第十四話 その小さな物語は光の中へと。
◇
一通りの説明を聞いたところで、結華には一つの疑問が思い浮かんだ。
「それで……元に戻ったら、このなーちゃんはどうなるの?」
『元に戻ったら……か。そうじゃな、それは本当に元通りになるじゃろうな。体の中に魂が還ってくる……ということは、あるはずの無い肉体は失せ、あるべき姿に戻るということじゃ』
「それじゃ、ここであった出来事は……どうなるの?」
ノミコの言わんとしている事を、本当は結華自身気づいている。……しかし、聞かずにはいられない。
『結華。覚えておれ、魂は記憶を持ち帰りはしない。……お前は前世の記憶があるか? 無いじゃろう? ここであったことは全て泡沫の夢。……そう思った方が楽じゃ』
いつものように、ノミコの言葉は端的で、最速で現実を突きつける。しかし、そんな彼にも今回の件には思うところがあるのか、『……すまんの』と謝罪し顔を背けた。
「そんな……」
「でも……きっと、本当にほんの少しの時間だったけど、でも……!」
『結華!!』
ここでの記憶は、何一つ持って行くことは出来ない。
その現実を受け入れる事が出来ず、結華は「それでも、何か」の続きを探してしまう。
『…………正直、一日程度で済んで良かったと儂は思うておる。何日も一緒におれば、その分お前も辛くなるじゃろう。早く別れを済ませるんじゃ』
そんな彼女に、しかし神は優しい言葉をかけない。
『……それに、お前が助けたいのは、〝今の〟雛沢菜子なんじゃろう? ……魂は未来には進まん、巡るだけなんじゃ。このままではお前は過去に捕らわれ友を失う事になるぞ』
「……ゆいかひゃん、おわかれ、すゆの……?」
と、その幼い手で結華の部屋着の袖を掴む菜子。
……今の彼女に、自分はどんな顔を向ければ良いのだろうか。
「ううん、お別れなんてしないよ。大丈夫だよ、なーちゃん。……わたしはなーちゃんのこと、大好きなんだから。嫌いになんて、ならないんだから…………」
そのまま菜子の背に手を回し、結華は彼女を抱きしめる。
『結華! お前は……』
「分かってる! 分かってるから、今だけはこうさせて……」
……今この子に、辛い表情を見せるわけにはいかない。
つい今日見つけたばかりの、幼い女子。
そんな彼女は、今日のことを忘れてしまうのだという。……それならせめて、結華だけは今目に見える彼女の姿を、体温を、息づかいを、甘えた声を……忘れないようにしなければならないのだ。
そうでなくては、今ここにいる彼女は真に消え失せてしまうのだから。
「ゆいかひゃん、すきー」
「うん……わたしも……大好きだよ…………」
結華の頬を一筋の涙が伝う。
雛沢菜子。まるで幼い子どものように無邪気な女子。
そんな彼女は、今日。確かにこの場所に居た。
◆
再びやって来た菜子の部屋。
しかし夕方とは異なり今は三人と一匹でベッド脇に佇んでおり、玄関のドアには指先一つ触れずにここまでやって来た。
突然ノミコが『束の間の神隠しじゃ』と口角を上げその手を引いときには驚いた結華ではあるが、なるほどそれはここまで瞬間的に移動するためのものだったようだ。
「えぇっ、こんな事出来るの!?」
と目を見張り全身で驚きを表現する蛍。その声はいつもの大きさで、「蛍ちゃんちょっと声!」と結華は耳打ちする。
「あっ、ごめん……」
『いや……良い。今この場におる全員、儂と同じ程度まで人間から感知されにくくしておるからの。一般人のご両親から感づかれることも無かろう』
「……そんな事も出来るの?」
『仮にも神じゃからの。万能ではないが、人間の尺度で測って良い程度の存在でもないわ。さて――早速魂のズレは修正され始めたようじゃぞ』
ノミコの言葉に、結華は菜子……もとい、彼女の魂である幼い女子の方へ目を向ける。
目が合った菜子は数回瞬きをして、そして。
先程までとは違う穏やかな表情で結華と視線を交差させ、閉じていた口を開いた。
「結華……?」
たった一言。
見た目の変化は無い。……しかしその一言だけで、彼女の変化は十分伝わる。
「うん……なぁに、なーちゃん?」
まるでいつもの二人のように、菜子と結華は話を始めた。
「中学の体育祭でわたし……あたし? どっちだっけ……わたし、かな。……が転んじゃった日のこと、覚えてる?」
「うん、勿論覚えてるよ」
「あの時わたし、本当に世界に一人きり……みたいな? 感じで……。ごめん、上手く言えないや……」
「ううん、良いんだよ。なーちゃんの言葉でもっと聞かせて」
「ありがと。それでわた……あたし、本当に嬉しくって。結華はあたしのこと、真っ先に助けに来てくれたから」
「うん」
徐々に、しかし確実に。その魂は高校生の雛沢菜子そのものになりつつある。
それでも結華は彼女の話を止めない。止める気も無い。……何故ならこれは、彼女の魂の叫びなのだから。
「あれから結華は、ずっとあたしにとって特別な存在なの! だから結華の隣に立てるように話し方とかメイクとか、髪型だって――」
彼女の言葉に、遂にその外見までもが姿を変えていく。
