第二章 書の庭へ 2-13
堺の雑踏、異国の香り漂う市の中で、湊は初めて本格的に「書具」と向き合います。
紙一枚が握り飯、墨一挺が米俵――。
紙や墨を粗末にしてきた自分を振り返りながら、湊は“書の道”の厳しさと価値を肌で知ることになります。
湊は四人の僧に連れられて船着場を離れると、石畳の大通りには人波であふれていた。荷を担いだ男たち、胡粉を顔に塗り綺麗な着物を召した女たち、異様な形の帽子をかぶり、これまた奇抜な色の服に身を包む異国人の姿まで混じっている。店大通りに軒を連ねる商家の店先には、ありとあらゆる品々が並べられていた。
湊は行き交う人々にぶつからないように、右に左にキョロキョロと首を動かしながら、通りを進む。
「すげぇ、見たことない商品ばっかだ!あっちは鋳物屋!こっちは書店!そっちは呉服店だ!」
湊はまるで糸の切れた凧のように、視線の先々へ吸い寄せられていった。
湊「うわっ!なんだあれ!?真っ赤な唐傘!……おぉぉ!あっちは丸い石を削って…転がしてる!碁石か!?すげぇぇ!」
目を輝かせ、鼻先がほとんど品物に触れるほど近づいては、僧の一人に首根っこを掴まれて引き戻される。
「和光!道の真ん中で立ち止まるな!」
湊「だ、だって!あれ!あの香炉!見たこともねー動物を象ってるぞ!? くっそぉ、ありゃ明か?朝鮮か?一体どこの世界から来たんだよ!?」
湊はついに声を上げながら飛び跳ね、両の袖をばたばたと振った。 その様子に通りの商人たちが振り返り、くすくす笑う者もあれば、物好きな田舎坊主と冷ややかに目を細める者もいた。いつの間にやら和光は僧の一人に手をひかれていた。
「はは……静覚さまから話は聞いていたが、これじゃ仕事にならんな」
一人の僧が呆れて笑い、続けた。
「幸い、俺たちが向かうのはこの先の青物市だ。和光もそこでなら多少は落ち着くだろう」
そう言った矢先だった。ふと、通りの風が変わった。潮や香炉の香りに混じって、湊の鼻先をぴりりと刺す匂いが漂ってくる。
湊「……墨だ…。」
顔を上げた湊の目に飛び込んできたのは、青物市に入る手前の一角、文房具を扱う店々だった。棚には黒々とした墨が整然と並び、店先では職人が硯の上で墨を磨り、客に色艶を見せている。白布の上には反物のように巻かれた和紙が積まれ、筆屋では毛先を撫でて確かめる学僧の姿もあった。先ほどまでの農夫や町娘ではなく、羽織を着た商人や書生風の若者が目を光らせ、品定めに余念がない。
湊はその場に釘付けになり、歩みを止めた。さっきまで唐傘や香炉に飛び跳ねていた子供が、今は一転して真剣な顔で品々を見つめている。
「あれ、筆だよな?形だけで、あんなに種類があるんだなぁ。」
「ほれ和光、これが値札調査の一覧だ」
湊「えっ」
それまで手を引いていた僧が、湊の変化に気づいたのか、懐から筆筒と紙片とを取り出し、湊へ差し出した。
「筆なら馬毛、羊毛、鼬毛。墨なら松煙、油煙、香料の有無なんかも色々あるからな。勉強だと思って調べてきてくれ」
湊は少し胸が高鳴るのを感じた。根来を発ったころにはまだ書への興味はほとんどなかった。しかしまだ入り口しか知り得なかった書の世界が、この場所でとんでもなく広く横たわっているのを感じた。
湊「………わかった。」
湊は筆筒とそのリストを両手で大事そうに受け取った。子供の遊び心と、書生としての芽がせめぎ合うように、瞳がきらきらと揺れている。
「よし。俺たちも買い付けにその辺でうろついてるから、分からない事があったら聞きに来てくれ。迷子になるなよな!」
そう言い残して僧たちは人混みへと散っていく。湊はひとり残され、墨の匂いの中に立ち尽くした。
湊「えっと、この辺は……紙と墨が多いのか。どれどれ…」
湊は手にした紙片を胸元に抱えたまま、恐る恐る店先に脚を踏み入れ、品々を覗き込んだ。
紙束の白が眩しく積まれている。値札を見て、湊は思わず声を洩らした。
湊「……な、なにぃ!?半紙二十枚で米一升!?」
次に奥の棚を覗く。そこには墨がずらりと並んでいた。黒々と艶めく油煙墨には「一挺 米一俵 銭四百五十文」と札が下がっている。湊は目をひん剥いた。
