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ⅩⅤ

 崖の下には、葉のほとんどが落ちて寒々しいばかりの木々が並んでいた。夏の頃ならば鬱蒼と茂った森なんだろう。上を見上げても、空は晴れない。走った後のだるさが全身に残っている。呼吸も整いきらず、吐くたびに息は白く視界を染めた。

 踏み込むと、腐った落ち葉に隠れた枝を踏んでぱきりと音がした。俺はそのままその枯れた森の中へ踏み入る。


 ――もし仮にこの下へディディエがまっさかさまに落ちたとするなら、果たして助かるんだろうか。見上げた崖の高さに俺は身震いした。


 俺が探しているのはなんだ?

 この木の枝に突き刺されて果てた亡骸なのか? それとも、ディディエの置き去りにされた魂なのか?

 ずっと、ディディエは無事だと心のどこかで信じていた。助かって、怖かったと泣きながら俺にすがってくれるんじゃないかと、どこかで甘い考えを持っていた。


 けれど、現実はどうだ。

 こんな場所に落ちたら、例え辛うじて生きていたとしても、かなりの怪我をしているはずだ。血を流して動けないでいるうちに夜になって獣に食われてしまうだろう。

 俺はそんな自分の考えを振りきるように叫んで駆け出した。


 奇跡は起こる。

 大っ嫌いなはずのその言葉にすがる。

 そうじゃなかったら、俺は二度とディディエには会えない。先の別れは、それでもディディエが幸せならと思うからこその別れだった。こんな結末が待っているのだとしたら、どんなことをしても離れなかった。


 落ち葉や木の根に足を取られながら進んだ先で、太い一本の樹の辺りに赤黒い染みがあった。それを見た瞬間に、俺はその場に崩れ落ちて見栄も外聞もかなぐり捨てて慟哭していた。爪が割れるほどに地面に突き立てる。その手の甲を涙が塗らした。


 俺が変に物分りのいい振りをして手を離したからこんなことになったんだ。父やウスターシュがなんと言おうと、気持ちを伝えて食い下がればよかった。そうしていたら、少なくともディディエはこんな目には遭わなかった。


 俺はただ、ディディエに気持ちを伝えることが怖かっただけなんだ。ディディエにしてみたら俺は雇い主で、よく知った身内のようなものでしかない。幼くして亡くなった兄と俺を重ねていたかも知れない。幼い頃から共に過ごした兄のような相手に恋心を抱かれても、薄気味悪いだけだろう。


 ディディエからの拒絶は俺の心をズタズタにして、俺は立ち直れなくなると恐れたんだ。だから、想いを伝えられなかったことを本当はどこかで安堵していた。

 愛しいと思う分だけ臆病になって、そんな俺の弱い心がディディエを殺したんだ。

 二人で聞いた雨の音も、床に散らばった焼き栗も、収穫祭も、全部が泡沫みたいに爆ぜて消えてしまうのか。


 ずっと泣いていたというディディエ。

 なあ、ウスターシュも俺も自分たちの思いで動いてばかりで、本当にディディエの気持ちを思い遣ってやれていなかったんじゃないのか? ディディエのためになっていたのなら、ディディエは笑っていてくれたんじゃないのか?


 なあ、ニコル。

 ニコルがいてくれないから、俺たち男だけでは何もかもが上手く行かなかった。ニコルがいてくれたら、そんな俺たちの間に入ってディディエの正直な気持ちを聞き出せていたのかな。馬鹿な俺たちを叱ってディディエの味方でいてくれたんだろうな。


 ごめんな、ディディエ。

 今更もう、遅いのか――。



 思う存分泣き叫んだ後、俺は力尽きてその木に背中を預けて座り込んでいた。もう起き上がる気力もない。背中からも尻からも体温が抜けて行くけれど、胸が痛むからその苦しさに鈍感になっていた。

 冬の空はすぐに暗くなる。寒さに手足がかじかんで来た。見上げると、ちらほらと雪が舞う。初雪をこんな形で見るなんて。


 ぼうっと舞い落ちる雪を眺めていた。

 このままここで凍え死んだら、俺は誰にも発見されないまま土に還るか獣の腹に収まるんだろう。それでもいいと今は思う。家のことや色んなこと、投げ出してはいけないものばかりのはずなのに、ディディエがいない世界には執着なんて持てない。こんな息子でごめん、と少しだけ思った。