ふわりとしたロングの茶髪に、完璧なメイク。アイコニックな丸い目を見せるために眼鏡は外して、その腕に付けているのは可愛らしいシュシュ。
しかしその制服は中学時代のソレで、背丈もそのまま。それはまるで彼女の言葉に呼応しているかのようで、『言霊……というやつじゃの』と狐神は呟いた。
「制服も少しスカート短くしたりしてね、ちょっとでも可愛く見せるようにあたし……頑張ってるんだよ……?」
「うん、うん……!」
もうそこに、幼き日の彼女はいない。
風海東高校のセーラー服姿に、その話し方と外見のお洒落感は誰の目から見てもいつもの彼女で……それは終わりの時がすぐそこまで迫っていることを示していた。
「ねぇ結華、あたし……可愛い?」
「…………なーちゃんは、ほんとにバカだね」
結華は息を吸って。
「なーちゃんはあの頃からずっと……ずっとずっと可愛いままだよ! でも、可愛くなるために頑張ってる今のなーちゃんは格好いいし超可愛いの! それって、自分が愛せる自分でいたいってことでしょ! そのために周りと違っていられるのは、超かっこいいじゃん!」
そう笑顔で本心を伝えると、菜子を抱きしめた。
「…………だからもう、帰ろうよ」
「なーんだ。……あたしが欲しかったもの、ずっとここに在ったんだね…………」
菜子の存在が煙のように揺らぐ。
それはランタンの灯りのように淡いオレンジの光になると、人の形を失いベッドに横たわる在るべき場所へと還る。
その中身を失った衣服はただの無機質な物体となり、ただその感触と体温の残滓のみを結華の手のひらに残していく。
その瞬間は、本当に唐突で。
理解する準備なんか出来るはずもなくて。
「あっ、な……なーちゃ――」と結華の口をついて出たのは声にならない声。
――なーちゃん、行かないで。
その先を口にする事は叶わず。
代わりに堰を切ったように涙が溢れて止まらなくなる結華。
震えるその背を見かねた蛍が彼女を抱きしめたその刹那、室内は目映いばかりの光に包まれる。
時間にして、一日にも満たない小さな小さな物語。
朝日にも似た爽やかな光の中で、その怪奇譚は幕を閉じた。
◇
二日間にわたった期末試験も、ようやく終わりを迎えた十三日の金曜日。
……せっかくのテスト明けなのに、なんて並びなんだろう。と心の中で某洋画を呪いつつ結華は隣の教室へ向かうことにする。
なにせここ数日は本当に様々な要因が重なり、結華はあまり肇と話せていないのである。……何より、遅れを取り戻すように一人きりで試験勉強に励んでいた彼を、結華は労ってやるべきだろう。
「――結華!」
と、テスト明けで賑わう教室の外で、一番に結華の耳に入ってきたのは、何度も聞いた彼女の声。
声のする方へ、結華は視線を向ける。
「なーちゃん……」
ロングの茶髪をふわりと揺らして掛けてきたのは、見間違えるはずもない、ずっと言葉を交わしたかった彼女。
元気に動く彼女の姿に一瞬目が潤むが、どうにか切り替え笑顔で彼女を迎える。
「ただいま、結華」
「おかえり、なーちゃん。……遅かったねぇ、大遅刻?」
と、いつものように軽口をたたく結華。油断すれば鼻声になってしまいそうで、口をついて出た一言だった。
「ふふっ、そんなところ! なーんか、ずっと夢を見てたみたいなの」
「夢?」
「そう、夢。あたしって案外お母さんのこと……あっ、結華ごめん」
「良いって、気にしないで続けて」
「そっか。うん、それじゃ。……お母さんにね、体を洗ってもらって、抱きしめてもらって、お腹が空いたらご飯を分けてもらって。すごく……温かい夢を見ていたんだ」
「そ……そう、なんだ…………」
……あの狐神は確かに言っていた。魂は記憶を持ち帰りはしない、と。
「それでね、あまりに幸せで寝そうになったら、歌を歌ってくれたの! 良いに匂いがして、それでね――ってなんで泣いてんの結華!?」
「いや……だって…………」
言われるまで結華自身気づかなかったが、その頬を伝っていたのは大粒の涙。
――消えたって、思ってたのに……。
それをなんとか手の甲で拭おうとするも、昨夜の続きが溢れて止まらなくなる。
「胸、貸そうか?」
「あいがど、マジい゛いお゛んな゛……」
すっかり鼻声の結華に、菜子ははいよ、とその柔らかな胸部を差し出し抱きしめる。
「これじゃ、あたしがお母さんみたいじゃん……。マジで泣き止まないし…………」
はぁ、とため息をこぼしながらも、菜子は彼女の背を優しくさする。
その温度と感触が、更に結華の涙を誘うとも知らずに……。
それから少し間を置いて、騒ぎを聞きつけたらしい肇が隣の教室から姿を見せたが、菜子は人差し指で「しー」と合図を送り黙らせた。
「なんか……感極まり? みたいな。泣き疲れちゃったみたい。ごめーん、もうちょっと待ってて」
なんとなく事情を察した肇は二人の傍を離れ、腕組みをして窓際に佇む。
窓の外は昨日までの曇天が嘘のような晴天で、目映いばかりの日の光と、インクを返したような青一色の空は、蝉の鳴き声と共に〝夏〟を報せていた。




