ⅩⅠ
ようやく、ディディエが昼間に顔を見せてくれた。でも、少し疲れた顔をしていた。目も赤くて、泣いていたのだとすぐにわかる。ウスターシュはもしかして――。
それを訊ねることは避けた。
「疲れた顔をしているな。大丈夫か?」
労わりの言葉をかけるくらいしかできない。いつものディディエなら無理をして笑って、大丈夫ですと答えただろう。でも、この時はそうじゃなかった。俺が声をかけた途端に目にじわじわと涙を溜め、それを押し留めるように指を添えながら涙声で言った。
「すみません、もう少しだけ……」
もう少しだけ、ウスターシュの看病をさせてほしいと言うんだろう。
「わかった。俺のことなら気にしなくていいから」
なんて、思ってもいないことを口にする。でも、こんなディディエを見たら正直な気持ちはとてもじゃないけれど言えない。
ディディエはそれ以上口を開いたら嗚咽しか出て来ないと感じたんだろう。大きく体を折るようにして頭を下げると部屋を出て行った。
俺はどうしようもなく胸が疼いた。ディディエの心中を思うと苦しかった。
駆け去ろうとする手を引いて抱き締めて、気の済むまで泣かせてあげたかったけれど、それをすると歯止めが利かなくなる。思い遣っているつもりが気持ちを押しつけてしまうことになるかも知れない。
今はディディエの苦しみを一緒に感じてやれたらと、ここで独り思うだけだ。
✤✤✤
そんな風に自分の感情を持て余していた俺を、突然にスティードが訪ねて来た。何ヶ月振りだろうか。
「ああ、久し振りだな」
俺は自室でスティードを迎え入れる。スティードは無言でソファーにどかりと座った。そうして、そこから扉のそばの俺を見据える。
……こいつ、こんな顔だったかな?
久し振りだからこんなことを思うのか。なんだろう、何か印象が違って見えた。上手く言えないけれど。
まっすぐなスティードの視線に俺の方が疲れて、俺もソファーに座り込んだ。
「なんだ? 何か言いたげだな?」
そう水を向けると、スティードは嘆息した。妙な感覚がする。その違和感は、スティードの笑みと共に解けた。
「産まれたよ」
「は?」
産まれた?
俺はぽかんと間抜けにも口を開けてしまった。そんな俺に、スティードはわざとらしく眉根を寄せた。
「なんだ、言っただろう? 本格的な冬になる前には産まれる予定だって。女の子だ」
……興味がなかったから、聞き流してしまっていたんだろう。まるで覚えていないけれど、スティードの細君は身重だったらしい。で、スティードはめでたく父親になったと。
冴えないスティードの飛躍に俺は少し惚けていた。けれど、ようやく言葉を搾り出す。
「ああ、おめでとう……」
「その調子だと、どうせ真剣に聞いてなかったか忘れていたかのどちらかだろう?」
変に鋭い。俺だってこのところ色々あったんだと言いたいけれど、スティードに説明するのもどうかと思ってやめた。
俺はひとつ息をついて心を落ち着けると訊ねた。
「名前は?」
「リーリエだ」
「ふぅん。可愛い名前だな」
どっちに似ているのかはわからないけれど、特別美人にはならないだろう。
でも、俺は不意にディディエの子供の頃のことを思い出した。ニコルに優しく抱かれた赤ん坊を。幸せの絶頂だったあの時を。
スティードの娘は特別美人にはならなくても、スティードの細君みたいに幸せな結婚をして幸せな家庭を築けるんじゃないだろうか。それが何よりのことなのかも知れない。ウスターシュとニコルとディディエも、時は短くても幸せではあったんだと思う。
父親になったスティードの顔立ちに精悍さが加わったのも不思議なことじゃなかった。守るべきものが増えた結果なんだ。
そんなことを考えていると、スティードは少しだけ難しい顔をした。そこでメイドが紅茶を運んで来たので会話にはならなかったけれど、メイドが去った後でスティードは改めて俺に言った。
「なあ、レナルド」
「……なんだ?」
カップを手に取り、紅茶を口に含む。同じ茶葉を使っているはずなのに、ディディエがいれてくれるものとは味がまるで違う。そんなことを思っていた俺に、スティードはつぶやく。
「お前、このところ以前にも増して屋敷に引きこもりがちだよな? 何があったんだ?」
「別に何も」
