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第二章  書の庭へ 2-12

前回は志津との出会いで湊の心に静かに灯がともりました。船はついに堺へ。

そこで湊が目にするのは、珍しい品と人々であふれる大都会の喧噪。

奔放な道休の“戦い”を目の当たりにし、物好きの血を抑えきれず飛び回る湊。

しかし、墨や紙の値段を知った瞬間、彼の胸に芽生えたのは――。

 空は快晴、絶好の船日和。朝に和歌浦を出港した一行は紀淡海峡(きたんかいきょう)を抜け、堺へと順調に船を進める。(みなと)船縁(ふなべり)に寄りかかり大海原を眺めている。しかし(はしゃ)いでいるわけではない、手すりに置いた左腕に顎を乗せ、右手は人差し指で何かをなぞっている。

 ——前日の夜、湊は寝床に入っても同じように(ふけ)っていた。脳裏を占めているのは、玉津島で目に焼き付いた志津とあの一首。意を決して、部屋の隅で帳面を広げていた道休(どうきゅう)に声をかけた。

湊「……なぁ道休…。仮名文字(かなもじ)って、書けるか?」

 筆を止めた道休は、片眉を上げて湊を見やった。

道休「あんまり得意じゃねーが、一応な。お前さん、なぜまたそんなものを?」

と訊きながら、道休はふと、その日の朝の湊の振る舞いを思い返す。玉津島へ赴く一行に(おもむろ)に付いて行ったあの姿だ。すぐにピンときたようで、少し間を開けた後、

道休「ははーん、成程な。さては、あのお嬢さんだな?」

道休は身を乗り出して、(きつね)のようなにやけ面を湊に近づけた。

 湊は知らなかった。仮名文字がどういう文字なのかを。仮名は、もとは平安時代、宮廷の女性によって(ふみ)や歌を書くために工夫され生まれた書体で、柔らかな書きぶりで、男の用いる(いか)めしく角張った漢字とはまるで異なるものである。流れるような筆遣いは、情や想いをそのまま写すにふさわしく、「女手(おんなで)」とも呼ばれている。

 そしてそれを男が扱うという事は、大抵の場合、「そういう事」である。

湊「!?は?ちげーし!お嬢さん?何のことだよ!?」

湊は耳まで真っ赤にして、目を泳がせる。

道休「ふうん、そうかそうか!何であれ興味を持つってのはいいことだ!」

湊「…いや!だから…違うって!」

道休「しっ!まぁ、落ち着けって。」

 道休は腕を湊の肩に回し、人差し指を口元に添え、声を潜めた。

道休「お前、これまだ誰にも言ってねぇな?いいか、坊主の身で色事ってのは本来、好まれざる事だ。わかるな?」

湊「べ、別に…そんなつもりじゃ!」

湊はまだ顔を赤くしたままとぼけているが、道休は続けた。

道休「フッ。だが安心しな。俺は腐っても生臭坊主!お前の恋路を邪魔する気はない。むしろ応援するぜ!」

湊「……二重に腐ってどうすんだよ!」

道休「面目躍如(めんぼくやくじょ)ってやつさ。仮名だろうが和歌だろうが、この俺がこっそりと教えてやる。男と男の約束だ。」

 道休は胸をどんと叩き、にやりと笑った。

湊「ほんとか!?…!いや、別に恋じゃねーけど!」

それでも頬の赤みは引かず、むしろ道休の真剣な声音に、子供らしい純真な目で信用してしまう。

湊「じゃ、じゃあさ!こういう和歌が書きたいんだけど、どう?」

道休「…ほう、返歌か。趣向は悪くねぇがまずは基本からだな———」

その夜ばかりは、湊にとっては珍しく帳の火が尽きるまで筆を握っていた。


 ——あれから湊は志津(しづ)のことをある程度知ることとなった。彼女は以前から商売で根来によく訪れていた堺の商家「吾妻屋(あづまや)」の娘であり、特にその算術の才を見出され、今般(こんぱん)の火縄試しに商売の手伝い兼見習いとして同行していたらしい。仕立ては良いが地味な色の着物を着、編み笠を被っているのは不用意に女であることがバレないようにとのことだ。この日は、根来の者と堺の者とで別々の帆船に乗っていたが、湊たちが乗る根来の船でも彼女に関する評判が(ささや)かれるようになっていた。あるいは、湊の耳がそういった声をよく拾うようになったとも言える。

