ⅩⅢ
それから、ディディエの代わりに誰が俺の身の回りの世話をするかという話になった。ウスターシュは父親の自分を心配するディディエの気持ちを押しのけて縁談の日取りを決めた。それはそう遠くない日だった。
そんな中、父が俺の部屋へやって来た。そうして、ひどく事務的に告げた。
「ルキエ家が我が家との縁談を望んでいる」
ルキエ家――ポレット嬢か。
「そうですか……」
素っ気ない俺の言葉に、父は厳しい顔を更に険しくした。
「今まで好きにさせてやったのだ。もういいだろう」
確かに、もうどうでもいい。それは間違いない。
「ええ。ただ、俺はきっと彼女のことを心から愛するようにはならないでしょう。それでもよろしければ」
一番大切なのはこんな形になってしまってもディディエだ。妻という座に落ち着いたところで、俺はポレットに愛情なんて抱けない。ひどい話だと思う。それでも、無理なんだ。
「では、この話は進めておく」
「かわいそうに……」
ぽつりとつぶやいた俺の言葉を父は拾いもしなかった。
ポレットもかわいそうだ。俺の心は別の女のところにある。そんな男の妻になるなんて。
世の中にはスティードの細君みたいに幸せな女性もいるのに、あんな風にはなれないんだ。ごめんな……。
その二日後、スティードが血相を変えてやって来た。この前は邪険にしたっていうのに、そんなことはもう忘れたみたいだった。
「おい! お前、ポレット嬢と婚約するって噂になっているけれど本当なのか?」
俺は感情なんて封印した。平坦に返事をする。
「ああ、そうらしいな」
関心がない。俺自身のことなのにまるで他人事みたいだ。俺よりもスティードの方がよっぽど焦っていた。
「それでいいのか?」
そのひと言に俺はピクリと反応してしまう。
「なんだよ、それ」
すると、スティードは不機嫌な俺に、それでも堂々と言った。
「お前はもしかするとディディエのことを一人の女性として愛しく思っているんじゃないかと――」
あまりのことに俺は愕然としてしまった。なんでスティードみたいに真面目がとりえの、色事に疎い男にそんなことを言われなければいけないのか。
「黙れ!」
思わず怒鳴っていた。これじゃあ、この間と同じじゃないか。以前の俺なら笑顔で卒なくとぼけることくらいできたはずなのに、ささくれ立った心が嘘もつけなくする。
「ディディエなら近々遠方に嫁ぐ予定だ。わかったらもうそんなことは二度と口に出すな」
今度はスティードが頭を殴られでもしたような顔つきになった。
他人事だろう? どうしてそう首を突っ込む?
「嫁ぐ? お前、想いを告げてちゃんと引き止めたのか?」
言うなと言っているのにスティードは無神経だ。どうしてそう言われたくないことばかり口にするんだろう。
「世の中、どうにもならないことがあるんだ」
物分りのいい人間の振りをして、本当はこの苦しい会話を終わらせたいだけだ。
でも、そんなこと、スティードはお見通しだったのかも知れない。額に手を当てて深々と嘆息すると、
「お前はどうしようもない馬鹿だな」
そんな捨て台詞を残して去った。俺が馬鹿だってことは、誰よりも俺が一番よく知っている……。
ディディエは支度が整ったら俺に挨拶に来るだろう。それが別れの時だ。そうしたら、もしかすると二度と会うことはないのかも知れない。
でも、それでいいんだ。遠く離れた土地でディディエは幸せに生きている。そう思うことが俺の慰めにもなるから。
その最後の時が来たら、俺も頭を切り替えて自分の今後のことを考えよう。体の一部が欠けてしまうみたいに耐えがたい痛みでも、時が経てばきっと癒えて行くんだ。ニコルを亡くした時のように。
その時を早く迎えたいと切望する。もう、こんなにも苦しいのは嫌なんだ。
そうして、ついにディディエは俺のもとへやって来た。その時、いつもの制服は着ていなかった。俺が買ってあげたワンピースももうこの時期には寒くて着られない。
赤いセーターとフレアスカート。厚手の黒いタイツ。髪は下していた。普通の格好だけれど、色づいた唇が俺に向く。
笑顔ではなかった。結婚に対する不安があるんだろう。ウスターシュがあの状態なんだから尚更だ。
もう、部屋の中へは入れなかった。入り口で立ち話だ。ここが限界だと俺が思う。
「……ウスターシュの具合は?」
会話の取っ掛かりとしてつぶやいた。それくらい、俺たちの間にはぎこちない空気が流れていた。いつかの二人とはまるで別人のようだ。
「このところ、少しはよくなった気がします。もう少し回復したら、父も私のところへ来ると言うので、それなら私が行くのもその時でいいと言ったのに、何もかも勝手に決めてしまって……」
回復なんてしない。だからウスターシュはそんな嘘をつくんだ。病身の父親を置いて行けないなんて思ってほしくないから……。
「ウスターシュのことなら俺も気にかけておくから」
ここへ来たら、もう俺はディディエの中で綺麗な記憶として息づいていればいいかという気になった。
どうせドロドロした感情もぶつけられない清い間柄なんだ。それなら、レナルド様はいい方だったと好意的に思っていてもらいたい。ささやかすぎる願いで情けなくなるけれど。
「ありがとうございます」
と、ディディエは軽く目を細めた。でも、ディディエは俺と目を合わせることをしなかった。意識して外していたのはどちらだろう。
ディディエはうつむいて話し出した。
「レナルド様もご婚約されるとお聞きしました。おめでとうございます」
「ん、ああ……」
俺にとってはまだ現実味のないことだ。返答は素っ気なくなる。ディディエに祝われても嬉しくないというのが本音だけれど。
ディディエは尚も続けた。
「幼い頃からずっと目をかけて頂いて、私はレナルド様にお仕えできて幸せでした。本当に、毎日が楽しくて充実した日々でした。ありがとう……ございます」
ふわり、と頭を下げる。
胸がどうしようもなく痛い。疼く心と一緒に、眼の奥にも焼き鏝を当てられたような痛みがある。のどを締めつけるのは自分自身の感情だ。肉体と精神をこんなにも苛む恋情は、抱いてしまったことを不幸だと思う。それなのに、愛しい。
俺は自分の声が込み上げる感情と涙に負けないように、精一杯の強がりをみせた。
「俺もお前といられて幸せだった。今までありがとう。どうか、元気で……」
すると、ディディエは顔を勢いよく上げた。
その瞳には薄っすらと涙が溜まっている。けれど、ディディエは綺麗に笑った。それは小さな女の子の面影もない、一人で旅立つ強い女性の顔に見えた。
もう、寄り添うことはない。それを感じるには十分だった。
「はい、レナ様もどうかお元気で」
最後に昔のような呼び名で呼んだのは、過去を懐かしむ気持ちからだったのか。でも、俺は余計に苦しくなった。
廊下を行くディディエに窓から差し込む初冬の日差しが柔らかに降る。もう振り向かない背中を眺め続けるほどに自虐的にはなれなくて、俺は部屋の扉を閉めた。
そうしてその翌日、ディディエは旅立った。