僕のイシ、君のイシ
意思……何かをしようとするときの元となる気持ち。
縊死……首をくくって死ぬこと。
何事も時間が解決してくれる。辛いことがあった時は、とにかく耐えて記憶が風化するのを待てば良い。そんなことを言われたことがある。忘れてしまえば、人間はその隙間を、美しく飾られた記憶で埋めようとするのだと。
それによって出来上がるのが、俗に言う「美化された記憶」というものだろう。
時間の経過によって穴が開けばそこを埋める。更に時間が経てば更に穴が増えて、元々の正しい記憶というものは失われていく。
テセウスの船、という考えがある。船の壊れた部品を一つ一つ新しい物に置き換えていき、最終的にすべての部品が新しくなる。その部品が全て入れ替わった船は、元々の船と同じ物だといえるのか。一種のパラドックスだ。
では、その『テセウスの船』が、不変のものだとしたらどうだろう。絶対に傷つかず、風化もしない。そんなものだったら、パーツを取り替えることもない、その船は永遠に『テセウスの船』だと言えるだろう。
僕は、どうも一度覚えたことが忘れられない体質らしい。世間で言う、『絶対記憶能力者』というものだ。正確には能力なんてものじゃなく、一種の病気なのだが……さて。
ここまでの話に付き合ってくれてありがとう。本題に入ろうか。
この、絶対記憶能力を持つ僕。頑丈過ぎる『テセウスの船』である僕の記憶が、一部分だけすっぽり抜けていると言ったらどう思う?
もちろん赤子の時のものではない。あれは確か、高校二年生の夏休み。
両親よりも、兄弟よりも大切だと言える『彼女』がいなくなった日だ。
少し、その時のことを話してみよう。
◆ ◆ ◆ ◆
夏も中盤に差し掛かり、暑さがことさら厳しくなってきた頃のことだった。僕は、彼女に呼び出されていた。場所は彼女の家、時間は午後四時。彼女は小さくも暖かい一軒家に住んでいた。うちのボロアパートとは全く違う。犬や猫が飼えるなんて羨ましい。
「久々に来たな、ここ」
自転車を適当な場所に停めてそう呟く。
家を少し眺めただけで、前回来た時との違いに気づいてしまうのは美点なのか汚点なのか。
土産用のケーキを手に持ちインターフォンの前に立つ。押す前に、欠伸をひとつ。
どうも最近不眠症気味なのか、寝床に入ってもすぐには眠れないことが多い。
インターフォンを押すと、待機していたのかほとんど間を開けずに扉が開いた。
「あら、秋音君。いらっしゃい」
彼女の母が出た。彼女ではなかったので何となく残念。当たり前だがその様子には気づくこともなく、「あの子も待ってるわよー」と僕を招き入れた。
ケーキを渡し、一言二言話してから彼女の部屋へ向かった。
彼女の部屋はやけに暑かった。この真夏日にクーラーも付けていないのか、ドアを開けた瞬間に生ぬるい風が頬を撫でる。
廊下の方が涼しいくらいだ。少し顔をしかめて、ドアを開けっぱなしにして部屋に入ろうとすると。
「閉めてくれる?」
僕の心を読んでいたかのような声。彼女は勉強机の前に座って何やら作業をしているようだった。
部屋の主に言われてしまってはなすすべもなく、渋々ドアを閉める。部屋はただ暑いだけではなかった。蒸し暑い。
……こいつ、窓すら開けてないのかよ。
カーテンすらしまっていて、引きこもりもびっくりな篭もりぶりだった。
「暑いんだけど」
すぐに耐え切れなくなり文句を零した。堪え性が無いとよく言われるが、さすがにこれは仕方ないだろう。
窓の元へ進もうとすると、すかさず「ダメ」と声。リモコンを手に取りクーラーに向けると飛んできた消しゴムが頭にクリーンヒット。悪態をつこうとすると机の上のデジタル時計が空を飛んだ。
衝撃で壊れたのか、時計は午後4時ぴったりを指して止まっていた。
……何がしたいんだこいつは。
「……ねえ」
改めて不満の声を上げようと口を開いた瞬間にまた声。ホントにこいつは……いつの間に読心術なんて身につけたんだか。
「何だよ」
不機嫌の色を隠す気もなくぶっきらぼうに返事をする。カーテンもドアも閉じていて、光源は机の上のライトのみ。だから明るいのは彼女の手元だけだ。
