ⅩⅡ
俺は結局、ウスターシュに会いに行くことにした。そうしなければどうにも気持ちが落ち着かない。
ウスターシュは俺の両親からも気に入られているから、他の使用人たちよりも待遇がいい。小さな小屋だけれど敷地の隅に一軒家を宛がわれていて、そこにディディエと共に住んでいる。俺はそこに向かった。
途中で通りかかった、ウスターシュの手が入らない庭は、まるで灯が消えたように薄暗く感じられた。この季節だからじゃない。ウスターシュのいないことを植物たちが嘆いているみたいだった。
そんな庭の片隅にひっそりと佇む小屋の前に立ち、俺はためらいながらも扉を叩いた。
「はい」
ディディエの声がして扉が開く。ディディエは俺が訪れたことにひどく驚いた風だった。制服は着ておらず、髪はおろして普段着のワンピース姿だ。
「来るべきか迷ったけれど、やっぱり気になって……。ウスターシュの具合はどうだ?」
ディディエは声もなくうつむいた。あまりよいとは言えないということだ。その様子に俺の心臓がギリギリと痛んだ。
すると、家の奥からかすれた声がした。ディディエを呼ぶ声が。
「すみません、レナルド様」
ディディエは俺に軽く頭を下げると家の中に戻った。でも、扉は閉めていない。俺は思いきってディディエの背中を追った。
狭い小屋だから、ウスターシュが横たわる部屋まではすぐだった。ゴホゴホと咳き込む音がする。外気を遮断し、暖炉で部屋をあたためているから、入った瞬間に生あたたかさを感じた。それはあまり心地いいとは言えないものだった。不安が迫り来る……。ディディエはずっとこの不安と戦い続けている。
ウスターシュはすぐに後ろで立ち尽くしている俺に気づいた。もともと細身だったけれど、眼窩は落ち窪んで顔は土気色だ。その生気の薄い顔でも、目だけは強い力を持って俺に向けられている。
ウスターシュは自分の背を摩るディディエを横に押しやるようにして言った。
「ディディエ、少し外に出ていなさい」
「お父さん?」
「レナルド様に大事な話があるんだ」
そこでディディエはようやく俺が中にいることに気づいたみたいだった。ハッとして振り返る。その顔が思い詰めているように見えて、何か声をかけてやりたかったけれど、ディディエは唇を結んで駆け去った。
普段のディディエならあんな風に走ったり、俺から顔を背けてひと言もなく去ったりしない。……駆け去って、どこかで泣いているんじゃないだろうか。
遠ざかるディディエの足音を聞きながら、俺は扉の方に目を向けたままだった。そんな俺にウスターシュは体を向けながらつぶやいた。
「このような形で申し訳ありませんが……」
ゴホ、とむせる。俺はその様子に焦ってベッドに近づいた。
「あまり無理をするな」
床に膝をついて、その嗄れた声を聞き漏らさないように必死だった。ウスターシュは何を言おうとするんだろう。こう体が弱った時、一番心配なのは一人娘のディディエのことだと思う。ウスターシュの話は、間違いなくディディエのことだ。
覚悟を決めたつもりだったけれど、そうそう簡単には行かない。ウスターシュの焦点の合わない瞳がなんとなく俺に向く。
「私はきっと、もう長くはないのでしょう」
どくり、と自分の鼓動がうるさいほどに聞こえた。俺は焦りを感じながら口を開く。
「弱気になるな。そんなことを言うとニコルに叱られるぞ。ディディエを遺して逝くなって」
ディディエにとって父親のウスターシュは最後の肉親なんだ。それを失ったら、ディディエは……。
「レナルド様」
病人にしては力強い響きの声だった。ウスターシュはまた急にギラギラと瞳を光らせて俺を見る。その双眸は恐ろしくもあった。
「……なんだ?」
「ディディエにお暇を頂きたく思います」
「っ……」
とっさに俺は何も言えなかった。一縷の望みにすがってここへ足を向けた。でも、実際はそんな自分の甘さにとどめを刺されただけだ。
ウスターシュの声は止まなかった。
「私がいなくなればあの子には身寄りがありません」
「だったら尚のこと、仕事を辞めてしまっては食って行くのも難しくなる」
頭の奥から冷えて行く。そんな感覚だった。やっと紡ぎ出したその言葉を、ウスターシュはかぶりを振って聞き流した。
「妻と娘があなた様に受けたご恩を忘れたわけではございません。けれど、それでも私は娘の行く末を思うと、そう頼まずにはおれないのです」
俺からの言葉をウスターシュは拒絶している。
