第一話 夏のはじまりは獣の同居人とともに。
――どれだけ彼女が変わろうとも、結局僕の答えは変わらなかったんだ。
◇
何度でも彼女に手を伸ばし続け、ようやくつかみ取った明日だった。
窓の外から聞こえてくるのは、夏の始まりを告げる蝉の大合唱。
聞きなれた携帯端末の無機質なアラーム音が室内に木霊する、平日の午前七時前。
「んぐ……」
もぞもぞと肌掛け布団の中から手を伸ばし、けたたましいソレを停止させる。
画面を確認すると、時刻は既にいつもの起床時間で、カーテンの隙間からは一筋の日の光が部屋に差していた。
――なんて無駄な休日を過ごしたのだろう。
そうため息混じりに内心毒づき、少年――依本肇は重たい体を起こそうとする。……が、その体は何か重い物で押さえられているように上手く起き上がらない。
……昨日はせっかくの日曜だというのに、結局はベッドの上で過ごすだけの一日となってしまった。
それを加味すると疲労感から体を起こせない、なんて事はないはずなのだが……。
「あれ、なんだこれ……」
重みを感じる腹部のあたりを撫でてみる。すると肇の指先に伝わったのは、獣の毛を撫でるような柔らかな感触だった。
『のじゃあ~』
「の……のじゃ……なに?」
慌てて声の主を確認してみる肇。その視線の先にあったのは、宝石のような輝き。
彼を覗いていたのは、まんまるとした翠玉色の瞳だったのだ。
『――ふわぁ』
その瞳の主は、呆気にとられる肇を尻目に小さくあくびをする。
彼の腹部に小さく丸まっていたその人物の外見は、言ってしまえば奇天烈だった。
きつね色の髪にきつね色の体毛。その色を裏切らない狐そのものな長耳。
しかしその鼻は低く人間そのもので、『……おぉ、おはようハジメ』と当たり前のように人語を話しはじめる始末。
半人半獣なその人物(?)の正体を、肇は寝起きの頭をフルで回転させどうにか思い出す。
「――おはよう、神様。その、そろそろどいてくれると嬉しいんだけど……」
『あぁ、それもそうじゃな』
肇の腹部を軽く蹴ると、宙で体を一回転させその小さなケモノはカーペットの上に見事着地する。
見た目でいえば直立した狐の長鼻抜きな彼には、肇と同じようにれっきとした名がある。
夜長月勇槍之御狐。
愛嬌たっぷりなその小さな同居人の正体は、神様だったのだ。
◇
いつも通り制服姿に着替え、階下で朝食を済ませた肇は家を出る。
今朝の天気は長く続いていた雨が嘘のような快晴。
その眩いばかりの日差しとけたたましい蝉の合唱に、彼は目を細めた。
「……結局、学校にもついて来るの?」
と、目線を地上に戻した肇はすぐ脇に佇む件の同居人に話しかける。
『当然じゃ。……今の儂には何もないからの、観測できる者の傍はなるべく離れんようにせんとな。……そのためにハジメに憑いておること、まさか忘れてはおらんじゃろう?』
「…………あぁ、忘れるわけがないよ」
肇は六月末の出来事を思い返す。
神との約束事。契り。
転ずれば呪いともなりうるそれは、今は奇怪な同居人という形でその結果をここに残している。
……いや。結果といえば、もう一つある。
自宅を出て一分も歩かないいつもの家の前に、肇は一人の少女の影を見つける。
光の中に溶けてしまいそうな、雪のように白い肌の少女。
その髪はその雪の肌に生える黒のセミロングで、その肢体はしなやかで女性らしい。
「あ、ほんとに今日はノミコさんといっしょなんだぁ」
と、その少女は白い歯を見せて笑う。
風海東校二年、伊坂実結華。
……そう。この、朗らかながらもどこか儚い彼女の存在こそが、もう一つの結果そのものなのだ。
「の……のみこさん?」
聞き慣れない呼び名に首を傾げる肇。脇を見ると、小さな同居人も共に首を傾げその長耳を揺らしていた。
「うん、よなが……なんとかつき……えっと、うんちゃらのみこだから、ノミコさん! お狐さんよりは良いかなって」
結華が独特の言葉と共にその視線を小さな同居人、もとい小さな神様に向けると、彼はぴょん、とその場で跳躍した。
『これユイカ! 儂には、夜長月勇槍之御狐というれっきとした名があるじゃろうが!!』
フンフンと鼻息荒く、その小さな手(前足?)を振り猛抗議をする。
そんな可愛らしい彼の姿に、結華はプッとつい吹き出してしまう。
「ふふっ、ごめんごめん! でも、正直お狐さんの名前って呼びづらいし」
『それは……そうなのか?』