彼女が振り向くが、当然逆光なので彼女の表情は伺えない。
「この部屋で、前と変わったところ。気が付いてる?」
意図のわからない突然の質問に一瞬思考がフリーズする。何言ってんだ、と思うと同時に断る理由も無いので、部屋をぐるりと睨め回した。
「…………」
……ふむ。
「見える範囲のことだけだけど……フック、引き出し、椅子と畳に傷、あと君の足。これぐらいかな」
天井に刺さったフック、少し開いている机の引き出し、椅子と畳に衝撃を加えた痕跡、彼女の足にある痣。
ざっと見て気づいたのはこれぐらいだろうか。
「あとそれと、埃が前よりも厚くなってる。掃除してないだろ」
「それは今関係ないでしょ」
機嫌を損ねてしまったようだ。声がさっきより低くなっている。
「で、それがどうしたんだ?」
そう聞くと、彼女は満面の笑みを浮かべた。逆行でもわかるほどの、喜びを前面に出したような笑顔。
彼女が笑うことは僕にとって喜ばしいことのはずなのに、悪寒がした。何かおぞましいものでも見たような。
「ちょっと死んでみようかと思って」
手に持った、先に輪のついた紐を僕に見せびらかすようにして。
口を三日月型に歪めて、彼女は笑った。
――ぶつり。
◆ ◆ ◆
――ここで、記憶は途切れている。
今の僕にここから先の5分間を説明することは出来ず、よって彼女の行動の意図を説明することも出来ない。
というか、それについての推理を聞きたくて君をここに呼んだんだけども。どう? 何か思いついた?
……だよね。そう簡単に解るものでもないか。365日間ぐらい考え続けてみたけどそれでもわからないんだし。
その記憶は本当に正しいのか? 僕が彼女に会った時の記憶のこと?
そりゃ正しいよ。だって僕だし。何も忘れられない筈の僕の記憶に空白があるから、君にも相談してるんだ。普通の人だったらそんなこと頼まないさ。
物心ついた時からの人生の全てを覚えているし、思い出せるんだ。だからたった5分間の白紙が気持ち悪い。酷い違和感だ。
だから、この先を語るのは凄く億劫なんだけど……まあ、仕方ない。続きを話そうか。
◆ ◆
目の前には彼女がいる。ぴくりとも動かないままで、宙に浮いていた。ギシギシと縄が軋み、彼女の抜け殻を揺らした。
僕はそんな彼女を数十秒ほど見つめていた。何故か不思議な高揚感に包まれていた覚えがある。
クーラーのリモコンを手に取り、スイッチを入れて温度を限界まで下げた。彼女がさきほど部屋の温度調節を許さなかったのは、僕にこうさせるためだったのだろうか。
次にカーテンを開けた。窓際の空間には、植木鉢がひとつ置いてあった。赤に近い紫色の、独特の形をした花。葉についた水滴が光を反射していた。彼女が水をやったのだろうか。土に刺さった、白と茶色の斑模様のプレートには「イカリソウ」と書いてあった。
左手首にはめた腕時計を見ると、4時5分。たった5分しか経っていないのか。既に数時間が経過した気分だ。
「……さっさと出よう」
言い聞かせるように呟いてからのろのろと部屋を出る。扉を閉める振り返り様に何か言おうとして、やめた。最後に見えたのは何故か艶の抜けた黒髪ではなく、はためく布の隙間から覗いた緑色だった。
一階に降りると彼女の母が声を掛けてきた。
「あら、もう帰っちゃうの?」
「はい。ああ、仮眠を取るから部屋には入らないでって言ってました」
「もう、最近ずいぶん寝るわねあの子……」
呆れ顔を浮かべて、キッチンへ戻っていく姿を見送って、自身にしか聞こえない声量で挨拶をし、家を出た。
彼女の家と僕の家は遠い。昔は近かったけれど、彼女が家族ぐるみで引越しをしたために、今は徒歩で一時間以上という距離になっている。
どうしてかバスを使う気にはなれなかった。
来る時は鬱陶しいほどの陽気だった景色が灰色がかって見える。……落ち込んでいるのだろうか、僕は。主観ではそんなことはないんだけど。
夏休みも終盤に差し掛かった。終わる前には準備を終わらせよう。彼女は最期の願い、なんて大事なものをを僕に託してくれたんだから、叶えないと。
………………?
