第十二話 可憐な異変は優しく抱きしめよ。
かくして、その後。
所用も済んだ二人はそのまま家の中へ入り、ひとまずはシャワーを済ませる事にした。
結華の方は「二人で入る?」と提案したのだが、流石に狭い空間に生まれたままの姿で二人きりというのは緊張してしまうため、「いや、順番に入ろうよ。わたしは後で良いから!」と返す蛍。
「でも、蛍ちゃんお客さんだから。先に入っちゃってよ。お父さんと鉢合わせしたら気まずいと思うよ?」
と、あくまで蛍に気を遣わせないためであることをアピールする結華。今はこの一軒家には二人きりだが、あと一、二時間もすれば仕事を終えた結華の父が帰ってくる頃合いなのだ。
「……良いの?」
「勿論、それにわたし部屋の掃除とかもしないとだし。この方が効率的でしょー?」
この言葉がトドメとなり、結局蛍は彼女の言うとおり先に浴室のシャワーを使わせてもらうことにした。
……全身の不快感に、ようやくさよなら出来る。「よしっ」と一人呟き早速蛍は濡れた衣服を脱いでいくことにする。
「服は全部カゴの中に入れておいてー! 後でわたしのと一緒に洗濯乾燥機にかけるから!」
と制服のファスナーに指先が触れたところで、脱衣所の外から結華の声が木霊する。「はーい」と蛍は自宅と同じように返事をして、そのまま上着を脱いだ。
制服、靴下、他の娘達と比べると大人っぽい藍色の下着……。
それらを洗面器の上で絞り、可能なだけ水を出し切るとそれを縦長のカゴの中にまとめて入れる。
一仕事終えた蛍は、「ふぅ」と息を吐き、洗面台の三面鏡の前に立ってみる。
健康的な褐色肌に、メリハリの良い肢体。中学から一気に大きくなった豊満な乳房に、すっかり外で乱れてしまったショートの黒髪。……と、その姿を覗く丸々とした瞳。
「すんごい、かぁ……すんごい、のかなぁ、これ……」
ぷにぷにの二の腕を指でつまんでみる。太っているとまでは言わないが、中々のぷにり具合で指先に伝わる感覚は心地良い。
「……いっきし! あー、早く流してこよ」
くしゃみと共に小さく体を震わす蛍。さしもの彼女もその現状には危機を感じ、セルフボディチェックも程々に浴室へ向かうことにした。
◇
その全身をタオルで拭き上げ、びしょ濡れの制服から動きやすいシンプルな部屋着に着替えた結華は、考えを巡らせていた。
……菜子の件は、今考えていても仕方が無い。ひとまず落ち着いて部屋の掃除を始めるとする。
とはいえ結華は普段からコツコツタイプなので特別汚い部屋というわけでもないのだが、蛍用の布団を敷くスペースの確保くらいはしておくべきだろう。
「……臭いは、大丈夫だよね?」
一人確認するも、念のためスプレーを室内に散布する結華。ふわりと宙を漂う柑橘系の香りが、彼女の心を僅かばかり落ち着けていく。
――まずは、机の上を整理してしまおうかな。
脳内で簡単に作戦を立て、結華は机の上に広げられた勉強道具を棚に戻す。明日はいよいよ期末試験ではあるのだが、今は勉強どころではないのである。
「んー、布団敷くなら真ん中しかないかなぁ」
掛け時計を確認してみると、その針が指し示す現在は午後六時を少し過ぎたあたり。
……一旦掃除機をかけ、母の使っていた布団を部屋の隅に置くことにしよう。寝る時間になったら部屋のテーブルを片付ける流れで問題ないだろう。
「……うん、とりあえずはそれで、い――!?」
一人頷いた、その刹那。
耳を劈いたのは、「きゃああああぁぁぁ」と甲高い女子の悲鳴。その声の主は……言うまでも無い。
「――蛍ちゃん?」
……意外に虫が苦手だったりするのだろうか。
風呂場で悲鳴とくればこれはもう間違いないだろう、と高を括る結華。階下の浴室に向かうその道中、彼女は対処のため戸棚からスプレーを一本手にした。
浴室のドアを開くと、流しっぱなしのシャワーの音がBGM代わりに響いているような事もなく、褐色肌の女子がドアの前に佇んでいた。……これはいよいよ間違いないか。
「…………どこ?」
「そこ……」
その褐色女子……蛍は浴室の床を指さす。
結華は彼女の隣を通ると、スプレーをその目標へと向けて、しかしすぐにそれを落としてしまう。
カラン、カランと無機質な音が、浴室にけたたましく鳴り響く。
「な……んで…………」