鋭く保たれていたウスターシュの瞳に涙が浮かんでいた。俺は、そんなものは見たくなかった。この家族には幸せでいてほしかった。
ニコルに返せなかった恩を返す時は今しかないんだろうか。でも、のどが詰まって声が出なかった。ウスターシュは極めつけのひと言を投げつける。
「実は寝つく前から手配はしておいたのです」
手配? その疑問にはすぐに消えた。
「あの子の嫁ぎ先を決めました」
ギリ、と心臓に杭を打たれたような、そこから血が止め処なく溢れ出しているような感覚だった。暖炉でパチンと火が爆ぜた。
呆然とする俺に、ウスターシュは続ける。
「私のことが心配だからと最後までうなずかなかったあの子ですが、あなた様の了承が得られたなら覚悟を決めると言いました」
どこまでも惨い現実だ。そんなこと、どうして俺が決めなきゃいけない?
俺はディディエとずっと一緒にいたい。多くを望んでいるわけじゃないんだ。なのにそんな安らぎさえ罪みたいに責め立てられる。
病みついているところに無理をして話したせいでウスターシュには疲れが見え始めていた。それでも言葉は止まない。
「私もいずれ妻と息子と同じ墓の下です。娘は遠方だと家族の墓に参ることも難しくなると言いますが、墓は所詮墓です。死ねば終わりです。そんなものに縛られる必要はないのです」
二度と会えないことに変わりはない。でも、それならば――。
「その墓に青い薔薇を供えたいのではないのか?」
思わず言った俺のひと言に、ウスターシュは苦しげに顔を歪めた。
「ディディエが話したのですね。……だからこそ言うのです。墓は墓。想いは返らないのだと」
どんなに苦心した成果にも、ニコルは答えてくれない。薔薇を供えるたびにそのことを痛感し、失った悲しみだけを味わっていたのだろうか。
「……すまないが、返事はすぐにはできない。少しだけ待ってくれないか」
そう言うことがやっとだった。時間を延ばしても悩んでも、出せる答えはひとつだけだというのに、とても即答なんかできなかった。
ウスターシュはうなずいてくれた。でも、そのまぶたは一度閉じたらもう開かないのではないかと思えるほどに鈍く沈んだ。
俺はそのまま小屋を出た。
ディディエはどこまで行ったのだろう。途中で顔を合わせることはなかった。もしかするとどこかで泣いているのかも知れない。それを探し出すことはしなかった。途中で出会ったメイドの一人にディディエが戻るまでウスターシュについていてほしいと頼んだだけだ。
俺はぼんやりと寒々しい庭の只中に佇んだ。ウスターシュが死んでしまったら、この庭はどうなるんだろう。
ベーサルシュート――俺の恋慕はあの若い枝のようなものなんだろう。父やウスターシュはそれを剪定し、正しく導くんだ。互いの人生が美しく花咲くように。
薔薇がそれを望まなくても。
ウスターシュはこれで心安らかに眠れるんだろうか。
――青い薔薇は所詮、幻、か。
✤✤✤
その晩、俺は具合が悪いから食事は要らないとだけ断って部屋にこもっていた。すぐに医師を呼ぶと騒ぐ執事に、一晩寝れば治るからそっとしておいてほしいと頼んだ。誰にも会いたくない。
俺は鍵をかけて寝室にいた。
色々なことが嫌になる。ただ一人を愛しいと想うことが、こんなにも虚脱感を引き起こすなんて知らなかった。
結局のところ、俺にはディディエを幸せにすることなんてできない。できもしないのに、この先、無理に留めることでディディエの将来を潰してしまう。
大切なのに。いつまでもそばにいたいのに。
それを望んではいけないと。
ベッドを背もたれにして床に座り込む。なんて惨めな格好だろう。でも、そうしていたい気分だった。
ディディエが嫁ぐのはどんな男なんだろうか? ウスターシュが選んだのなら、平凡な、それでいて誠実で勤勉な男だという気がした。例えば、スティードみたいな……。
コツコツと真面目に働いて、いつかディディエはそいつの子を産んで、ささやかな幸せを噛み締めながら生きて行くのか。
そう考えてゾッとした。
嫁ぐってことは、他の男に抱かれるってことなんだ。あの無垢な娘が……。
そんな時、コツコツと寝室の扉がノックされた。俺はびくりと肩を跳ね上げた。
部屋には鍵をかけた。その奥にある寝室の前まで来ることができる人間は限られている。鍵を持っているのは、ディディエだ。
「……レナルド様、ご気分が優れないとお聞きしたのですが、いかがですか?」
弱々しい声だった。ウスターシュのことも心配なのに、わざわざここへ?
