第十話 今目の前に在る現実を見つめよ。
◇
果たして、その日の放課後は買い物を済ませ雛沢家に向かうことになった結華。
しかし当然彼女一人で向かうわけにはいかず、その護衛として蛍を連れて行くことが、蛍の父伶哉から出された条件だった。
「袋、重くない?」
「んーん、片手で持てるし大丈夫だよ。それに、蛍ちゃんはいざという時のために両手を空けておかないと」
片手にフルーツゼリーやスポーツ飲料等が入ったビニール袋を引っ提げ、朗らかな笑顔を見せる結華。
今日の面子は珍しくここにいる二人のみで、既に肇は試験勉強のため先に家へ帰らせていた。
普段からコツコツ学習しているタイプの人間である結華はあまり気にしていなかったが、現在は試験前で、多くの学生たちは彼同様最後の追い込みに奮闘しているのである。
「確かに! そのためにお父さんから指名されたんだもんね!」
と、手のひらの上に小さな結界を作って見せる蛍。
いつもの落ち着かない足音と共に結華へ白い歯を見せるその姿は、まるで幼い子どものように無邪気だ。
そんな彼女を真似て、結華も手のひらに半透明の立方体を作ってみる。その手つきは既に慣れたもので、結界術に長けた蛍から見てもそれは見事な精度だった。
「ほんとに結華ちゃんは凄いね! 普通いきなりやれって言われても出来ないのに……」
「そういうものなの?」
あれよあれよという間に作れるようになってしまった結華には、イマイチ実感がない。
……これはなんと言えば良いのか、彼女は生まれて初めて使うはずのこの術を扱うことになんの違和感もなく、あまりにスムーズで。口にこそしないものの、それこそ自分自身歩くことと同程度のことに感じてしまったのである。
「うーん……っと! 例えばだけど、結華ちゃんって、初めて泳げるようになった時のこと覚えてる?」
「んぅ? それは……まぁなんとなく?」
……五、六歳の頃だろうか。遠く幼い日に結華は思いを馳せる。
「それって、多分だけどいきなり出来たことじゃないよね? 他には例えば……初めて自転車に乗った日とか! 大人の人だと、車の運転とかがそうだってお父さんは言ってたかな?」
「あー……これもそれと同じ事なの?」
結華は使っていないもう片方の手で手のひらの上にある立方体を指さす。蛍は強く頷いて。
「うん! 普通は四角形をイメージして、ペラペラの紙みたいなのとか作れるようにして……って段階を踏むはずなんだけど、結華ちゃんはいきなり出来ちゃったから……お父さんがピリピリするのも分かるんだー」
そう言うと曇り空を見上げた。
彼女の視線を追って、結華も顔を上げると、
「…………あ」
ぽつり、ぽつりと。その白い肌を雫が濡らした。隣にいた褐色少女も同様で、二人はゆっくりと視線を地上に戻し交錯させる。
「……降って来ちゃったね」
「うん。確かなーちゃん家の手前にコンビニがあるから、そこで傘買ってこよっか」
「せっかく傘代ケチったのにねー」
「ほんとにねぇ」
くすくす笑い合う二人。……予報とはアテにならないものだな、と結華は内心苦笑した。
降り出した雨はシトシトと止む気配がなく、勢いはなくとも確実に下界を濡らし続けている。
それはまるで世界そのものが泣いているようで、自然と二人の言葉数は少なくなっていった。
一歩進む度に靴の裏が地面の雨水を弾き、ぴちゃり、と湿っぽい音を鳴らす。差した雨傘を伝って地面に落ちる雨水も同様に、歩く度にぴちゃぴちゃ、と二人の歩みに続くように音を鳴らす。
常に一定のリズムで続くそれは、自然が作り出す音楽にも思える。
ただし、その演奏は際限なく続くものでは勿論無く、目的の一軒家が二人の視界に入ったところで一旦終了と相成った。
「それじゃ、結華ちゃんは早く行ってきなよ」
「うん。……ごめんね、ここまで来たのにわたし一人で」
傘を持っていない方の手でごめんなさい、と蛍にジェスチャーを送る結華。その動きに合わせて、手首に引っ提げたビニール袋がガサガサと無機質な音を立てた。
「いいって。わたし、あんまり菜子ちゃんと絡みないし」
「あはは、そりゃそうか」
会話はそこまでにして、結華は家のインターホンを押すことにする。ピンポーンと軽快な電子音を雨音の中で響かせた後「はーい」と機械の向こう側から中年女性の声が聞こえた。
「こんにちは! 突然ごめんなさい、わたし、なーちゃ……菜子ちゃんの友達の結華ですー!」
『あら、結華ちゃん久しぶりね。玄関開けるからちょっと待ってて頂戴』
言うより早いか、ガチャリと無機質な音を立てて解錠するドア。
