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或る冬の歌

作者:
掲載日:2025/11/01

「だーれーもが~、うぉおおうぉおおーお~泣いてる~」

奇抜なポンチョの様なものを着た間の抜けた若者が、場違いに冬の歌を歌っている。

「なみだを~ひとにはみせーずに~」

浜田省吾の代名詞的なヒット曲『悲しみは雪の様に』か。何を歌っているかが分かる程度には、音程が取れていて発声もしっかりしている。若者らしい非常識さはさておき、歌自体はそれほど不快ではない。むしろ素直で良い。

間抜けな感じで若者はそこまで歌って、一旦静止すると、チラと遠方を見、そそくさと言った感じで見た方向に逃げ帰ろうとする。往来でそんな大声を出して耳目を集めておきながら、何処か気弱そうな顔つきの、アンバランスな若者。

逃げ帰ろうとする先には別の、もっとやんちゃそうな、同じ年ごろの若者達の一段の顔が壁の陰から団子になって覗いていて、「戻れ!」「ダメ、もう一回!」などと、距離を隔てて喚き声に近くなった囁き声を投げ、歌っていたポンチョの若者を押し戻そうとするジェスチャーをしている。そうか、こいつらの悪ふざけに、この気弱な方が付き合わされている訳か、と、出来損ないの大道芸のつまらない舞台裏が覗け、興覚めの気持ちになる。

そんなことが楽しいのは今の内だけさ。今に、お前らに付き合ってくれる仲間は居なくなる。お前たち自身の業の帰結で、どんなにお前たちの気と運とが強かろうと、手に入るのは所詮非合法的な奴隷であり、本当の友人ではないんだ。理想の概念としてまるで実在であるかの様に流布される友人では。その時にもお前たちは、苛立ちに飲み込まれず、今の様に馬鹿笑いを続けていられると思うか?…云々と私は考える。端的に言って、はしゃぐ若者達は目ざわりだった。


気弱そうな若者はなす術もなく通りへと押し戻され、また初めから歌いだす。

「だーれーもが~、うぉおおうぉおおーお~泣いてる~」

相変わらず、仲間達には抗えない癖に、発声だけは良かった。もしかしたらバンドでもやっているのだろうか、あの頭空っぽの連中とでも。

「なみだを~ひとにはみせーずに~」

そこまで歌うと止まる。仲間達は「もっと、もっと、その先も!」と、もはや囁くフリも忘れて喚いている。しかし歌わされている若者の方は、どうもその先が分からないらしく、まごついている。そして、すぐにまた「だ~れ~もが~…」と。同じ繰り返しに戻る。


誰もが泣いてる、涙を人には見せずに、か。今までこのヒットソングの存在について、かつてのヒットソングである、という以上には何も考えたり感じたりした事などなかったが…うん、改めて考えると、それ程悪くない歌詞なのかもしれない。むしろ、複雑な内容を避けるのが定石のサビの歌詞としては、最高クラスと言ってもいいのかも。などと、私は歌う若者から少し離れた場所で壁にもたれながら考えていた。女の長すぎるトイレを待ちながら。待つ時間を喫煙でやり過ごしながら。そこにあの、馬鹿な若い奴らの企んだ、真面目ですらない歌が聴こえてきた。奴らは見るからに普通の若いだけの奴らで、だから普通に馬鹿者であろう。遊びだか、揶揄いだか、罰ゲームだか何かなのだろう。浜田省吾なんぞ尊敬すらしていないのだろう。だが、それでも、そいつは歌えた。それでも歌だった。歌として捉えられる声がある。声に言葉が付き、それについて考える時間が起こる。

「良いぞー!」「おみごとー!」年嵩だが、若者達とそう変わらない位に頭が空っぽらしい、通りがかりの酔っ払い達が、三度同じ言葉を歌い終えた若者に言った。若者は、それまで無法に大声で歌いあげていたくせに、妙に生真面目にへこへこと頭を下げる。きっとこいつは、あの粗野な連中に後押しされない限り、決して一人で人前で声を上げるような事はしない性格なのだろう。本来は。しかし、人生の巡り合わせというものは、良くも悪くも、人を本来の性格のままに日々を過ごさせてくれるものではない。