と、再び地面に着地した彼は隣の肇を見上げる。肇は無言で頷いた。
『そ、……そう、か……儂らの名はこれくらいの長さが普通なんじゃが……』
「そうなの?」
こてん、と首を傾げる結華。
彼は結華たちと異なり神……いわゆる、天つ神という存在だ。そのネーミングセンスにおいても人間と異なるのは無理からぬ事だろう。
『ユイカたちの時代で言う、〝佐藤さん〟くらい普通じゃと思う』
「「そんなに……」」
その後。
ご近所兼幼馴染という最強属性持ちでもある色白の乙女、結華と肇の二人で、彼の呼び名についてしばし議論がおこなわれる事となる。
しかしいくつか意見を交えたところで、結局は当初の予定通り、『ノミコさん』呼びで落ち着いてしまうのだった。……もっとも、当の本人はやや不服そうではあるのだが。
◇
少し憂鬱な月曜日の授業。
それを終えた生徒たちが終業のチャイム音と共に教室を飛び出し、校内が明るい喧騒で満たされたその少し後。
教室に残り黙々をノートをまとめている一人の少女に、肇は「よっ」と軽く挨拶をして隣の空席に腰かける。
ここは放課後のオレンジに染まる風見東高、二年二組。
肇のクラスは隣の三組で違うクラスではあるが、昔から気の合う二人は、こうして同じ時間を過ごす事が多くあるのだ。
「あ、肇くん授業おつかれ。もうちょっと待っててね……」
と、その色白の乙女……もとい肇の幼馴染、結華は挨拶もそこそこに再び机の上に広げたノートに視線を落とす。その表情は真剣そのものだ。
「……日誌?」
「うん、そうそう。そろそろ終わりそうだけどねー」
『なんじゃこれは、報告書か?』
「うん、そうそ……って、ノミコさん?」
一体いつの間に姿を現したのか、机の向こうから結華の顔を覗く翠玉色の瞳に、遂に結華は作業の手が止まってしまう。
『……なんじゃ、続けて良いんじゃぞ?』
にへ、とその小さな牙を覗かせてその小さな神様……もとい、ノミコは微笑む。
「んんっ」
「……結華?」
「大丈夫、大丈夫……もうすぐ、終わるから――って、ああああぁぁぁ!?」
その愛嬌に喀血しかけるも、なんとか歯を食いしばり結華は作業を続けようとし、しかしそのすぐ脇に感じる彼の温度がそれを止めさせてしまった。
『ほうほう、今のニンゲン達はこんな事をしておるのか、面白いのう!』
お日様のように穏やかな香りを纏った彼は、結華の気も知らずピタリとその獣の体を彼女に密着させる。
「あばばばば……」
「こらこら神様、結華は今集中してるんだから、邪魔しちゃ駄目だって」
『んぅ?』
と、その様子を見ていた肇は隣からノミコを抱きかかえると、小さな子供を扱うように膝の上に座らせる。それを拒否しないあたり、ノミコも満更でもないらしい。
……一瞬、結華が肇をキッと睨んだのは気のせいだと思いたい。
それからしばらく時間が経ち、「やっと終わったー」と結華がノートを閉じ机の上に広げた筆記具を片付け始めると、肇の膝の上でウトウトとしていたノミコははた、と目を覚ましその小さな口を開いた。
『ふわぁ。……ユイカ、少し話があるんじゃが、そろそろ良いかの?』
「え、話? 別に良いけど……わざわざ待っててくれたの?」
『神は寛大じゃからの』
腰に手を当てそのふわりとした胸を張るノミコ。
肇の膝の上をぴょん、と跳ね床に着地すると、早速話を始めた。
『実は昨日、ちょっとした予知夢を見ての……内容が内容じゃから、ここで話しておこうと思うたんじゃ』
「「予知夢?」」
と、結華は忙しく動かしていた手を止めると、肇と共に仲良く首を傾げる。言葉の意味は分かるが聞き慣れない。
普通、そういうものはその瞬間になって初めて「あ、デジャヴだ」とようやく気づくものなのだが。
……が、それはあくまで人間の話である。…………いや、例外もあるにはあるのだがここでは割愛するとしよう。
兎にも角にも。
仮にも神である彼――夜長月勇槍之御狐には人間には関知できないそういった不思議を関知する事が出来るのである。
『そうじゃ、予知夢。あまりはっきりとは見えんが……まぁ、この程度の事をお前たちに教えてもテラス様がどうこうする事もないじゃろ』
と、一人納得し言葉を続けるノミコ。
『結論から言うとしよう。……結華。どうやら良くないものがお前と接触する機会を窺っておるようじゃ』
「良くないものってー?」