 ふ、とまぶたが落ちた。

 もう、自分の意志では開かない。眠いのか寒いのか、よくわからなくなって来た。

 ただ、次に目を開いた時には視界一面に青い薔薇が咲き誇っていてくれるといいのに。


 今はない、けれど本当はあったのかも知れない、幻の青い薔薇。失ったものが蘇ることはないのか。ウスターシュもそれを咲かせることはできなかった。

 でも、あの世になら青い薔薇もあるかも知れない。その美しい薔薇の園にニコルとディディエがいると思ったら、死は少しも恐ろしいものに感じられなかった。むしろ、それはとても優しく俺を誘う。


 まぶたの裏がぽうっと灯りに照らし出された。何故かそこにディディエがいるような気がした。

 冷え切った体に与えられたぬくもりを肌に感じた気がしたのは、俺の願望か。ディディエの影は、神様が死の淵の俺に見せた幻だったのかな――。



     ✤✤✤



「う……」


 その呻き声が俺の口から零れたんだって気づいたのは、それからしばらくしてからのことだった。俺の頬にそっと手を当てていた細い指先をなんとなく覚えている。でも、目を覚ました時にはそれらしき人物はいなかった。


 あれも夢だったのか?

 田舎の村らしい、どこか野暮ったいけれど愛嬌のあるおばさんの顔が俺をのぞき込んでいる。


「ああ、よかった。目が覚めたんだね!」


 その顔に見覚えはなかった。馴染みのない部屋の匂いがする。俺は自分がどこかのベッドに横たわっているということをようやく認識した。でも、頭がぼうっとして上手く働かない。そんな俺に、そのおばさんは嬉しそうに言った。


「あと少し遅かったらきっと凍死していたよ。危ないところだったね」


 俺とおばさんとの間には確かな温度差があった。喜んでもらって悪いけど、俺は……なんだ、まだ生きていたのかと落胆した。

 でも、それを見ず知らずのおばさんに言うのはさすがに申し訳ない。建前で礼を言った。

 けれど、長く話す体力は今の俺にはなくて、もう一度うとうととし始めてしまった。おばさんは優しく言う。


「もう少し休むといいよ。何も心配要らないからね」


 その言葉を深く考えることもしなかった。眠っている時は何も考えずにいられる。でも、このままじゃディディエに会えないんだろうか……。



 そうして、夢を見た。ディディエが俺に背を向けて去って行く夢を。

 その灰色の世界はどんなに必死で駆けてもまるで距離が縮まらない。声が枯れるほどに叫んで、叫んで、そうして目を覚ました。

 俺はとっさにそばにあった何かをつかんだ。それはほとんど反射的な動きだった。それがなんなのか、相手の悲鳴で気づいた。


 それは手だった。柔らかな女性の……。

 俺は薄暗い中、目を凝らしてその顔を見ようとした。でも、ろくに食事も摂っていないせいかまるで力が入らない。ぼうっと虚ろな目を向けると、その女性は俺の手をそっと外した。


「起こしてしまいましたね、ごめんなさい」


 その声にぞくりとした。

 それは、俺が聞きたいと切望した声に酷似していた。俺の願望が都合よくそう受け取っただけなのかも知れない。だから俺はその顔が見たかった。一縷の望みを託して呼びかける。


「ディディエ……?」


 すると、彼女は困ったように微笑んだ気がした。そうして、俺に背を向けて去った。

 俺は動けないながらにも必死で身をよじったけれど、結果としてベッドから落ちただけだった。慌てて駆けつけてくれたおじさんが俺に肩を貸してベッドに戻してくれた。年齢の割にがっしりとした体躯をしたおじさんには俺みたいな痩せたやつは軽いんだろう。俺はベッドに横たわりながら訊ねる。


「さっき、ここに女性がいたんだが」

「うん? うちのかあちゃんか?」


 と、しわの深い顔でおじさんが首をかしげた。


「違う。そうじゃなくて……」

「うん、じゃああの娘かな」


 おじさんが口にした『あの娘』という言葉に俺は目の色を変えた。


「その娘に会わせてほしい!」


 ろくに立もしないくせに、おじさんの腕につかみかかって懇願する俺に、おじさんはかなりびっくりしていた。


「わかったけど、今は少し休んだ方がいい。明日、明日になったら連れて来るから」


 俺はおじさんの言葉を信じて一日だけ待つことにした。でも、その一晩は気が狂いそうだった。もし、その娘がディディエじゃなかったら、やっぱり彼女は――。

 そう考えてしまうのを止められない。苦しい夜だった。


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