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第二章  書の庭へ 2-14

 堺への旅は、湊の心に大きな変化をもたらしています。自分が寺で書を習う意味を理解し始め、ついにはその意志にも自覚しはじめます。ここまではただ武家から預けられただけの坊主であった彼が、果たしてどのようにして「ふでざむらい」になっていくのか――?

※ 後書きに重要なお知らせを載せております。

 算長「実際に町を往来すれば以前との違いをひしひしと感じるわ。どの市場もよく賑わっておる。」

堺の港に夕日が沈もうとしていた。蝋燭に火がともり、数人の僧の影が座敷の壁に揺らめく。津田算長と従者はこの町でも専ら兵器や火薬の商談に携わっていたが、それだけが目的ではなかった。

 「どの商人も、示し合わせたように三好(みよし)様、三好様と呼応しておりましたな」

「商人だけではない。町侍(まちざむらい)もだ。おそらく奴ら既に、会合衆(えごうしゅう)の信任も得ようとしておるのだろう。」

算長「阿波の国衆(くにしゅう)風情が……畿内ででかい顔をしよって…」

——後に戦国最初の天下人と称される三好長慶(みよしながよし)は、形骸化した将軍・足利義輝及び管領(かんれい)・細川家との勢力争いを制し、京都の実権を掌握。ちょうどその頃(永禄元年/1558年)には、日本一の商業都市・堺をも勢力下に収めようとしていた。堺は「会合衆」と呼ばれる有力商人たちの自治によって繁栄していたが、経済の要衝ゆえ常に時代ごとの権力者からの庇護を受けていたのである。

 「静覚さまは、どのように考えるでしょうな…」

算長「……特に期待してはおらぬが、守護の権威が揺らぐことになれば大寺院の住職としては動かざるを得まい。」

眉間に(しわ)を寄せて情勢を論ずる面々は、経を唱える僧よりも(むし)ろ、陣に赴く武将のそれに近かった。

「そうか。三好方は、畠山家のお家騒動にも首を突っ込んでいるのでしたな。」

「このまま管領家をも支配すれば、名実ともに幕府権威を凌駕することになりましょう」

 算長「うむ。守護の権威が反故(ほご)にされれば、(わし)らの立場も揺らぎかねぬ。その事態は何としても避けねばならん。時に石山本願寺の方にも三好勢はたびたび使者を送っているという。」

「…石山本願寺と言えば、孫市殿が(ねんご)ろにしていると仰っておるのでしたな。だとすれば牽制(けんせい)役としてはあまり望めぬか…」

算長「この点、奴らのやり口は巧みだ。恐らくは松永久秀(まつながひさひで)による調略。奴は三好勢の参謀にしてかなりの切れ者として名高いからな。—さしずめ、(わし)らが最も警戒せねばならぬ男よ。」

 戦国武将、松永久秀(まつながひさひで)——知略に長けた長慶の右腕であり、畿内方面の先鋒を任されていた。当時は河内(かわち)和泉(いずみ)紀伊(きい)を治める守護畠山(はたけやま)氏お家騒動に介入し、他方では石山本願寺に庇護の姿勢を見せるなど、敵を絞りつつ、着実に堺支配の地盤固めを進めている最中であった。

「ならば我々としても、兼ねてより畠山高政(はたけやまたかまさ)公との疎通を強めねばなるまい。」

「ああ。今はなお膠着のさなかにあるが、いずれ対立が激化したとき、後手を取るわけにはいかぬ。」

 算長「うむ。耳目衆(じもくしゅう)の増強が急務だ。明日、住吉詣の後、根来へ伝馬(てんま)を走らせよう。」

算長の声に、蝋燭の火が揺れ、壁に映る僧の影がざわめくように揺らいだ。騒乱の足音が、いよいよ根来の門前にも聞こえ始めていた。


 一方、志津を含む根来から同行していた堺の一行はといえば、港に到着後それぞれ荷下ろしと商いで、慌ただしく一日を終えたようだ。根来と堺、旅は道連れ世は情けと()うが互いによく打ち解けたようで、翌朝、繁栄と健勝を祈るべく連れ立って住吉大社に詣でることになっている。根来の一行が泊まる宿では、湊が何やら道休に詰め寄られていた。