湊「うそだろ……!?明の品だからって、こんな黒い棒で米俵一つ分!?」
——米一升(約一・八L)は成人男子一人を戦場に雇う際の日当として考えられた。米一俵は三十〜四十升、つまりこの墨一挺の価値は、一兵を一か月動かす兵糧に匹敵することになる。
手を伸ばしかけて、すぐに引っ込めた。もし倒して折ってしまえば、ここで何日働くことになるだろう。そう思うと背中に冷たい汗がにじむ。紙にしても、寺での稽古に使用するのは、反故紙の裏や、切れ端、厚さも薄さもまちまちののような紙で、そんなものに値が付くとは思えないが、それを何処かで当たり前とすら感じてしまっていた自分を、湊は恥ずかしく感じ始めていた。
湊「俺、何枚無駄にしたんだろう……」
ふと周りを見れば、羽織を着た町人や学僧たちが、真剣な面持ちで筆の毛並みを撫でたり、紙を透かして光にかざしたりしている。彼らにとっては日々の仕事に欠かせぬ道具なのだ。根来寺には自分以外にも小僧がたくさんいて、そのうち書生として筆を持たせて貰える者はごく一部であることも、日々の中で薄々と気づき始めていた。ふと、惣一の身の上について述べたときの源敬の言葉を思い出した。
——源敬「出家以外の目的があるってことだからね……お布施も僕らより多くお出してるんだと思うよ」———
偏に小僧といえど、色々な背景や立場がある。惣一のように出家はせずに勉学や武芸にだけ励むことができる者。湊のように僧としての雑務や修行をする傍ら、勉学に励む者。食いっぱぐれ無いようにと寺に駆け込み僧となった孤児。
——そう考えれば、自分はどうだろう。
今、湊が根来寺に身を置くのは、自身の希望ではなかった。しかし決して父、忠清の気まぐれなどでもない。彼の確かな意によって書の道へ押し出されているのだ。こうして墨や紙の価値を目にした今、湊はその「押し出された道」がいかに恵まれたものであるかを痛感していた。
——湊「剣しか振れない弟の俺なんて……寺に送られて当然だよなって。」
源敬「それを“当然”って思えるうちは、まだ幼いってことかな」——
思い通りの書が書けず不貞腐れていた自分に対し、源敬はあの時、歩むべき道の先を照らしてくれていたのだ。
湊「馬毛……銭百文。……|羊毛……銭二百文…。」
リストの品々の値段を、湊はひとつひとつ胸に刻むように、拙い筆で書き並べていった。
湊は分からない品目については店の者に尋ねながら、その品目リストを埋めていった。改めて見返した頃には、湊は既に一通りの仕事を終えていた。
湊「……ふぅ、色々あるけど、どれもたっけぇなぁ……紙一枚が、米の握り飯と同じぐらいするとは…。」
そうぶつぶつと言いながらも安堵の息をついた湊は、ふと周囲に広がる店先へと目を向けた。そこに並んでいたのも書具だったが、墨、紙、筆だけではなかった。
湊「……え、これも全部書具か?」
黒々と塗られた漆に、金の蒔絵が施された硯箱。石に彫刻を施した重厚な文鎮。金銀の砂子が慎ましく散りばめられた料紙。竹を組んで作った「筆吊り」や、巻物を仕舞うための唐渡りの筒まで揃っている。
湊「すげぇ!……こんなにいっぱい、浮世離れしてる…!!……寺で使ってるのは、木の文鎮とか石ころみたいな墨なのに……」
どの品も手に取って試したくなるほどで、まるで宝の山を前にした気分だった。
湊「言われてた仕事も終わったことだし、しばし自由時間ってことでいいよな?」
目移りしながら歩く湊の口元は、思わずにやけてしまう。小遣いなど一銭も持ってはいないが、湊にとっては珍しい商品を見るだけでも楽しいのだ。自然と足取りも軽くなる。
やがてその目は、とある小さな露店に陳列されていた。様々な形をした商品に止まった。
湊「色んな形があるけど、なんだこれ?水瓶に、龍に、こっちのは牛か?」
恐る恐る手に触れると、中は空洞になっており、先端に穴が開いていることがわかった。
湊「そうだ!惣一が墨を摺るとき、こういうので水をちょんちょん落としてたな。水滴っていうのか…」