傘でその表情は見えないが、結華は最後に蛍に向けて「バイバイ」と手を振ると、オレンジの明かりが隙間から差すその向こうへと歩を進めた。
玄関の脇に傘を立てかけ、半開きのドアを開く結華。
中に入るとそこにはインターホンの中年女性……もとい、菜子の母が佇んでいて、笑顔で結華を迎えてくれた。
「ほんとに久しぶりね結華ちゃん。またちょっと大きくなったんじゃない?」
「もう、前会った時と変わんないですってー」
「あら、そう? ……ところで、今日は菜子に何か用事かしら?」
「あっ、学校の先生から体調不良だって聞いたんで、これを」
結華は片手に持っていたビニール袋を彼女に手渡す。
「やだごめんなさいねぇ。ほんと結華ちゃんは出来た子ねぇ」
「いやいや、なーちゃん早く元気になって欲しいだけですって。えっと……それじゃわたし、そろそろ帰りますね。今日はほんと、それ渡しに来ただけなんで」
用事も済んだところで結華は身を翻し再び大型のドアノブに触れる。……と、「ちょっと待って結華ちゃん」と呼び止められた。
突然の声に結華は体を一瞬ビクッと震わせ、彼女の方を振り返る。すると先程までの和やかな雰囲気から一変、神妙な面持ちの彼女がその視線を交差させた。
「……結華ちゃんさえ良ければ、あの子に会ってもらえないかしら」
その目と言葉はまるで結華に懇願しているかのようで、一抹の不安を覚えつつも、結華は「はい」と首を縦に振ってしまう。
――ごめん、蛍ちゃん。遅くなるかも。
そう心の中で頭を下げ、結華は靴を脱ぐ。今朝から待ち望んでいたはずの友人との再会を前に、しかし彼女の胸中はひどくザワついていた。
◆
当時の記憶に思いを馳せる。
結華から見た当時の彼女は、実は今ほど垢抜けてはおらず、どちらかと言えばクラスの隅にいるような、地味な女子だった。
雛沢菜子。
当時中学生の彼女はこの町に越して来たばかりで、友人らしい友人はいなかった。
今では考えられないが当時の彼女といえば地味な黒縁眼鏡に三つ編みの黒髪で、休み時間は黙々と本を読み放課後は図書室へ向かうような文学女子だったのだ。
転機があったのは、一年生の時の体育祭。
客観的に見て運動能力の良い方では無い菜子がクラス対抗リレーの最中、その足をもつれさせて転んでしまった時の事である。
「あーあ」「ほら、雛沢さん運動苦手だから」「立てるかな?」「大丈夫じゃない? 先生も何も言ってこないし」「まぁ、期待はしてないっていうか」「バカ、聞こえるだろ」「お前も笑ってんじゃん」
誰もが他人事のように見ていたその事態に、ただ一人、迅速に動いた生徒がいた。
「――雛沢さん、大丈夫!?」
彼女の名を叫び、セミロングの黒髪を揺らして白線をはみ出したのは、一人の女子生徒。
「伊坂実……さん…………?」
そう。その女子生徒こそが、当時の伊坂実結華だったのだ。
「そうそう、伊坂実結華! ちょっと足見るね。……少し赤くなってる、結構痛そうだけど……動かせる?」
「待って、今やってみ……あ痛ッ!」
足についた砂を軽く払い自力で立とうとするも、菜子の足は見た目よりも重症らしく、苦悶の表情を浮かべる。目の端には雫が浮かんでいた。
「わわ、無理しないで。……せんせー! 雛沢さんケガです! サボってないで担架持ってきて下さい~! 保健室、わたし一緒に行くんで!」
「え……?」
「ん? だってほら、付き添い……必要だよね?」
結華の言葉に、あっけにとられた様な顔で小さく頷く菜子。結華の言葉は端的で力強く、先程までは他人事のように振る舞っていた生徒達もザワつき始めていた。
それから程なくして、二人は歓声轟くグラウンドを離れ、場所を移すことになった。
「それじゃ、俺は応援に行ってくるから」
「はぁい、ありがと先生。わたしはここで休んでまーす」
「サボりじゃ無かろうな……」
「……先生がそれ言うんですね。あの時、なんですぐに雛沢さんを助けに行ってあげなかったんですかぁ?」
毒のある結華の言葉に、一瞬シンと静まりかえる空気。
中年の男性教師は咳払いをして。
「いいか、とにかく雛沢は安静にしているんだぞ。伊坂実は好きにしてろ」
しかし質問の答えはくれてやらず、未だ消毒液の匂いがほのかにする保健室を後にした。
「ふん、給料ドロボーめ」
彼の足音が離れていく最中、鼻を鳴らす結華。菜子はというと相変わらずで、純白のベッドに横たわったままあっけにとられていた。
「……にしてもひどいよね、アイツら。同じクラスの仲間なのにさぁ」
「えっと……ありがとう、伊坂実さん。でも、あんなこと言って大丈夫なの?」