「ごめんね~、待たせた。おまた~」

背をもたれていた隣の扉が開いて、やっと店の中から女が出てきた。話していても面白くもなんともない女だった。待たせた事を言った後に重ねて「おまた」と言うのは、これからセックスをさせてやってもよいという暗号のつもりらしいのだ。いつぞや、当のその股を開いて私を受け入れている最中に教えた。そういう暗号の出来損ないが、男一般を喜ばせるものだと心の底から信じているらしかった。その無邪気さだけは嫌いではなかったが、しかしそれだけだった。この女との、乾いた安らぎだけしか感じられない、居酒屋の中での時間は、全く馬鹿げているとしか思えなかった。優しいのだろうが、空虚だった。優しいと言っても、酷く限定された範囲の優しさだった。女が、男とはこんなものだと勝手に決めている優しさ。反対に男が、女とはこんなものだと決めている優しさもあるだろう。それらは結局、太腿の間に挟んでいる者さえ抱き漏らしてしまう様な、穴だらけの狭量さを性格とする。


「だ~れ~もが~」

若者は四度目の歌を始めた。いつまで歌えば終わるのか。きっと当人が一番思ってる事だろう。少し、声が弱く、脆く響く様な感じになってきた気がする。隣で女は、何の言葉も思い付かないのか、「へっ」と、何かを嘲笑う様な顔と、仕草をした。その、迷惑な芸とも言えぬ大道芸を続ける若さに対してだろう。女に対して、何か、それまでにない程苛立ちを感じた。そして、浜田省吾の誰でも知っているワンフレーズを四度歌い終えた若者は、ゼンマイの動力が切れた様に、四度静止する。

静止する程に、ネジに纏わりつく錆が増していくオルゴールだ、人間というのは。

私は、何か耐えがたかった。自分の加齢が、時間が流れた事自体が耐えがたかった。かつて自分も、分別の無い若者だったのだ。しかし、そこには、失われた良いものがあったように思えてならない。

「…次は、愛する、だよ」

と私は言った。それに対して「え?」と、街が言った。隣の女、歌う若者当人、茶化し続ける外野達。街全体が私のイレギュラーな行動を見咎めた。

「だからさ、次は『誰もが、愛する、人の前を、気付かずに、通り過ぎてく』だよ!良い声だ!最後まで歌いなよ、あんた!」

と、その気弱な若者の胆力に決して負けまいと、腹の底から声を上げて、教えてやった。そう『誰もが愛する人の前を気付かずに通り過ぎてく』だ。そうだよな、私達もかも知れない。連れの女は本当の私には気付こうとせずに男一般として私を抱くが、一方での私の方もそうなのかも知れない。どこかでお互いに等しく擦れ違っているのかも知れない。私もまた、この連れの女の本当に気付かずに。しかし…そう、教えてやった、のだ、と思った。これから加齢していくあいつに教えてやった。思いながら、隣の女の、キョトン、としか言いようの無い顔が視界に入った。同じ顔をしている、歌い手の若者が見えた。外野達の顔が見えた。相変わらず、街全体は、私の年甲斐も無い分別の無さ、役割の違いを見咎めている様に感じられた。

しかし、酔いのせいなのかも知れない、私は満足だった。満足したまま去ろう。そして女の腕を引いて、若者に背を向けて、右手を高く振りながら、歩き始めた。一世代前の男に見える身振りだった。そして振り返らない。笑うか鼻を摘まむに違いない街など振り返らない。伴う女さえ省みない。しかし後ろから、

「だーれーもが~、うぉおおうぉおおーお~愛する~…」

と、聴こえてきた事には、私の古い背中が押された様に噛みしめられた。

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