第二章 書の庭へ 2-2
※この世界には、剣を取る者と、筆を取る者がいます。
和光──かつて湊と呼ばれた少年は、いま、まだそのどちらでもありません。
荷を下ろしたばかりの旅人のように、場に馴染めず、周囲の気配に戸惑いながら、ただ空気を吸っている。
けれど、彼を取り巻く空気は、確実に“書の場”のそれです。
次に彼が息を吐くとき、きっと何かが変わり始める。
そんな静かな時間を、一緒に感じていただければ幸いです。
境内の一角にある堂舎。ここは、僧たちが執務を行ったり、夜は寝床にしたりする場所である。だが昼間のある一室では、小僧たちに筆を持たせ、手習いが施されている。その出入り口、障子の外には、すでに旅支度を整えた父と子が立ち尽くしている。
風もないのに、湊の着物の裾がふと揺れた。そっと結ばれた親子の縁が、今、静かに解けようとしているようにも見えた。
忠清「では静覚さま。私はこれにて。息子をどうかよろしくお願いします。」
静覚「えぇ、謹んで承ります。──ほれ、和光。お父上がお帰りに。」
忠清「じゃあな湊。しっかりやるんだぞ。」
湊「................。」
湊は少し離れた場所で、そっぽを向いて唇をかすかにとがらせていた。
その拗ねたような態度には、理由がある。少し前のこと——
忠清「それとな湊、ここでは決して“高坂”を名乗ってはならん。お前はこれより、和光として生きるのだ。」
湊「............え?」
突然の言葉に、声にならない声を漏らす。目を見開いた湊に、父は視線を外さず静かに告げた。
静覚「これは掟なのです、和光。この根来には、士農工商、さまざまな出自の僧がいます。ですが、仏のもとでは皆、等しき者。身分や家名は、この寺の中では意味を持ちません。」
湊「...........。」
——どれほど理屈を並べられても、“高坂”を禁じられた事実は、湊の胸に小さな棘のように残った。出家と重ねられるようで、なおさら重たく感じられた。
湊「............くそおやじ......。」
皮肉をつぶやき強がって見せたものの、まだ八つの子供である。
胸の奥では別れの寂しさを、懸命に噛み殺していた。
忠清「...............ったく。それでは皆さん、お元気で。」
忠清はそう言って少し笑みを浮かべたが、振り返っては足取りそのままに寺を後にしていった。
湊「............................。」
静覚「さて、和光よ。書生の皆をご紹介します。ついてきなさい。」
返事はない。だが仕方がないことを悟ったのか、それともどこかで諦めがついたのか、湊はゆっくりと歩みを進めた。 それは和光としての初めての自覚が、静かに胸に芽生えた瞬間であった。
一同は教室へと足を運ぶ。
慧信「静覚さまは、高野で弘法大師の薫陶を受けられ、京の門跡寺院では筆僧座主も務められたお方です。その評判を聞きつけて、今や根来にはかつてないほど多くの書生が集まっているのです」
湊「ふーん。(よくわかんねぇけど、そんなすげぇん........)」
静覚「おかげ様で、私も毎日退屈せずに済んでますよ。和光、あなたもこれからきっと楽しくなりますよいい意味でも、悪い意味でもね。」
教室に足を踏み入れた瞬間、湊の鼻をくすぐったのは、墨と古紙のまじった乾いたにおいだった。開け放たれた障子の隙間からは昼過ぎの陽光が差し込み、畳の上に斜めの格子影を落としている。ごりごりと墨を摺る音や、ちゃぱちゃぱと筆を洗う水の音が、妙に教室の静けさを際立たせていた。ざっと二十数人、年はさまざまなようだが、湊よりさして変わらない。皆それぞれに筆を持ち、黙々と紙と向き合っているが、視線だけは明らかに湊に集まっていた。
静覚「皆さん、新しい仲間です。ほれ、自己紹介を。」
湊「……和光です。よろしく。」
静覚「皆、仲良くしてやってください。」
相変わらず無愛想だが、緊張もしていない。だが生徒たちは興味津々といった様子で、じっと湊を見つめる者や隣の者同士でひそひそと喋りあう者もいる。畳に筆を置く音、墨を摺る音も絶え間なく続いていた。
静覚「では和光、奥に座っている彼、源敬の横に座りなさい。まずは一筆書いてもらいましょう。」
言われるがまま、席に座る湊。用意されたものは、ごわついた紙と、毛先の利きが怪しい、使い古された筆だった。
湊「墨がねーんだけど。」
静覚「すまんが、書生も増えすぎてしまっての。隣の者同士で共用としてくれ。」
筆、紙、硯、墨――いわゆる文房四宝は、この時代では貴重なものであった。戦乱の世ともなれば、その流通は一気に途絶える。たとえ書の名門・根来といえど、すべての書生に十分行き届くとは限らなかった。
源敬「ごめんね、和光君。硯、左に置いてあげるから、どうぞ使って。」
湊「……! お、おう。……悪ぃ。」
そのとき、湊の肩がぴくりと動いた。寺に入ってから、同世代の少年に声をかけられたのはこれが初めてだった。ほんの一瞬、胸の奥がふっと和らぐ――そんな感覚があったのかもしれない。
だが、それも束の間のことだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
今回は、“何も起きていない”ようでいて、物語の呼吸が切り替わる瞬間を描いたつもりです。
和光は、まだ筆を持っていません。
それでも、書の場に入り、名を名乗り、人の声に応じた。
誰かと硯を共にするだけで、ほんの少し、心がほどける──そんな小さな変化の兆しを、読者の方と共有できれば嬉しいです。
次回、ようやく彼の手に筆が渡ります。その瞬間を、どうか見届けてやってください。
※2025年7月18日、一部改稿