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 奇跡とか、運命とか、そうした言葉を女はよく好む。

 けれど、俺はそんなものを信じたことは一度もない。それどころか、この世に存在しないと言われる青い薔薇よりも、奇跡なんてあり得ない代物だと思う。

 いつだって奇跡なんて起こらないし、運命なんて錯覚だ。あるのは、人の手が起こす出来事だけ。


 そうしたことを口に出して言わなくても、勘のいい女には伝わってしまうらしい。冷淡だって謗られても、夢見がちなセリフが肌に合わないんだから仕方ない。

 そんな俺を周囲は好き勝手言うけれど、そんなことはこの際どうだっていい。今はただ、楽しく過ごせたらそれでいいんだ。



     ✤✤✤


 

 俺が六歳くらいの頃にはすでに、こうした日常が当たり前だったと思う。

 毎日毎日、色んな教科の家庭教師がついていた。伯爵家の跡取りとして恥ずかしくないように、とのことだ。


 歴史があるって言えば聞こえがいいけれど、カビが生えるくらい無駄に長く続いている我が家だ。存続することが義務だって、物心ついた頃にはうるさく言われた。貴族の跡取り、しかも一人息子。将来を約束され、日々寝食の心配をせずに生活できることを恵まれているというんだろうか? それ以外の人生を知らない俺には比べようもない。


「ええと、ですから――このイヴェール王国は北の高原の民『ハイランダー』との抗争が絶えず、国は戦いばかりを繰り返していたため、国土は荒れ、暮らしは貧しいものでした。ここまでは昨日お教えしましたね? ではこの抗争に我が国が勝利し、北の高原を押えて平定した戦役を年号と共にお答え下さい」

「……」

「レナルド様!」


 年寄りのしわがれた声があくびをした俺を怒鳴りつける。でも、家庭教師のじいさんなんて少しも怖くない。俺は不機嫌さを隠さずに言ってやった。


「うるさいなぁ。大昔の話なんてどうだっていいんだ。今は戦争もなくて国も豊か、それは確かなんだから」


 この教師はすぐに怒鳴るから嫌いだ。授業も面白くないから身が入らない。この教師はきっと父にいいつけるけれど、務めに交遊に忙しい父が俺を叱るためだけに時間を空けることはまずない。


 家督を何より重んじる父。その父に表向きだけ従順な母との冷え切った家庭にできた息子の俺。

 でも、貴族なんてどこを見てもそんなものだ。それが普通だ。

 大事なのは家を絶やさないこと。よりよい婚姻を結んで家を繁栄させることが最重要。

 貴族に大切なのは血筋だ。人格でもなんでもない。


 体裁ばっかりが大切で、その実虚無が支配する貴族社会。

 過去は戦争の繰り返しという歴史だったせいか、平和になって国力が回復した頃から、上流階級において華美だとか奢侈が好まれる風潮になったと教師が言っていた気もする。

 無駄にティーパーティーだのなんだの招待されては、俺も愛想笑いでへつらった。


「レナルド様はいつみてもお可愛らしいですわね。将来はきっと美形に成長されますわ」


 俺の金髪や肌の白さが人形のようだと誉めそやされて、それで母はご機嫌だった。俺はうんざりしながらも笑顔を貼りつけていた。そうしていないと、後で怒られるのがわかっていたから。


 もう帰りたい。

 それを言いたい気持ちを必死に押し込めて耐えた。早く帰りたい、返ってニコルに話を聞いてほしい。

 ――乳母のニコル。

 俺が唯一心安らぐ話し相手だ。


 

 当家の領地は王都から東の方にあるんだけれど、俺は年に数えるくらいしかそっちには行かない。町屋敷タウンハウスにばかりいた。同じく町屋敷に住む貴族が開催するパーティーが多いから、その方が便利なんだって母が言っている。俺も田舎には興味がなかった。その日もそうだった。


 俺は町屋敷に戻ってすぐ、自室に戻ることもしないでニコルを探した。ニコルは厨房にいた。俺が帰って来る頃だからホットミルクの用意をしてくれていたみたいだ。トレイの上で陶器のカップに入ったミルクが湯気を立てる。


「お帰りなさいませ、レナルド様」


 灰色の巻き毛に少し丸みのある体を紺と白のメイド服がすっきりと見せていた。

 いつも変わらない笑顔に俺はほっとする。

 特別美人ってわけでもないけれど、優しくてあたたかい。母親よりも母親らしく俺に接してくれる。


「紅茶がいいって言ったじゃないか」


 ミルクなんて子供の飲むものだ。俺が口を尖らせると、ニコルは灰色がかった瞳を見張った。


「夜眠れなくなるから駄目ですよ」


 主の俺にも堂々と意見する。でも、少しも嫌な気がしないんだ。むしろ、嬉しい。本当に俺のためを思って叱ってくれるからだろう。


 ニコルには俺と同じ年の子供もいたらしい。それが、二歳の誕生日がようやく来るって頃に、その男の子は倒れてきた木材の下敷きになって亡くなってしまったそうだ。

 悲嘆に明け暮れたニコルだったけれど、それでも仕事に復帰してからは俺のことをその子供の分も可愛がってくれた。


「ディディエは?」


 俺が厨房を見回しながらそう訊ねると、ニコルはそっと笑った。


「ええ、ちょっと預けて来ました」


 ディディエというのは、ニコルの子。そうなんだ、俺がニコルを独占できたのは数年間。俺が行儀作法だの勉強だのうるさく言われ始めた頃にはニコルの腹は膨らんで――再び数ヶ月の暇を経て顔を見せた時には赤ん坊を抱いていた。