俺は素っ気なく即答した。詮索なんてしてほしくない。お前は噂話に花を咲かせる社交場のお嬢様方かと言いたくなる。
でも、スティードはしつこかった。
「何もないのに家嫌いなお前が家に閉じこもっているわけがない。……あのルキエ家でのことがあってから余計にじゃないか?」
「うるさいな」
「いいから、聞けよ」
なんでこう、スティードはうるさいんだろう。一応友人だとは思っている。でも、だからって人の事情に土足で踏み入るようなことをしてほしくはない。俺は今、それを笑顔であしらえるほどゆとりがないんだ。
「うるさいんだよ。娘が産まれて浮かれてるのはわかったから、もう帰ってくれ」
冷え冷えとした言葉が零れた。スティードの表情が一瞬凍った。
「……まあ、そのうちに娘の顔を見てやってくれ。じゃあ、今日はこれで」
ほとんど八つ当たりみたいなことを言った俺に、スティードは苦笑して去った。あいつは俺なんかよりずっと大人だと嫌でも感じた。
子供が産まれたっていうのに、それを祝うどころか当たってしまうなんて最悪だ。これは明らかに俺が悪かったと思うのに、素直に駆け寄って謝れる俺じゃない。
一体、何をやっているんだろう……。
ディディエがそばにいてくれたら、もっと和やかな雰囲気でスティードを祝ってやれただろうけれど、それを言っても仕方がない。
✤✤✤
その日の晩、珍しいことが起こった。領地の視察や貴族院の仕事、多忙でろくに屋敷にいない父が俺を書斎に呼んだ。そこへ足を踏み入れた最後はいつのことだったか。
険しい表情で重厚なマホガニーの机に肘を突いている父。燭台の灯りが照らす父の顔には影が色濃くある。こうして久し振りに顔を合わせたら、撫でつけた栗毛に白髪が随分増えたような気もした。少し痩せたのかも知れない。
父がこれ見よがしに嘆息したから、俺はとっさに身構えた。いい話じゃないのはすぐにわかった。
俺が今、一番動揺するであろう名前が父の口から漏れた。
「メイドのディディエのことだ」
ギクリ、と俺は縫いつけられたように動けなくなった。そうしたら、父の目は険しさを増した。
「お前はどういうつもりで彼女をそばに置いている?」
ここで黙ってはいけない。俺は何とかして声を絞った。
「どうとは……ディディエはニコルの娘です。俺にとっては乳兄妹で、気を許せる相手ですから」
「それだけか?」
鋭く問いかけるのは、俺の言葉を信じていないからだ。もう一度息を吐き出すその仕草が妙に疲れて見えた。
「それだけなら、もうそばに置くのはやめてやることだ」
どうして、と声が出なかった。そんな俺に父は容赦なかった。
「年頃の娘が貴族の息子の世話を焼くことを世間がどのように見るのか、お前がわからないはずはないだろう」
本当はわかっているくせに、気づかない振りをするなと。
「お前の手がついた娘だと噂されては嫁にも行けない。ウスターシュは病だけでなく、そのことにも苦しんでいる。あれでは治るものも治らん」
ニコルの忘れ形見。大事な大事な娘。
その幸せを願うウスターシュにとって、俺は花を蝕む害虫みたいなものなのだろうか。
俺だって、ディディエの幸せを願ってる。それは同じはずなのに、ともどかしさを覚えた。
その逸った感情がそのまま言葉になった。
「……嫁の貰い手がないなら、俺がディディエの面倒を見たいと思います」
ぼそり、とつぶやいた俺の声を父は耳聡く拾った。途端に顔を歪めて俺を睨む。どうしてそんな顔をされなくちゃいけないんだろう。
「お前はいずれ、この家に見合った令嬢を妻とする。その時、ディディエのことはどうするつもりだ」
こんな家知らない。どうだっていい。ディディエの方がよっぽど大事だから。
そう思ったことすら見透かされたようだった。
「もし仮に、お前がこの家を捨ててでも彼女と添い遂げたいと言っても同じことだ。家の力をあてにできないお前に、彼女を養って行くことができるとでも? 何も持たないお前にそれができると思い上がるな」
父の言葉は完膚なきまでに俺の心をえぐる。世の中にはどうしたって無理なことがあると諭すのは、先を生きる者の役目だと思うのか。
「……お前が本当に彼女を大切に想うのなら、その幸せを願って手を離せ」
自分の心を殺すことになったとしても。
それがディディエの幸せのためなら――。