違和感があった。
思い出そうともしていないのに、彼女との記憶が脳髄を駆け巡る。
笑う、泣く、怒る、悲しむ、怖がる、喜ぶ彼女の顔が浮かんでは消えていく。今よりも幼い少女から始まって、天井からぶら下がる鬱血した顔で終わった。
そのどこにも、「遺言を託した彼女の姿」なんて存在していなかった。
頑丈そうな紐を見せて笑い、それに吊られていた。その間の時間がすっぽり抜けていた。
「…………あれ?」
思い出そうとする。いつもならそれだけで浮かんでくるはずの物は沈んだまま。掴むことだけでもしようと手を握っても、欠片すら掴めやしなかった。
――彼女は死んだ。自殺だった。それはいい。彼女が望んだことなら僕の気持ちなんてどうでもいい。けれど、僕がその最期の姿を憶えていないなんて許されることでは無かった。
そこからの記憶は、思考が正常を放棄したせいで酷く曖昧だ。走って家まで帰ったことは事実として覚えているけどその間の思考は空白だった。よほど衝撃的だったのだろう。
気が付くと、自分の部屋の真ん中に立って頭を抱えていた。どれだけ記憶を掘り返しても、探ろうとしても、彼女が首を括る前の記憶は見つからなかった。
何時間そうしていたのかわからない。けれど、妹が部屋の扉を叩かなければ何時までもそうしていたんだと想像はつく。自分のことなのだから。
「母さんがずっと夕飯って呼んでんだけどー。聞こえてないの?」
不機嫌そうな声色で妹はそう呼び掛けてきた。はっと我に返って今行く、と言った。想像以上に小さく、掠れた声が出た。それが聞こえたのか、妹は少ししてから扉から離れていった。
頭から手を離す。長時間そうしていたからか手の形が固まってしまっていたので、どちらかというと引き剥がす、に近かっただろう。
感覚が薄い手を握ったり開いたりしていると、爪の間に赤色の何かが詰まっていた。手で頭を探ると、少し出血していた。かなりの強さで握っていたらしい。
頭は冷え、思考も正常に近いものに戻っていた。
物事を忘れる、という経験を今までしたことのなかった僕は、忘れたことを思い出す経験も無かった。
だから、結論としてはこうなった訳だ。
……自分で思い出せないなら、誰かに真実を考えてもらえばいい。あの時実際にあったことがわかれば、付随して記憶も蘇るだろうと。
「そうと決まれば、探偵でも呼んでみようかな……」
これまでに聞いたことのある「探偵」の名前を脳内でリストアップしながら呟く。
くきゅるる、と胃が空腹を訴えた。
……まあ、まずは腹ごしらえからで。
◆
君を呼んだ理由は理解してもらえたかな? これ以上の説明の仕方は知らないから、理解出来なかったと言われればそれまでなんだけど。
いやあ、あの後は結構大変だったよ。当たり前に彼女の両親が死体に気付いて、その日のうちに僕の家に警察が来るっていう事態。
「昼寝をするって言うから部屋を出てそのまま帰った」って言って説明したけど信じてもらえなくて。一週間くらい付き纏われたし。
……結局、あの日なんで彼女が僕を呼んだのかは不明のまま。自殺した理由も不明。
僕は勝手にいじめられてたからじゃないかな、って思ってるけど。
え、どうしたのいきなり? 何で怒ってるのさ。……ああ、苛められてたこと? メールで愚痴ってたんだよ。「いい加減うざったいから潰してくる!」みたいな感じのこと。
結局潰せなくて悔しかったから死んだとかだったら楽でいいんだけど。彼女に限ってそんなことないよなぁ……。
ついでに、推理に支障が出たら困るから話すけど。彼女が死んだ次の日に、彼女からお届けものがあったんだよね。
あれだよ、彼女の部屋の窓際に置いてあった植木鉢まるごと。と、それを包むように草……かな? が巻きついてた。表記を見るにへデラって言う名前らしいけど……。
一種のオブジェだったねあれは。部屋に置くにも凄い困った。今もほっといたら成長して部屋の壁侵食し出すし。
愚痴みたいになっててごめん。あれの話題になるとついね……はは。
……最後にもう一度だけ言っておくよ。
僕が思い出したいのは、「彼女が何で死んだのか」じゃない。あくまでも「彼女が最期に言った言葉」だ。あれが殺人だったとかだったら理由も犯人も追求するだろうけど、彼女は自殺だからね。
彼女以外の指紋も争った形跡も無かったみたいだし。
じゃあ、紅茶でも入れてくるよ。質問や思いついたことがあったらどんどん言ってくれ。
お久しぶりです私です。
今回は「読者に投げる終わり方」を目指してみました……がどうみても不完全燃焼というか、煮え切らない感じになってしまいました。
「彼女」が何を思って首を吊ったのか、その答えは一応用意してあるのですが、此処で話すことはやめておきます。
結構というかとてもシンプルです。以上。
では、また逢う日まで。