚めた時には何も覚えていなかった。自分の名前も語れないよ、この娘は」


 まさか……。そうして、ふと思い至る。

 ディディエはこのままだと望んでもいないところに嫁がされてしまう。記憶をなくした振りをして、それを回避しようとしているんだろう。きっとそうだと俺は思った。


「彼女と二人にしてもらえるだろうか」


 俺が言うと、ディディエはびくりと体を強張らせた。おじさんは心配そうにディディエを見遣る。


「彼女はお前さんのなんだ? 恋人か?」


 そうだと言いたいけれど、そんな見栄は必要ない。


「大事な人だ」


 誰よりも、何よりも。

 そんなひと言で伝わるとは思わないけれど。おじさんはそれ以上触れなかった。ろくに動けない俺と二人にしても大丈夫だと思ったのか、おじさんはうなずいてくれた。


「実は、彼女を乗せていた馬車の御者だという男がここを訪れたんだ。しばらく彼女をここに置いてあげてほしいって」

「え?」


 崖の上のあの男か。本当はディディエの居場所を知っていたのに、どうして教えてくれなかったんだ。あの悲しそうな姿の意味はなんだ。村人が探してくれているというのも嘘だったのか。思えば、ディディエを探す道中、誰にも出会わなかった。

 俺が愕然としていると、おじさんは困った風に言った。


「この娘はどうやら意に染まぬ結婚を強いられていたらしくて、御者が言うには、想う男がいるんじゃないかって。だから、こうした事故が起こったのも神様のお導きで、今にその相手が彼女を迎えに来るかも知れない。もう少しだけ待ってあげたいんだって。ただ、彼女の記憶がなくなってしまったことを御者の彼はまだ知らないんだがな」


 御者はあそこに立って、ディディエを探しに来る男を待っていたのか? だから俺が婿じゃないって言った時にほっとしたんだ。

 でも――。


 違うんだ。ディディエが泣いていたのは、病身の父親を残して嫁ぐ苦しさからだ。想う男がいたからじゃない。


「あんたがその、彼女が想う相手なんだな」


 俺は何も答えられなかった。けれど、おじさんはそう思い込んだんだと思う。無言で部屋を出て行った。

俺はやっとディディエに顔を向けた。そこにいる。それだけで涙が出そうだった。


「ディディエ……」


 すると、ディディエは申し訳なさそうに首を揺らした。


「ごめんなさい、私、あなたのことを覚えていなくて」

「大丈夫だ。もうあそこへ嫁げなんて言わないから。お前は俺たちが思う以上に縁談を嫌がっていたのに、俺たちはそれがお前のためだって勘違いしていた――」


 精一杯の言葉をかけた。でも、ディディエは悲しそうな目をするばかりだった。


「本当に、なんのお話だかわからないんです……」


 俺はどうしたらいいのかわからなくなって、ディディエに懇願する。


「ディディエ、俺の名前を呼んでくれないか」


 いつもみたいに。昔みたいに呼んでくれてもいい。俺の存在をディディエの中から消さないでいてくれたなら。


「……ごめんなさい」


 謝ってほしくなんてない。ただ、名前を呼んで微笑んでほしかった。

 こうして生きてくれたことに感謝したい。それだけで十分だったはずなのに、顔を見た途端に欲が湧いてしまう。


「いや、俺の方こそすまない」


 どうしたらいいのか先が見えないけれど、少しずつ語ればディディエも思い出してくれるだろうか。

 今はディディエの心の片隅にさえ、俺の居場所はない。


 神様はやっぱり、どこまでも惨い。

 こんな仕打ちをするために俺を生かしたんだから。



 それから俺は出されたポタージュスープを体に流し込んだ。それだけで随分と体が軽くなった気がする。おばさんの作ったスープは優しい味がして、俺が食べたどんなものよりも美味しく感じられた。