そこですぐに思い当たった。俺の不調がウスターシュから病をうつされたとでも思ったのかも知れない。
「大丈夫だ、心配するな」
そう返した。でも、ディディエはそれで納得しなかった。
「軽い食事とお薬をいくつかお持ちしました。……入りますよ」
夜も更けたこの時間に、簡単に寝室へ踏み入る。今の俺の精神状態も何もわかってない。俺はディディエを追い返そうと立ち上がった。
扉は勝手に開いた。トレイに乗った水差しとナプキンのかかった何か。多分、匂いからしてオートミールか。
ディディエはじっと俺を見た。その善良な眼差しに耐えられなかったのは俺の方だ。先に目をそらすと、ディディエはあっさりと中に入って来た。
そうして、ベッドのそばのサイドテーブルにそのトレイを置く。それからまた俺をじっと見つめた。心なし、その瞳は潤んで見えた。
俺は覚束ない足取りで近づく。心音は狂ったように鳴り響いていた。
この時の俺は少しも冷静じゃなかった。ニコルもウスターシュもディディエの信頼もすべて裏切ってもいいという気持ちにすらなった。
ディディエが俺のお手つきだと噂されるなら、それでいいんじゃないだろうか。そのせいで嫁の貰い手がなくなってしまうなら、それで。……実際、そうしたことはよくある。俺たちだけが特別じゃない。
いっそ俺がディディエを抱いてしまえば、ウスターシュも諦めてしまうかも知れない。ディディエも、会ったことのないような男よりは俺を選んでくれるんじゃないか。そう、希望を持ってはいけないだろうか。
手が、理性を振り払ってディディエの肩に伸びる。ハッとしたディディエの体が俺の力に耐えかねて傾いた。そのまま後ろのベッドにどさりと沈む。
さすがにディディエも驚いて目を見張っていた。でも、そのまま固まってしまっていただけだ。拒むでも誘うでもなくて、本当に惚けている。
その体に覆い被さっている俺は――。
「……すまない、少し……眩暈がしてフラついた……」
なんて、白々しいまでの言い訳をした。どっと冷や汗が噴き出す。
俺は何をしようとしたっていうんだ。
他の男にやるくらいなら? それでディディエを傷つけてそばにおいて……そんなことをしても、ディディエが俺に笑いかけてくれることは二度とない。鳥籠の鳥みたいに閉じ込めることで大切にしていると威張る。そんなの、おぞましいだけだ。
体を起こしてから俺は床に座り直した。ディディエも素早く起き上がり、俺の隣に膝をついた。そうして、俺の腕にそっと触れる。
「顔色が優れませんね。どうかゆっくりとお休み下さい……」
その声音はひどく心配そうだ。あんな言い訳を素直に信じる。そういう純粋さが痛々しいんだ。
どんなに足掻いたって、俺はディディエに相応しい人間にはなれないんだな。
「もう、大丈夫だから」
笑えたかどうかもよくわからないけれど、笑ってそう言ったつもりだ。決別を決めたのなら、ディディエが気に病まないように笑顔で送り出してやりたい。
いつまでも心配そうなディディエを部屋から出し、俺はみっともないくらい隠れて呻いていた。
そうして、その翌日にウスターシュへ承諾する旨を伝えた。ウスターシュは申し訳なさそうに俺に礼を述べた……。




