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エンシェント・ブルーローズ  作者: 五十鈴 りく


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10/19

 あの収穫祭からひと月ほど過ぎた頃だった。ディディエと過ごす、他愛ない毎日だ。

 互いの距離は変わらない。でも、俺はこんな日がずっと続けばいいとどこかで考えていた。


 ――今日も朝から寒い。

 冬が段々と近づいていると肌で感じた。そのせいか、ディディエは少しだけぼうっとする瞬間があった。


「ディディエ?」


 紅茶が溢れる前に俺は声をかけた。ディディエはハッとして手を止めた。


「ご、ごめんなさい!」


 カップになみなみと注がれた紅茶。ディディエはそれに気づいて慌てた。すぐにカップを取り替えようとしたのか、ソーサーを持ち上げる。そのカップがソーサーの上で傾いた。


「ディディエ!」


 紅茶がディディエの手の上に零れる直前に、俺は自分の手を差し出して庇った。熱い紅茶は俺の手の甲にかかり、その熱さに思わず顔をしかめてしまう。驚いてディディエが手を離したから、絨毯の上にソーサーとカップが落ちたけれど、割れることはなかった。

 手の甲はズキズキ痛むけれど、ディディエが火傷をしなくてよかったとほっとした。


「レ、レナルド様!」


 とんでもないことをしてしまったと思うのか、ディディエは涙を浮かべて顔を引きつらせた。俺はディディエを落ち着かせようと意識して、極力穏やかな声を出す。


「俺なら大丈夫だ。ディディエにはかからなかったな?」

「は、はい……」


 怯えた目をしたディディエに俺は微笑みかける。


「よかった。誰だって失敗くらいするさ。気にするな」


 俺が優しい言葉をかければ、ディディエは逆に自分を苛むように苦しそうだった。俺は今のディディエにはそうした言葉よりも仕事を与えた方がいいような気がした。


「ディディエ、着替えを出してくれるか?」

「は、はい。申し訳ございません!」


 慌てて頭を下げると、すぐに隣室のクローゼットから俺のシャツとベストを取り出して戻って来た。俺はそれをソファーにかけると、ディディエの目の前で紅茶で染みついた服を脱いだ。ディディエはギクリとして絨毯の上にしゃがみ、零した紅茶を拭き出した。


 服を用意してもらっても、普段は目の前で着替えたりはしていない。それにしても、そんな初々しい反応をする女を相手にしたことはないなと少し可笑しくなった。

 けれど、そんな場合ではないと思い直す。ディディエのしょげた様子に俺はそっと声をかける。


「どうした? 何か心配事でもあるのか?」


 思いきってそう訊ねてみると、ディディエはしょんぼりとうなずいた。


「このところ父の具合が悪くて。大したことはないと言うのですが……。でも、だからといってレナルド様にこのような粗相をしてしまうなんて……申し訳ありませんでした」


 ひどくショックを受けたようにつぶやく。少し紅茶を被った程度だ。ディディエを庇いきれたことの方が俺には嬉しいのに。

 けれど、そう言われてみると、確かにここ数日ウスターシュの姿を見かけていない。肌寒さが増したから、風邪をひいてしまったのだろう。


「大事にな」

「ありがとうございます……」


 そう言いつつも、ディディエに笑顔はない。ただ一人の血縁である父親だ。過剰な心配も仕方のないことなんだろう。



 その翌日も、やっぱりディディエは心ここにあらずといった風だった。本当ならつきっきりで看病したいのかも知れない。……ウスターシュはそんなに悪いんだろうか?

 俺の昼食中、給仕をしていたディディエの目がひどく虚ろで、俺はそんなディディエの方が心配になった。


「ディディエ」


 俺が呼ぶと、ディディエはハッとして俺に顔を向けた。そのゆとりのない顔に俺はそっと声をかける。


「ウスターシュのことが気になるなら、早めに戻っていいぞ。休みを取るなり気が済むようにしていい」

「お言葉はありがたいのですが……」


 と、ディディエの表情は曇ったままだ。

 その言葉に素直に甘えられない。自分の家のことで俺に迷惑をかけると思うんだろうか。

 俺が他の人間に身の回りの世話をさせないから気になるのかも知れないけれど、今はそんなことを言っている場合じゃないだろうに。


「少しの間くらいは我慢するさ。ウスターシュを優先してやるといい。ニコルにできなかった分もな」


 俺はそんなことしかしてやれないけど、それでディディエの負担が少しでも減るならいいかと思ったんだ。ディディエは複雑な面持ちで苦しげに声を絞った。


「ありがとうございます。では、数日だけお言葉に甘えさせて頂きますね……」

「ああ。早くよくなるといいな」

「はい」



 それからディディエは俺に不自由な思いをさせないようにと使用人仲間たちにあれこれと頼んで手配してくれた。ただ、大事なことをわかっていない。


 俺の満足の行くようになんて、お前以外の誰にも無理なんだ。だから、他の誰が何をしたって、俺は常に物足りない。ディディエの笑顔が見たいと、それをひたすら我慢するだけ。なんだろう、ちょっと情けないな――。