 「おい、和光。ボーっとしてる暇あったら左舷(さげん)の見張り手伝ってくれ!」

そう声を掛けられると、はっとなって返事を返した。

湊「別にボーっとしてねぇよ。てか、そっちには惣一(そういち)が——」

「惣一なら、ほれあそこ。」

湊「あ」

惣一は船尾で(うずくま)っていた。大きな帆船ということで、川船で下っていた時よりも多少長めに持ってはいたが、ついに限界を迎えたようだ。

「今日は無理せずに遠くの景色を眺めてろと言ったんだがなぁ。」

 ——湊は(おもむろ)にその様子を覗きに行く。

湊「おい、水でも飲むか?」

惣一「俺に…かまうな。うぅっ…それより、お前……昨夜、…何を書いていた?」」

吐き気もするのか、苦しそうに口を手で押さえながら、そのような質問で返した。

湊「べ、別に!…昨夜って、何のことだよ!?」

惣一「とぼけるな…、あの運筆(うんぴつ)……草書、あるいは仮名だろう?」

湊「うっ…」

 昨夜、手元を見られたり、会話を聞かれたりした覚えはなかった。少なくとも周囲にそんな目や耳は無かったはず。惣一は恐らく部屋の遠くから、湊の腕の動きでその書体が草仮名(くさかな)であることを見抜いたのだろう。唐突で予想すら得なかった返しに、湊の顔には焦りと気恥ずかしさが生じ、胸がどきりと跳ねた。まるで悪戯を見破られた子供のように。

湊「いや…そそ、そんなんじゃねーからな!」

惣一「どういうつもりかなど…知るつもりはないさ。……だが書の基本は楷書(かいしょ)だ。…これを極めぬ限り…俺には…とう、てい……!!」

突如激しい嗚咽感(おえつかん)に襲われた惣一は、船尾の船縁に寄りかかり、海原に吐瀉物(としゃぶつ)を開放した。

惣一「おぇぇええええええっっっ!!」

 胃の中のものを吐き出す惣一の姿に、さすがの湊も言葉を失った。船員たちも遠巻きに心配そうに見ている。

湊「おいおい、大丈夫かよ。」

湊が背をさすろうとするも、惣一は力なく手を振り払った。

惣一「……放っておけ……」

潮風に紛れ、弱々しい声で返す。

湊「ったく…」

 湊は胸のざわつきが静まるのを感じていた。仮名が女手であり、男である自分がそれを習っていると知られるのは、少年の心には堪らないものだった。

湊「……別に、ただの気まぐれだよ。周りに言ったら許さねーかんな。」

小声でつぶやいたが、今の惣一に届いているかどうかはわからなかった。

 船はその後も、風をはらんだ大帆を揺らしながら順調に北上を続けた。やがて潮の香りに混じって、賑わいの気配が漂ってきた。遠くには林立する(やぐら)、立ち並ぶ蔵屋敷の白壁が、陽光を受けて(まぶ)しく輝いている。

 船頭に立つ津田算長(つだかずなが)が声を張り上げた。

算長「もうすぐ堺だ! 帆を畳んで、支度を整えろ!」その掛け声に、甲板の空気が一気に張り詰める。湊も慌てて立ち上がり、(かい)(あやつ)る者たちの手伝いを始めた。惣一はなお顔色が青白かったが、船縁にもたれながらもじっと前方を見据えている。

 どんな人や物と出会えるのか、胸に高まる期待をどうにか抑えて湊はせっせと櫂を漕ぐ。やがて船は、大きな波止場(はとば)へと滑り込んでいった。


 目の前に広がる堺の港は、湊にとってまるで別世界だった。沖合には南蛮船がどっしりと浮かび、異国の帆布(はんぷ)や金属のきらめきが陽に照らされていた。海に面してずらりと並ぶ蔵屋敷の白壁は、陽光を反射してまぶしく輝き、その合間からは色とりどりの(のぼり)や旗が風に(ひるがえ)っている。

 岸辺には人、人、人。荷を担いで走る者、船から木箱を下ろす者、声を張り上げて値を叫ぶ商人、鉄砲や硝石を扱う商人の姿もあれば、遠国からやって来た商人に旅僧、侍や異国人の影も見える。さらには茶人(さじん)風の商人、短冊を手に取る若い町娘。これらがまるで大きなうねりのように、町全体を活気で満たしている。聞き慣れぬ言葉が飛び交い、湊の耳にはちんぷんかんぷんだったが、それだけで胸が高鳴った。

 甲板に立つ湊は、思わず息を呑む。平群(へぐり)の山間で過ごした幼い日々からは想像もつかぬ、眩しいほどの賑わい。潮の匂いに混じって、香や酒、油煙のにおいまで(ただよ)ってきて、五感が一気に騒ぎ立てられる。船縁を握る手に、思わず力がこもった。

 ——ここが堺。天下の商人が集う都。

湊の瞳には、いまだ見えぬ真新しい世界が果てしなく広がっているのを感じた。二艘の帆船は(いかり)を沈め、船員が荷下ろしを始めた。湊も(はやる)る気持ちを誤魔化すように手と足を動かしてその手伝いに加わった。