「んぅ? まぁ、大丈夫だよ。わたし何も間違ってないし、それに前からあの人のこと大嫌いだから」
ため息混じりにベッドの端に結華は座る。……と、運動後の体操着に自らその顔を寄せ、「臭い、大丈夫かなぁ?」と独り言のように呟いた。
「大丈夫大丈夫、全然臭くないよ。伊坂実さんは、凄いね……」
「え、何が?」
「だって、あの場で助けてくれたの、伊坂実さんだけだったでしょ? 皆と違うことするのって、きっと勇気がいる事だと思うから」
そう今の素直な気持ちを伝えると、今度は「ん、んー?」と腕組みをして頭を悩ます素振りを見せる結華。
「ごめんわたし、そんな難しいこと考えてないや。ただ、あそこで動かないと後悔する気がしたから……かな? ただの自己満足ー。それにほら、こうやってサボれるし一石二鳥なんだよぉ。……ぶっちゃけさぁ、走るのとかダルくない?」
「ふふっ、なにそれ。不良みたい」
「あっ、やっと笑ったー。いつもそうしてれば良いのにぃ」
僅かに口角を上げた菜子に、結華は腕組みを解き、グッとそのよく整った顔を近づける。それは鼻先と鼻先がくっついてしまいそうな距離感で……。
――ち、近い……。
二人きりとはいえ気恥ずかしくなってしまい、頬を紅潮させた菜子はその目を脇に逸らした。
「ど……どうして?」
「? 雛沢さん笑ってるほうが可愛いからだけど? いつも本読んでて表情硬いから何考えてるか分からなかったんだよねぇ」
――か、可愛い? わたしが?
「そうそう、いつもどんな本読んで――ってうわ雛沢さんなんで泣いてるの!? ごめん、顔のこととか言われるの苦手だった……?」
……可愛くなんて、ないよ。そう否定するよりも先に、菜子の頬を一筋の雫が伝う。
指先で拭おうとするも、次々に温かいそれは溢れて止まらなくなってしまう。
「ううん。……ううん、違うの! わたし、可愛いって言ってもらえて、凄く嬉しいの。それで……それでね、ほんとはあの時、わたし一人が皆から除け者にされた気がして、それでね……」
涙混じりに今の気持ちを訴える彼女に、「うん」とだけ返し、話に耳を傾ける結華。
「それでね……だから、もう学校生活とか、全部あんな感じになっちゃうんだろうなって……! 死んじゃいたくなるくらい気持ちが真っ暗になって……だからあの時伊坂実さんが来てくれて、わたし……本当に嬉しかったの。だから……ありがとう…………」
その思いに、しかし結華はすぐには言葉を返さない。代わりに体を起こすようジェスチャーで伝えて、その直後。
「大丈夫だよ、わたしはあなたを除け者になんかしないから」
そう言葉を紡ぐと、遅れて体を起こした菜子を、その白くしなやかな両手で優しく抱きしめた。
「伊坂実さん…………」
伝わる彼女の体温に、またも涙ぐんでしまう菜子。……今日は表情豊かな一日だな、等と他人事のように菜子は思った。
「その第一歩として、まずはわたしたち、下の名前で呼び合おうよ。ねっ、なーちゃん!」
「な……なーちゃん?」
「? 菜子ちゃんだから、なーちゃん。おかしいかな?」
耳元から聞こえてくる結華の声はとろけるように甘い。
甘くて、心地好くて……菜子にとって今この時間は、まさに甘い夢の様だ。理想の物語。……けれどそれは、確かにそこに在る現実でもあった。
「ううん、全然おかしくないよ、最高。えっと……結華」
「そっか、それなら良かった。それじゃ改めて――なーちゃん」
抱きしめていた手を離し、今度は菜子の目を真っ直ぐ見据える結華。その頬は二人分の体温で上気していて、いつにも増して可憐な少女の姿をしていた。
「なに? 結華」
「これからわたし達は、友達になるのです。オッケー?」
「お……オッケー?」
「うん! それじゃあ早速話の続きを聞かせてよ!」
「? 続きって?」
「なーちゃんはいつもどんな本を読んでるの?」
まさかの質問に、菜子は口角を上げる。
――わたしは、彼女のようになれるだろうか。
「それはね――」
――彼女のように強く、他人と違うことを恐れずに生きられるだろうか。
「…………なんだけど、これが結構――」
――こうして困った人にすぐ手を差しのばせるような人間に、なれるだろうか。
「えぇ、そうなんだぁ! それじゃあその犯人って――」
――答えはきっと、動いてみないと分からない。
「そうそう! だからわたし驚いちゃって――」
――ならばわたしは、せめて最大限自分を可憐に見せる努力をしよう。……そうでなくては、わたしは彼女の隣で笑えないのだから。