 そんな日が三日ほど続いた。

 たった三日。けれど、俺は三日もディディエの顔を見なかったことはなかったんだ。

 ウスターシュの加減を見に行くという名目で会いに行く。そんな手も考えた。でも、それではディディエに気を使わせてしまうと辛うじて踏みとどまった。


 会わない日々というのは、思った以上に恐ろしいものだった。それは、金貨を投げ込んだ池が干上がってしまうようなものだと思った。

 水がなくなって金貨が剥き出しになる。それと同じように、日常という水に隠されていた感情が表に出てしまう。会えないことで枯渇したのは理性か、忍耐か。


 もう、ここへ来てしまっては認めないわけにもいかない。俺はあの娘のことが他の誰よりも愛しいんだ。たった一人の異性に恋焦がれるなんてみっともないと思って来た自分が、気づけばただ一人のことだけを想っている。それも、赤ん坊の頃から知っている相手を。


 それで、俺は結局どうするべきなんだろう。そのうちに俺にも縁談も上がって来る。断り続けることはきっとできないだろう。

 部屋の中でぽつりと独り考える。そうして俺は、少し馬鹿げた行動に移った――。



 屋敷を抜け出し、下町へ向かう。昔はよく遊びに来ていたけれど、このところはまったく足を向けなくなっていた。遊びたいとは思わなくなってしまっていたから。

 それなのに何故今になってやって来たのかというと、理由はすごく馬鹿げている。昔馴染みの女に会いに来た。


 もしかすると、俺がディディエに感じている気持ちを彼女が打ち消してくれるかも知れない。あんな気持ちは勘違いだったと思わせてくれるかも知れない。そんな希望を持った。気のせいであってくれないと、逝ったニコルにも申し訳ないような気になるんだ。


 ――彼女の名はラシェル。他にもいたけれど、もうよく思い出せない。ラシェルとは一番気楽にいられた。姉御肌というのか、さばさばとした性格で変にまとわりつくこともなく、一緒にいて嫌な気はしなかった。酒場の給仕をしていた娘だ。

 癖のないブルネット。少しきつめの顔立ちと肉感的な体。思えばディディエとは随分と性質が違う。


 俺は彼女の家に向かおうかと思ったけれど、まず先に勤め先の酒場に行くことにした。時間からしているとしたらそっちかと。

 店は『準備中』の札が外された直後だったらしく、客は誰一人いない。久し振りに来た俺に、酒場の女将は細すぎる片眉を跳ね上げた。


「あらあらお久し振りね。ラシェルなら先日辞めてしまったわよ?」

「辞めた?」


 店に染みついた酒と煙草の匂いの中、俺は女将のたるんだ顎を眺めながらその答えを待った。けれど、女将はクスクスと笑うばかりだった。


「本人に確かめて来たらどう? 家にはまだいるんじゃないかしら」


 ずいぶんと意地の悪い響きだった。俺は不快感をあらわにしつつ酒の一杯も頼まずに店を出た。



 彼女の家は酒場からそう遠くない。小さなアパートの一角。何度も出入りしたけれど、小さいなりに綺麗に使っていた。酒場の給仕なんて夜遅くなる仕事の割に彼女は自堕落ではなかった。

 一階の右側。俺はその木製のドアノッカーで音を立てた。中から返事が返る。でも、ラシェルは扉を開けきらなかった。薄っすら開いたところで来訪者が俺だと気づくと、彼女はにこりと笑った。


「あら、レナルド。お久し振りね」


 長いこと省みなかった。でも、寂しいなんて思ってもない。それが彼女の表情から見て取れた。むしろ生き生きとしている。


「やあ、仕事辞めたんだってな?」


 あんまりにもあっさりとしているから、俺の方が戸惑う。でもそれを覚られるのは癪だから、なんでもない風を装った。

 ラシェルはやっぱりもう、俺を部屋へ上げる気はないみたいだった。それ以上扉を開くこともなく言った。


「ええ。結婚することになったの」


 ……いつの間にそんな相手が、なんて訊けない。訊けない俺に、彼女は笑う。


「あなたとは『そういう関係』じゃなかったもの。あなたはお貴族様。そんなあなたの奥方になれるなんて思ったこともないわ。あたしはね、あたしの価値が下がる前に最良の相手に売り込まなきゃいけないの。あたしみたいに身寄りのない女が生きて行くためにはね」


 甘い夢なんて見ない。

 愛をささやいてみても、そんなものはその瞬間だけでよかったんだ。現実の合間の癒しみたいに接していたのはお互い様だ。だから気が合ったんだ。

 そんな彼女の強かさが嫌いではなかった。見事に望む相手を手に入れた彼女を賞賛するばかりだ。


「そうか、おめでとう。幸せにな」


 負け惜しみではなくそう思った。

 そう、少しも悲しくない。俺は結局、ディディエに感じるような気持ちをラシェルにも持つことはできなかったんだ。こうして顔を合わせてみて、はっきりとそれがわかる。残念だけれど、他では紛らわせることのできない気持ちを確認しただけだ。

 ラシェルは意外そうに俺を見上げた。


「あら、あなた何か変わったわね。恋でもしているの?」


 ……女はこれだから困る。勘がよすぎるんだ。



 俺はそうして屋敷に戻った。

 拍子抜けした気分ではあった。でも、この気持ちの向きが定まった以上、それを否定するばかりではなくて、真剣に考えた方がいいのかも知れない。


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