筆記具をスクールバッグに仕舞うと、結華は席を立つ。肇もそれに倣い立てていた肩ひじを戻すと、起立し腰を伸ばした。
『ん~……まぁ、端的に言うとアレじゃな。――悪霊』
「あくっ…………えぇっ、悪霊?」
と、さすがに最後の一言は聞き捨てならず、結華はそれを聞き返してしまう。
隣の肇はふわぁ、と小さくあくびをしていて、事の始まりは、なんとも緊張感が欠けていた。
◇→◆
それからしばらくは穏やかそのものな日々が続き、異変が起きたのは金曜日の朝のこと。
『……来る』
その一言と共に、神――夜長月勇槍之御狐はより具体的な予言をしたのだ。
いわく、今日の夜に必ず例の悪霊から結華に接触がある。
しかし、これをわざわざ待つ理由もないため自分たちでそれを迎え討つ必要がある。
とのことだ。
「……神様に任せて、良いんだよな?」
『当然じゃ、儂にはユイカを守る使命があるからの。……それに、たかが悪霊ごとき、〝力〟を使うまでもないわ』
その力強い言葉に、肇はゴクリと生唾を飲む。
部屋の窓は雨が強く叩いていて、その空気は、嫌でも六月末の地獄を彷彿させた。
◆
夜が来た。雨の勢いは弱まったが、今もまだ地面を濡らし続けている。
三人が訪れたのは、町の西にある廃ホテル。
このホテルは地元住民には有名な心霊スポット……ということは勿論ないのだが。
『ある程度の広さと暗さがあればヤツらどこにでも現れるんじゃ』
という神様のアドバイスのもと、懐中電灯を携えわざわざやって来たというワケである。
「……開けるよ」
結華が小さく頷くのを確認し、肇はホテルのドアをゆっくりと開ける。
年季の入ったそれは酷く錆び付いていて、ギイィィという異音と共に彼らを出迎えた。
『…………なんじゃ、もうおるではないか。せっかちなヤツじゃの』
「は?」
どこに? という肇の疑問は、廊下の端から向けられる冷たい視線により解消する。
……女。
――女だ。
恐る恐るその手に持った懐中電灯の光をそこに向けると、そのおどおどろしい輪郭が露わとなる。
顔が半分ほど吹き飛んだ、肌が真っ黒な……否。黒々とした血を全身に浴びた何か。
そのナニカが、絶えず蠢き、その長い黒髪を揺らし、こちらを睨んでいたのだ。
「やだ……何、アレ…………」
全身を小さく震わせる結華。
その目に映っているはずのソレは生物を思わせる姿からあまりに乖離していて、立っているのか、座っているのか、どこが手で、どこが足なのか、その形は判然としない。
ただその視線の冷たさから、彼女は本能的な恐怖を感じたのだ。
が、その場に立ち尽くす二人とは異なり、ただ一人――天つ神、夜長月勇槍之御狐だけは、その蠢きを真っ直ぐ睨み身構えていた。
その姿は、いつもの獣姿そのままではなく、神社の神主が着るような白装束姿で、その独特の静謐さと存在感は、まさに神の姿そのものであった。
『まずはじめに警告しておくぞ。これまでと同じ悪霊として日々を過ごしたいのなら今すぐこの場を立ち去り、二度とこの娘の前に姿を現すな。そうでないなら――』
淡々とした狐神の言葉に、しかし蠢きは止まらない。
その目ははっきりと結華を捉えたまま、獣のような悲鳴と共に脱兎する。
「いやあぁぁっ!」
「くっ……!」
咄嗟に肇は地面を蹴り彼女を庇おうとするも、反応が追いつかない。先ほどまで視界の端にいたはずのソレの動きは、明らかに人外のものであった。
と、ここで一つの疑問が肇の頭をよぎる。
――神様は? ……どこに行った? まさか、もう既に――。
『年寄りの話は最後まで聞いておけ、小娘。……っと、なんじゃハジメ、儂の力を疑いでもしたか?』
その場にうずくまる結華に、しかし蠢きは指先一つ届かない。
……一体、いつの間に動いていたのか。
何一つ状況が理解出来ない二人の前に在ったのは、汚れ一つない白装束姿の彼が、その細く小さな獣の足一本で悪霊を床に叩き伏せている姿だった。
『……話の続きじゃ。そうでないなら――』
直接の警告に、それでも蠢きは尚も眼前の少女に手を伸ばす。ノミコは黒々としたソレをキッと睨むと、その頭部を押さえる細足に力を込めた。
「――この葦原中国を、未来永劫消え去るが良い」
一秒にも満たない短い沈黙の後。
果たして、蠢きの体内から目映いばかりの光が溢れ、その全身は砂山が崩れるように崩壊した。
天つ神、夜長月勇槍之御狐。
彼にとって悪霊とは、文字通り〝格の違う〟相手であったのだ。