 小さくて柔らかな匂いのする赤ん坊だ。白い肌着に包まれて、この世の穢れを何も知らない。それはまあ可愛らしくもあったけれど、俺は少しも気に入らなかった。


 血の繋がりのない俺よりも、腹を痛めて産んだ赤ん坊の方がニコルにとっては大切なんだと、心のどこかで拗ねたことを思った。


 でも、赤ん坊は無邪気で無垢で、そんな俺にもよく笑いかけて来た。言葉にならない何かを唸りながら俺の指を握る。そんな光景を、ニコルはにこにこと眺めていた。

 握られた指があたたかい。振り解いたら赤ちゃんを壊してしまいそうで俺は動けなくなった。


「ニコル、赤ちゃんは女の子?」


 ぽつりと訊ねると、ニコルは笑った。少し疲れた目もとにしわが刻まれたけれど、俺にはそれでも着飾った母より輝いて見えた。


「そうですよ、レナルド様。女の子です」


 俺は素っ気なくふぅんと言って、それからもう一度訊ねた。


「名前は?」


 すると、ニコルは優しい微笑で俺に告げた。


「ディディエと申します」


 俺はもう一度、ふぅんと言った。赤ん坊のディディエはキャッキャッと嬉しそうに笑っていた。


「……チキョウダイってヤツになるのかな、ボクとディディエは」

「恐れ多いことですが、そう思って頂けるのならば嬉しいですね」


 嬉しいんだ。そうか、と俺はまた素っ気なく答えた。

 でも、ニコルが喜ぶなら俺はディディエを可愛がろうと思った。ディディエのためというよりは大好きなニコルのために。


 なんてことを知る由もないディディエは無邪気に俺に懐き、ある程度ものがわかるようになってからは主人に対する使用人としての態度で俺に接した。ニコルの優しさを受け継いだ素直な娘だ。そのうちに俺は、ニコルのこととは別にしてもディディエが可愛く思えるようになった。



 そのディディエが十歳になった頃、ニコルは突然倒れて帰らぬ人となった。

 俺にはその事実だけが伝えられた。


「嘘だろ……?」


 俺にそれを伝えたメイド頭に、俺は食ってかかった。


「なあ、そんなわけないだろ! だって、昨日まではちゃんと……っ」


 どんなに喚いても、メイド頭は悲しげに首を振り、眼鏡をずらして目頭を押えるだけだった。

 働き者で我慢強かったニコルは、無理ばかりした。ずっと体は不調を訴えていたはずなんだ。それを笑顔で押し通し、そして――。


 ディディエはたった十歳。父親のウスターシュは屋敷で庭師をしている。天涯孤独ではないものの、まだまだ母親が恋しい年頃だ。あんなにも優しくてあたたかだったニコルの喪失感は、俺にとっても大きくて、容易には受け入れられなかった。

 でも、俺がどれだけ泣き叫んでもニコルはもう帰らなかった。



 町の小さな教会でしめやかに行われた葬儀に、俺も参列した。後で一使用人に対する扱いではないと親に顔をしかめられたけれど、その時の俺はもう自分の行いは自分で決めるべき年齢だったはずだ。

 黒いスカートを力一杯握り締め、涙を堪えているディディエ。拳が憐れに震えていた。


 ウスターシュは自分の気持ちすら整理がつかず、現実を直視できていない風だった。ディディエを気遣うのは近所の婦人たちだ。

 ディディエは泣かない。我慢強い子だ。でも――その我慢強さはニコルに似ている。我慢強くて、無理をして、そうして呆気なく逝ってしまったニコルのよう。


 ディディエもまた、同じ道をたどるのか。そんな風に思ったら、俺は冷静に眺めていられなかった。黒い棺のそばでディディエの小さな手を取ると、後ろに引っ張った。


「レナさま?」


 その声に答えず、俺は周囲の目をよそにディディエと視線を合わせるようにして膝をついた。


「我慢するな。泣けばいいんだ」


 俺の言葉に、ディディエはひどくうろたえた。


「でも……」


 泣いたら、ニコルが心配して天国に行けないと思うのか。遺された人たちに心配をかけたくないと思うのか。

 そんなことは知らない。ただ、俺は目の前のディディエに言った。


「子供は素直に泣け。そうしてないと、大人も泣けないじゃないか」


 大人も? と、ディディエはつぶやいた。大人でも泣くの、と不思議そうに。

 くしゃりと歪めたディディエの顔が赤みを帯びて行く。そうして、大粒の涙が見る見るうちに瞳に浮かんだ。だから俺はディディエの灰色の髪を撫でながらしばらく抱き締めていた。


 ディディエの慟哭は沈痛な葬儀の中でひと際大きく響いたけれど、それはニコルという大きな存在を喪った悲しみだ。どんな哀悼歌よりも相応しい気がした。

 俺の涙もまた、ディディエの肩に落ちて黒い服に吸い込まれた。



 ――あれから一年の歳月が流れた。


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