ふと脳裏にあの光景を思い返した。硯に向かい、彼は迷いなく水滴を持ち上げ、硯に一滴、また一滴と水を落としていた。その所作は剣の型のように淀みなく、湊には妙に格好よく見えた。
湊「(……ああやって墨を摺れば、俺だって少しは……。)」
心の奥で小さな憧れが芽生える。視線を巡らせた湊の目は、やがて一つの品に釘付けになった。黒く重厚な品が多い中、際立つ白地に柔らかく緑や赤を焼付けた、鶯を象った陶器の一品であった。よく見るとひび割れを漆で繋いだ跡が走っていた。金泥がうっすらと残るが、それもかえって奥ゆかしい品格を添えていた。
湊は無意識にその水滴へと手を伸ばした。
――が、目前で別の大きな手が触れる。はっとして顔を上げると、派手な小袖をまとった若武者が立っていた。
若武者「ほう、余と同じものに目を付けるか。」
赤と青で染め分けた裾、金具で飾られた太刀。ざんばらに結わえた髪の下の瞳がぎらりと光る。しかしただの傾奇者ではない。その異様な出で立ちは、気が付けば周囲の空気を圧していた。商人たちはひそひそと声をひそめ、眉を顰めるが、誰ひとり横から口を挟もうとはしなかった。
湊「(何者だよこの人?有名人か!?)」
若武者「小僧よ、なぜこの鶯を選んだ?」
突然の問いに、湊は少々たじろぐも、瞬かせたままの目でこう返した。
湊「え……その……。これって、墨を摺るときに使うもんだろ? なんていうか……他の黒いのよりも、春っぽくて、やわらかい感じが、綺麗な字に向いてるかなって……」
言葉を探しながら口にした瞬間、自分でも少し頬が熱くなるのを感じていた。仮名文字が女手であることに抵抗感はあるが、鶯のどこか愛らしい姿が、まるでその字に添うかのように見えたのだ。
若武者はしばし湊の顔と、腰にぶら下げた筆筒を眺めて、ふっと口角を上げた。
若武者「はっはっは、面白い!……小僧のくせに、春の趣を知るか。中々粋な目をしておる!」
豪快に笑い、彼は店主に向かって声を張った。
若武者「おぅ親父、買うのは余だが、使うのはこの小僧だ。ちょいと負けてくれや!」
「へぇ、参りやした!旦那様の心意気に免じて、銭二百文でござんす!!」
湊「……!?へ…えぇ!?い、いいのか?」
状況を飲み込めぬまま、坊主の両手にはその鶯がちょこんと乗せられていた。
若武者「せいぜい書に励むと良い。ではな。」
振り向き様にそう告げ、既に若武者はその場を颯爽と去ろうとしていた。
——しかし次の瞬間、その男の頭にぼかっと拳骨が下る。
「この大うつけめ!こんなところで油を売りおって!!」
白帆の羽織を着た、いかにも堺の旦那という男が、若武者を軽くあしらっている。
若武者「ってぇ!何をっ!?あいででででで!?」
「ったく、案内役も一苦労だ!こんな愚息が嫡男では信秀殿も浮かばれぬことよ!」
続けざまに耳を引っ張られ、叫び声をあげて抵抗しながら「大うつけ」なる男はその場を後にして行った。湊はその光景にあんぐりとしながら、遠くに去ってもなお存在感を放つその背中に、はっとなって声を張って感謝を告げた。
湊「あ、あんちゃん!あんがとなあー‼」
その声が届いたかどうかはわからない。怒涛のような一瞬が過ぎ、胸は乱れていないのに、全身の血は熱くたぎり、汗が肌を伝っていた。湊はその熱を噛みしめるように、掌でそっと鶯を握り、胸に添えた。
本文でも触れた「松煙墨」と「油煙墨」について少し補足します。松煙墨は松の枝を燃やした煤から作られたもので、比較的手に入りやすい普及品。一方、油煙墨は菜種油などを燃やした煤を用いた高級品で、より黒く艶やかに発色します。同じ「黒」でも、原料や製法によって大きく値段が違い、まさに身分や格式をも映す存在でした。
今回の章では、湊にとって「書」が初めて“重みを持った現実”として迫ってきました。戦国の世にあって、紙も墨も決して当たり前には手に入らない貴重な品。その価値を知った湊が、これからどのように筆を握っていくのか――
歴史に詳しい方なら、「信秀」の子らしき「大うつけ」がいったい誰なのか、ご存じかと思います。これから湊がどんな人物と関わっていくのかも注目してくださいね。