 ニコニコと優しく労いの言葉をかけてくれたおばさんが去った後、その後ですぐおじさんに訊かれた。


「……それで、あんたはどうするんだい? あの娘を連れて帰るのか?」


 俺は少し言葉に詰まった。


「そうしたいと思います」

「でも、二人のことは家族が反対したんだろう?」

「……はい」


 と答えて俺は項垂れた。記憶がないディディエにとって、俺は主でもなんでもない。一緒に生きようなんて、俺の言葉に従ってくれるとは限らないんだ。

 それでもちゃんと話そう。俺は借り物の薄いガウンを羽織って部屋を出た。


 寝てばかりいたから脚が頼りない。それでも少しずつ感覚を取り戻して行った。

 ディディエは宿の仕事を手伝っているらしかった。働き者のディディエだ。記憶をなくしてもそういうところは変わらないんだろう。


「ディディエ」


 廊下を掃き清めていたディディエに俺は声をかけた。


「レナルドさん……」


 そう呼ばれるたび、本当に記憶がないんだと実感する。そうじゃなければ、『さん』なんて絶対につけない。

 ディディエはフェルトのスカートを翻し、手を止めた。室内とはいっても薄着が堪えるけど、そこにディディエがいるんだから仕方がない。

 ディディエはうつむくと、思いきった口調で俺に言った。


「あの、レナルドさんは私とどういう関係だったんですか?」


 緊張したディディエに向かって俺は微笑んだ。


「恋人同士だった」

「えっ?」


 途端に箒を取り落としそうになって慌ててつかむ。俺はディディエの手に自分の手を重ねた。そうして、ギュッと力を込めた。


「嘘だ、すまない」


 そう言いながらも、俺はディディエの手を離さなかった。うろたえる彼女を、俺は強く掻き抱いた。じんわりとディディエの熱が伝わる。それは、お互いが生きているということ。それを実感して声が震えた。


「でも、俺にとっては誰より大事だった。大事だから手を離したのに、そのせいで失いかけた。もうあんな思いはしたくない」


 言えなかった言葉。やっと、それが伝えられたのに、ディディエには二人で過ごした日々の記憶がない。

 ただ体を強張らせ、俺の腕の中で震えていた。でも、記憶があってもそれは同じことなんじゃないだろうか。ディディエは俺の想いには答えてくれない。


 それでも今は、ディディエが振り向いてくれるまで待ちたいと思う。もう二度と手を離さずにいる。

 俺の婚約もはっきりと断る。ウスターシュにだって父にだって、許しもらえるまで頼むから。だから、もうあんな思いはさせないでほしい。

 一方的な気持ちはディディエにとって迷惑かも知れない。それでも、俺にはもう他の選択はできそうにない。



 俺は動けるようになったらすぐに村の質屋に行って身につけていた物を売って、それで古着を買った。虫食いの穴のあるセーターとフェルト生地のパンツ。この際なんだっていい。残った金を宿のおじさんとおばさんに渡した。


「宿代だ」

「うん?」

「大してないけれど、それでも後三日だけ俺とディディエを泊めてもらえるだろうか。足りない分は働いて払うから」


 すると、おじさんは苦笑した。


「貴族の坊ちゃんがそんな格好をして、うちで働くって? あんた、人に頭なんて下げたことないだろう?」


 そう言われてしまうのも仕方ない。実際に汗水たらして働いて来た経験なんてないんだ。スティードは司法の勉強をして、父親の仕事も手伝ってる。それに比べて、俺はやっぱり何もできない人間だ。今になってそれが悔やまれるけど、そんなことを言う時期じゃない。


 俺は冷たい床に膝をついて頭を下げた。おじさんはふぅ、と嘆息する。こんなこと、意味はない。本当のつらさをまだ何も知らないと言うんだろう。

 でも、後少しだけ。時間をかけてディディエを説得したい。一緒に帰ってこの先も共にいてくれると本人の意思で思ってほしい。そのための猶予なんだ。


 おじさんは崖の上の御者に、三日後に迎えに来てほしいと伝えたと言う。俺を探しに来た当家の御者には何も言わずにいてくれた。それは口で言うほど簡単なことじゃない。我が身が可愛かったら俺のことなんてすぐに突き出しただろう。この人たちのためにも、家に戻らないという選択はしないと心に決めた。


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