 湊「なぁなぁ道休!これ!荷下ろしが終わったら何すんだ??」

目を輝かせながら道休にそう尋ねた。

湊「和歌浦(わかのうら)のときみたいにさ!自由行動とかあるのか?なぁ?」

道休「……悪ィな、和光。今ばかりはお前には構ってやれそうにねぇ…」

湊「え?」

道休の顔はいつもの呆けたものとは違っていた。眉を(しか)め、目も細め、低くくぐもった声でこう続けた。

道休「始まるぞ…戦いが…!」

湊はごくりと生唾(なまつば)を飲む。

 一しきり荷降ろしを終えたその場で、道休は茣蓙(ござ)を広げ積み荷を広げると大きく声を張り上げた。

道休「さぁさぁ!寄ってらっしゃい見てらっしゃい!根来寺伝来、銘品の数々!お目利きならばこの価値、わかるはずだろう!」

その傍らに並べられたのは、墨や(すずり)、筆などの書道具だけではない。古筆(こひつ)に絵巻物に仏像、(うるし)塗りの硯箱や蒔絵(まきえ)の文台、小ぶりの香炉に絹織物、さらには南蛮渡来の小瓶までもが並んだ。陽光を受けてきらめく品々は、ただ置かれているだけで人目を引く。だが決め手は道休の口上だった。

道休「ほれ見ろ、この硯箱!ただの硯と思うなかれ。大師ゆかりの御影(みかげ)を写した彫り物、文をしたためれば必ずや運も開ける!そしてこの文台、唐船の渡り物よ。ひと目見りゃ、座敷の格が三つは上がるぞ!」

 身振り手振りを交え、まるで舞台役者のように声を張る道休。口八丁に次々と宝物の来歴や効能が飛び出す。次第に目を輝かせて集まってきた町人や商人たちの声も飛び交う。

「おぉ、あれは堺でも滅多に見られん細工だぞ」

「値は張りそうだが……ひとつ持てば家の誉れだな」

 ざわめきが大きくなる。道休はそれを聞き逃さず、さらに声を張り上げた。目玉の品を持ち上げて、さながらその場はオークション会場と呼んで差し支えない。

道休「さぁさぁ!値を付けるのはお前さんたちだ!銭を出すか、機を逃すか、決めるのは今この時よ!」

 湊は根来から持ち出された品々にも目を奪われそうになったが、道休の立ち振る舞いに呆気(あっけ)にとられ、荷車の横で思わず口を開けて見ていた。寸前まで「面倒くさい坊主」としか思っていなかった道休が、この戦場では一騎当千の猛将にすら見えたのだ。呼び込みの声、群衆のどよめき、銭のやり取り。堺の空気は熱を帯び、まさしく戦いのごとく激しさを増していく。

 この時代の根來寺は、まさに最盛期を迎えていた。宣教師ルイス・フロイスが「日本で最も栄える寺」と記したほどで、七十万石にも及ぶ領地を擁し、鉄砲の生産と流通、それを用いた傭兵ビジネスで、一戦国大名にも劣らぬ勢力を誇っていた。人と物とが集まれば、宝物や調度品もまた自然と寄り集まる。今こうして道休が茣蓙に並べる品々も、その豊かさを象徴するものにほかならない。

 「流石は道休さんだ。あの審美眼と商売センスは、天下でも五指には入るだろう。」

「一瞬にして品々の価値を見極めて、ひとつひとつ確実に利益を出すからなぁ」

湊の横で、舌を巻いてそうつぶやく船員たち。住吉詣(すみよしもうで)に道休が選ばれている理由が、どうやら「これ」のようだ。

湊「…ますます坊主とは呼びづれぇ存在だな」

その頭をぽんっと手を叩く僧。

「和光。お前は俺たちと来い、品々の値動きも調べなおかなきゃなんねーんだ。」

 船員の僧の言葉に、湊は「えっ」と目を丸くした。

湊「値動き…俺が?」

「数字ぐらいは読めるだろ?」

「そうだ。お前書生なら、書道具を見てきてくれよ。墨に紙、筆にだって色々あるから、いい勉強になるぞ。」

 湊は渋々ながら(うなず)いた。だが、胸の奥ではむしろわくわくしていた。船上から眺めただけでも眩しいほどだった堺の町へ、いよいよ足を踏み入れるのだ。

そして足取りは知らず知らずのうちに、運命が導びく道へと続いていく——


前回から少し間が空きましたが、湊にとって「堺との初対面」はそれほど大きな出来事でした。

子供らしい珍品好きと、書を志す者としての芽生え。その両方を一度に描けた節になったと思います。


そして次はいよいよ、ある“うつけ者”との邂逅。

湊の運命を変える出会いに、ご期待ください。

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