結華の唇が乾いていく。呼吸さえ忘れて、ただ眼下のソレから目を離せなくなってしまう。
「ん……う……?」
ぴくり、と体を一瞬小さく震わせ、ソレは目を覚ます。
結論から言うならソレは……結華の思っていたものではまったくなかった。
更に言うならそれは、〝現在〟にいて良いものではなく、いるはずのないものだった。
「なーちゃ……ん…………?」
小さく、呟くように吐いた結華の言葉。その言葉に、ソレは「あーいー」と赤子のような反応を見せる。
浴室の床に横たわっていたのは、一人の少女。
蛍と同じ生まれたままの姿に、しかしアイコニックな黒縁眼鏡はそのまま、普段は三つ編みのおさげにしている黒髪はほどけてそれこそ寝起きのように乱れている。
……それでも、結華には分かる。間違えるはずも無い。
…………何を隠そうそこに居たのは、懐かしき中学時代の姿そのままの雛沢菜子だったのだから。
あの頃の雛沢菜子が、今目の前に居る。
しかしその言動は幼く赤子のようで、話しかけても「あー」や「ゆいかひゃん!」とまともに会話が成立しない始末だ。
「この状況を一体どう考えれば……」
本当に、荒唐無稽な話である。
今日、結華は確かに寝たきりになっている彼女――菜子を自分の目で見た。
雛沢菜子。
可愛らしいふわりとした茶髪とバッチリ決めたメイクが似合う、お洒落な女子。高校に通う誰から見ても恐らく印象はそうで、瞳を閉じているとはいえ結華が見たそれはまさしくその人だった。
しかし……ならば今目の前にいるこの女子はなんだ。
黒縁眼鏡に、浴室を出てすぐに梳かしたおさげの黒髪。その肌は色艶の良い薄橙色で、結華の顔を覗き込むその顔はあの頃と同じようにあどけなさを残し可愛らしい。
そんな彼女もまた、雛沢菜子であり、結華は混乱のあまり今すぐ思考を放棄してしまいたいとすら思い始めた。
「ねぇ、結華ちゃん、わたしの思ってる通りなら、この子って……」
「うん、なーちゃんだよ」
結華の声に、「ゆいかひゃーん」と抱きつく幼き菜子。その肌の感触すらあの日のままで、結華は内心余計に頭を抱えてしまった。
「だよね……あはは、意味わかんなーい!」
と、隣に居た蛍はベッドの上に体を沈ませる。シャンプーの甘い香りが宙を漂い、結華は小さくため息を零した。
「ゆいかひゃん、わたし……きらひ?」
件の少女は結華の部屋着の袖を引っ張り不安げな声を出す。
彼女には昔結華が使っていた部屋着(激カワ)を着せていて、今は三人揃ってちょっとしたパジャマパーティー状態である。……無論、今はパーティどころではないのだが。
「んー? なんで、わたしは嫌いになんてならないよー? なーちゃんのこと、大好きなんだから」
その無垢な瞳に罪悪感を感じてしまい、結華は彼女の背に腕を回しその体を抱きしめる。その体は今と比べると一回り小さく、結華が小さな彼女を包み込むような形だ。
「よかったー……ゆいかひゃん、いいにおいー…………」
「まったく、もう……」
……自分に娘が出来たら、こんな感覚なのだろうか。と想像しながら、菜子の背をトントンと優しく叩き始める結華。
いつもは元気な蛍も今回ばかりは空気を読み、その隣で携帯端末を弄り口を閉じている。今この空間にあるのは、部屋の窓を叩く小さな雨音と、時計の秒針が一定のリズムで動く音に、背を叩く小さな音のみ。
穏やかなひとときが、ゆったりと過ぎていく。
やがて安心したのか、菜子の呼吸は徐々に穏やかに落ち着いていく。
その変化を結華は見逃さず、背を叩くその手はそのままに小声で子守唄を口ずさみ始める。……それは、彼女が唯一知っている母との思い出の曲だった。
「~♪」
穏やかな時間も、やがて終わりを告げる事になる。
歌い終えたのか、小声で蛍に「寝たかな?」と訊ねる結華。
そんな彼女に、蛍は口を開きそうになるも慌ててその口をへの字に閉じ、両手で丸の字を作ると「寝たよ」とアピールした。
察した蛍がその場に立って構えると、二人は協力して菜子をベッドに寝かせる。
「結華ちゃん、きっと良いお母さんになるよ」
菜子にタオルケットを掛け、彼女の乱れた前髪を指先で整える結華。そんな彼女の姿に、蛍は小声で呟く。
「そうかな、そうだと良いなぁ……」
結華は穏やかな寝顔の菜子に優しく微笑みかける。
窓の外は、もうすっかり静まりかえっていた。




