第二章 書の庭へ 2-1
※本作はフィクションです。
歴史上の人物や地名・出来事をモチーフとしていますが、登場する人物・書状・寺院などはすべて創作です。
第二章では、物語の舞台が本格的に根来寺へと移ります。
まだ筆も握らぬ少年・湊が、書と出会い、何を得て、何を失っていくのか――
墨の香りとともに、彼の物語が静かに始まります。
よろしくお願いいたします。
一.
静覚「はっはっは…これはこれは和光、見事な坊主頭ですな。」
すっきりと丸められた頭、「和光」のしかめっ面は、語らずともその不満と不機嫌を十分な程に伝えている。
慧信「やはり出家したての小僧の剃髪は、気持ちいいものですねー。」
この僧は、筆僧の一人だが剃髪が得意らしく、いつもこうして新しく出家してきた僧に腕を振るっているそうだ。
静覚「ええ。私もこの小さな坊主頭を見るのが、たまらなく好きで…。忠清殿もお力添えありがとうございます。」
忠清「くくっ……いやあ皆さんすみません、愚息がお手をわずらわせてしまって。こうでもせんと大人しくしませんからなぁ」
どうやら湊は抵抗虚しくも、連れてこられた際の縄でもう一度父に縛られてしまったようである。
湊「おいおやじ、さっきの条件忘れなよ。俺はここで武芸も習うからな!」
忠清「ああ、存分に励むといい。なんたってお前は武士の…!………っくくくくく。」
剃髪が始まった瞬間から忠清はずっとこの調子で、吹き出しそうになっては何度も顔を逸らしてこらえている。
湊「ちっくしょーくそおやじめ」
湊は武芸も学んでいいならという条件の下で、しぶしぶ出家を受け入れたようだ。 慧信「ははははは…! さて、あらためて歓迎しますよ、和光君。さっそく境内を案内いたしましょう。まずは大師様へのご挨拶からですな。」
忠清「静覚様、それでしたら折角なので、私もご一緒させて頂いてもよろしいですか?」
静覚「もちろんですとも。ささっこちらですよ。」
湊「だいしさま?それ誰…?(そんなすごい人なのか?)」
慧信「おや、和光君。弘法大師――空海様ですよ。この寺で一番大切にされているお方です」
空海。高野山にて悟りを開いた真言密教の開祖にして、筆の道をも極めし大師。その坐像は、根来寺における信仰の象徴である。
静覚「もうすぐです。境内の奥に、大師様がおられる」 慧信「足元に気をつけてくださいね。和光君、頭が風に当たると涼しくて気持ちいいでしょう?」
湊「……うるせーよ、風通し良すぎて、むしろちょっと寒いっつーの」
ぶつぶつと文句を言いながらも、湊の目は少しずつ開かれていく。木々の木漏れ日から射す光は金色の粒子となって舞い、枝葉の影が風に揺れるたびに、静寂にさざ波のような気配を運んでいた。
忠清「ふむ…こうして並んで歩くのも、今のうちだけじゃろうな。……いずれ、お前はこの寺の名を背負うことになる」
湊「そんな大層な器じゃねーよ……」
思わず口を突いて出たその言葉に、静覚は歩みを止め、振り返った。
静覚「器は、与えられるものではなく、自らで削るものですよ。筆もまた、そうして穂先が整う」
湊「……!」
慧信「おや、和光君。住職の言葉にも、少し耳を傾けるようになってきましたね」 湊「聞いてねぇって、うるせぇな……」
気まずそうに視線を逸らしながら、湊はつい先ほどまで縛られていた縄の痕を、そっと手で擦った。やがて、一行は一つの堂の前で足を止めた。
静覚「さあ、着きました。こちらが……根来の大師堂です。」
扉が開く。中は薄暗いが、正面奥に鎮座する巨像の存在感が、空気そのものを引き締める。——弘法大師坐像。堂内に差し込む一筋の光が、まるで導くかのように湊の足元を照らしていた。
湊「……………………!」
一同は目を閉じ黙祷して祈りを捧げるが、湊は口を半開きにしてただその姿をじっとみつめていた。
慧信「いかがですかな、和光君。大師様の智慧と慈悲に満ち…」
湊「……これ……これ、彫りの線……木の目が……ちゃんと残ってて……仏様の目が……こっち見てる……いや、見透かされてる……すげぇ……!」
静覚「…………。忠清殿、これは?」
忠清「申し訳ありません…………。こいつ、浮世離れした物に目がなく、誰に似たのやら…….」
居た堪れないとでも言うように、または頭痛でも催したかのように、手で額を覆い隠して息子の非礼を陳謝する父親。
静覚「はっはっはっは!なんとも面白いお子さんではないですか!将来が楽しみですよ。」
書生となる者はこうして弘法大師にお参りするのが通例である。しかし湊はまだ知らなかった。この日が、彼が“書”という道に導かれる一歩目であったことを——。
ご覧いただきありがとうございます。
第二章の冒頭は、丸刈りと不機嫌な顔から始まりました。
少しずつ、“書”の世界と“湊”の心の輪郭が見えてきます。
次話では、彼が初めて筆を持つ場面と、ある人物との邂逅が描かれます。
筆を持ったその手が、震えるのか、走るのか――
ぜひ続けてお楽しみください。
(作者:葉庵)