 道休「するってぇと、その奇抜な兄ちゃんに奢ってもらったてのか⁉」

湊「だからそう言ってんじゃん!盗ったんじゃねぇからな⁉」

道休「ふぅむ……ひびの補修跡を見るとジャンク品に違いねが、小粋で良い品じゃねぇか。」

顎に手を添え、(うぐいす)の水滴をしげしげと眺める。

道休「せいぜい大事にしろよ。つーか、これを使って墨を摺ったりしたら、もう“半人前”じゃ済まされねーぞ。」

湊「うっ……耳がいてぇ。……でも、その通りだな…」

 その水滴を今一度手にし、まじまじと見つめて呟いた。

道休「(しっかし、そんな奇抜な格好で、これを奢る気前の良さ……一体どんな御仁(ごじん)なんだ?)」

惣一「(…………。いや、まさかな。)」

湊の話す男について道休、それに少し離れて聞き耳を立てていた惣一は、思案を(くゆ)らせる。

 だが湊本人は気にもとめず、きょろきょろと周囲を窺いながら道休に顔を寄せた。

湊「ひそひそ(それよりもよ、道休。例の、こんな感じでどうだ?)」

道休「ひそひそ(……ほぅ……成程。これは悪くねぇ。そうだな……書くとしたら……)」

二人は隅の机に身を寄せ合い、筆と紙を取り出して何やらこそこそと作業を始めた。

蝋燭(ろうそく)と墨の香が漂う宿の一隅で、夜が更けるまで小僧は黙々と筆を走らせていた。


 翌朝。真夏にも拘わらず、その境内はしんと身の清まるような空気に包まれていた。

住吉大社——海上守護の神を祀り、摂津の地における古社として名高い。その社域は海風に洗われ、旅の安全や商いの繁栄を願う人々で絶えず賑わっていた。荘厳な社殿を前に一行は黙して祈りを捧げた。海の彼方より吹き寄せる風が鈴の音を揺らし、旅人の心を清める。祈りを終え、参道を下るころには、再び人波のざわめきが戻ってきていた。

 志津は商家の一行と合流するため、湊たちとはここで別れることになっていた。

湊「志津のねーちゃん!」

志津「和光君か、びっくりしたぁ!"お志津さん"とかで呼んでくれないかな?」

湊「あ、そ…それじゃあ…お志津、さん…」

志津「……ふふ。それで?ちゃんとお祈りできた?」

湊「うん!……」

 湊は一旦目線を下げ揺らぐ気持ちと呼吸を整えると、再び真剣な表情で正面を向いた。

志津「どうしたの?改まった顔して…?」

湊「あの!……根来にまた来るって聞いたんだけど、ほんと?」

志津「うん、そうだね。春と秋が巡る程度には行くかも、かな。」

湊「……俺さ、この旅の中で決めたことがあるんだ…。」

その両手は強く握りしめられていた。

湊「俺、書生なのに、字、めっちゃヘタクソでさ。正直、ふてくされてたんだ。…でも、堺の市場で、紙も、墨も、筆も、すっごく高いものだって知って……それだけじゃないんだけど!何となく、上手くならなきゃって思ったんだ。」

志津「——うん。」

湊「それでさ。和歌浦(わかのうら)でお志津さんに、和歌を書かせてもらって、その時誉めてくれただろ?お世辞かも知れなくても、あれ……すごく嬉しかったんだ。俺の字でも誰かに喜んでもらえるんだって。……だからさ!」

 湊は懐から紙を取り出した。それは昨晩、試行錯誤の末に完成させた、志津への返歌であった。


よする波 かへすことばを ならひても まだたどたどし われと思へど


湊「俺、仮名文字と和歌から字を習ってみることにしたんだ!だから、お志津さん——もし根来に来たら、俺の字、見てくれねぇかな?」

志津はしばし目を瞬かせ、そしてふっと微笑んだ。

志津「うん!楽しみにしてる!でも……。」

湊「…でも?」

 志津「ここは難しい字を選び過ぎ!そのせいで字が膨らんで全体のバランスが崩れてる。そのせいで連綿(れんめん)にゆとりがないし、こっちの余白も狭い!あと全体的に墨つけ過ぎ!」

湊「えぇ…………。」

まさかのダメ出しの応酬に、湊はたじろいだ。しかし志津は終始嬉しそうな笑顔を浮かべていた。

志津「でも………すごくいい字だよ!ちゃんと届いたからね!」

湊「……そ、そりゃ良かった!(やっぱり前のやつはお世辞だったのか?)」」

 参道を行き交う人々の足音の中で、ほんのひととき、二人だけの静けさがあった。奇しくも住吉大社は、玉津島と並んで和歌三神に列せられる歌枕の(やしろ)である。二人が詠み合った和歌と、そこから綴られる縁がいずれ何かに導かれていくのだろうか。やがて志津は一礼し、連れのもとへと歩み去っていく。湊はその後ろ姿を追いながら、胸の奥で墨痕のように残る余韻を噛みしめていた。

 道休「おぅ!草葉の陰から見てたぞ!青春だったな!」

突然背後から声がして、湊は飛び上がった。

湊「てんめ、道休!何が『上手く書けてる』だよ!ぼろくそ突っ込まれたそ!」

悔しげに肩を怒らせる湊に、道休は腹を抱えて笑う。

道休「へぇ。お志津ちゃん、顔に似合わずそういうタイプか?」

湊「うん。そのギャップに思わず…ってそうじゃねーよ!恥かいちまったじゃねーか!」

 真っ赤な顔で言い返す湊を見て、道休はますます愉快そうだ。

道休「はっはっは!それが今のお前の実力ってことだよ!それとも、いきなり百点満点の字が書けると思ったのか?」

湊「…そりゃあ、そうだけどよ―。」

 そこで道休は、ふっと笑みを収め、声の調子を変えた。

道休「お前の“良さ”を敢えて挙げるとしたら、そうだな。線の質と相性、それと感覚だな。」

湊「え?……俺の字の…良さ?」

 思いがけない言葉に、湊はぽかんと口を開けた。

道休「お前さん蔵の屋根で、『腕が震えて、思った通りの線が書けない』って悩んでたろ?そりゃきっと楷書(かいしょ)を書いてたんじゃねーか?」

湊「楷書?寺で習ってたのは、線と線がきっちりしてるヤツだ。」

道休「それが楷書だよ。腕の震えは、確かに綺麗な線を引くのには致命的な癖だ。…けど昨夜のお前の書き振りを見る限り、特にそんな様子はなかったな?」

湊「あっ、確かに…!」

 道休は片眉を上げ、にやりと笑った。

道休「一昨日(おととい)の晩、仮名文字を書きたいって俺に打ち明けたのは、浮ついた心もあったんだろうが…」

湊「いや!だからそんなんじゃねーって!」

慌てて声を張り上げる湊を、道休は手で制した。

道休「フン、まぁ聞けって。おそらくお前、感覚的に楷書の直線よりも、仮名文字の曲線の方が自分に向いていると感じたんじゃねーかと、昨日見て思ったんだ。」

 その言葉に湊ははっとなった。どちらがどうという自覚までは無かった。確かに直線を引こうとした腕は、最初から最後までぎこちなく強張っていた。しかし仮名で描く線は円運動。そう、刀を振る感覚に近いものを感じていたのだ。

湊「……付け加えてもいいか?」

道休「おう。」

湊「たぶん、書く目的が違ったのもあると思う…。寺で書いた字は…誰かと競うためのものだった。でも仮名で書いていたのは和歌だった。俺、何とか自分の気持ちを伝えたい一心で…」

 道休は湊の肩を軽く叩いた。

道休「それだよ和光!そういう自分ならではの感覚が、一番大事なんだ!」

剣に未練を残したまま筆を執ってきた自分が、初めて「書く理由」を掴んだ気がしたのである。その一言に、湊の胸は熱く震えた。

 道休「さて。じゃあ寺に帰ったら、静覚さまに報告しなきゃな。」

道休は、湊の前方を軽やかに踏み出した。

湊「えっ、何て?」

道休「お前のカリキュラム変更と、奉公先の申請よ。お前、今日から俺の小姓だからな!」

湊「え?……はぁ????」

 勝手なことを(のたま)い前を行く道休と、それを小走りで追いかける湊。一行は住

吉大社に別れを告げ、昼には堺を発つ。旅立つ前、曇って見えた少年の視界は今、すっきり

澄み渡っている。侍として、また坊主として、彼は一回り大きくなって寺に帰ることだろう。


 一方、惣一は伝馬に便乗し陸路で帰ることを選択した。

「船はもう、二度と乗らんっ!!」


 ここまで「ふでざむらい」をお読みいただきありがとうございます。

 着想から勢いそのままに投稿を初め、ここまで3か月が経ちました。ですがその間にも新たな構想や採用したい設定が次々と生まれてしまい、それ今から全て組み込もうとすると物語が支離滅裂になりかねません。そこで誠に勝手ではございますが、ここまでのお話をイチから全編改稿することに致しました。

 続きをお楽しみにして頂いてる方には申し訳ありませんが、より面白いと思ってもらえるように頑張りますので、続きの展開についてはもう少しだけ辛抱して頂きたいと思います。感想、質問等を書いていただけると励みになりますので、何卒よろしくお願い致します。

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