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第二章  書の庭へ 2ー11

今回の場面は堺へ赴く道中、和歌浦(現在の和歌山市)での一幕。新たな出会い、玉津島・天満宮への参詣、そして船出を前にした湊たちの姿を描きます。少し落ち着いた情景ですが、この後の展開に繋がる大切なシーンとなります。

 明くる日の朝を迎えたが、案の定、思わしくない天気であった。雨は時にパラパラと降る程度だが、風は強く、雲は走り、波も荒れていた。それでも通りには、前屈(まえかがみ)みの人たちが行き交っていた。 海と天気の様子を見に出ていた大人達が判断を下した。湊もそれに同行している。

「予定通り船は欠航だが、グループでの自由行動ぐらいならいいだろう。」

湊「まじで!?観光していいの!?」

「あぁ!でもグループ行動だから、逸れちゃだめだぞ。」

湊「うおお!やったぁ!!」

「ったく、聞いちゃいねえな。」

呆れて笑みを浮かべる大人を他所(よそ)に、湊はすっかり観光気分ではしゃぎながら宿に戻った。

 しかし…

「どんっ!!」

宿の入り口に差し掛かったところ、湊は人にぶつかり尻餅(しりもち)を付いた。

湊「ってて。」

算長(かずなが)「小僧よ、気をつけろ。」

  前に立っていたのは昨日、道休からあまり見ないように忠告されたその男、津田算長であった。道休よりは随分と年上のようだが、仏門に到底そぐわぬその眼光は、まるで刃物の切っ先のような鋭さである。あの目に映ってはいけない──そう直感して、湊は思わず息を呑んだ。

算長は3人の僧兵を引き連れてそのまま過ぎ去り宿を後にしていった。

湊「びっくりしたー。そうだ、早く皆に知らせないと!」

  湊が今日の予定を報告すると、皆、誰と何処(どこ)へ行くかという話になった。 後から分かったことだが、算長は雑賀衆との兵器関連の商談に向かったらしい。

道休「チビ共二人、どうすんだい?」

惣一は昨日とは違い凛々しい表情で、その声に振り返り答えた。

惣一「俺は和歌浦天満宮(わかうらてんまんぐう)を参ろうと思ってます。天神様(てんじんさま)は書の道を行くものにとっては憧れですから。」

 和歌浦天満宮——菅原道真(すがわらのみちざね)大宰府(だざいふ)へ左遷される途上、この地に立ち寄ったとの言い伝えから、後に天神様として(まつ)られた(やしろ)である。以来、学問及び書の神として篤く信奉され、多くの人々が参詣に訪れるようになった。

 道休「流石は惣一殿、殊勝な心掛けだな。で、おめえは?」

湊はウキウキと各グループの行き先を聞いてまわったが、未だ心は定まっていなかった。風光明媚な和歌浦と聞いても、何に惹かれるか自分でもわからない。強いて言えば剣や武器だが──連れて行ってくれそうな人はいなかった。

湊「……俺は…。……。」

惣一に同行するのも、気が進まなかった。何より「書の道」という彼の言葉が、湊には障壁のように感じられた。

 道休「…なんだ、行く(あて)がねぇなら。俺と来るかい?商船や市場を見て回るつもりだが。」

道休は少し曇った表情を見せた湊に対し、明るい口調で誘ってみた。

湊「商船……市場……もしかして…!浮世離れしたモンとかあるのか!?」

道休「なんだ?急に眼を光らせやがって、もしかしておめぇも物好きか?」

湊は道休に付いていくことで何か余計な仕事を課されるのを危惧し、それだけは避けようと思っていたが珍品への強い興味が湧き、心が揺らいだ。

 他に宛もないので首を縦に振ろうとした時、

「では道休さん、我々はお先に。」

根来の坊主と堺の商人の数名がそう言って宿を後にして行った。あの「編笠の人物」も一緒だった。

——それを見て湊はふと踵を返す。

湊「待って!俺も!」

「何だ和光、こっちに来るってのかい?」

 それを見た道休はふっと笑って、軽く手を振った。

道休「すまん!そいつのこと頼むわ!俺の召使いだから精々こき使ってくれていいぞ。」

湊「だからあんた!余計なこと言うなって!」

 ささやかな笑い声が木霊する中。湊は小走りでそのグループの後についた。でも何故そのようにしたのか、湊もわからなかった。 ただただ編笠の人物のことが気になった。それだけだった。


 一行が足を運んだのは、海に突き出るように連なった小さな山々の(ふもと)に鎮座する小さな神社であった。湊は行く先も分からぬままついて来たが、その景観に思わず息をのんだ。白砂青松(はくくさせいしょう)の海岸線に、見渡す限り広がる砂州(さす)と、鳥たちの戯れる干潟——風の吹く生憎の空色だが、雲の切れ間から差す数本の朝陽の筋が、まるで一行を歓迎しているかのようだった。

??「……いい景色でしょ? 坊ちゃんも、こういうの好き?」」

 背後から声がして慌てて振り返ると、その人物が立っていた。編笠の縁を少し持ち上げて露わにしたその素顔は、透き通る肌に映える赤い口紅、少し切れ長の瞳が印象的な、湊よりは少し年上の少女であった。湊も薄々気づいてはいた。根来に来てからというもの、女性はせいぜい門前町で見かける程度だったが、火縄試しで見た時の違和感の正体は「それ」だった。

 ??「私、志津(しづ)。堺の商家の娘だよ。」

湊「…あ、えっと…俺、和光!」

湊は声が裏返りそうになるのをこらえながら、もじもじと答えた。

志津「和光君ね。隣、失礼するよ?」

湊「…う、うん、もちろん!」

 湊は腰かけていた石の端を譲り、そこに志津も座った。その瞬間、湊の胸の鼓動は潮騒よりも大きく響いていた。

志津「これ、ちょっと持っててくれる?」

湊「…え、うん!」

そう言うと、志津は編み笠の紐をほどき、それを湊に手渡した。

(つや)のある長い黒髪が露わになった、髪は後ろで結わえて衣の中に隠している。

手にした編笠からは仄かに甘く、素朴な匂いが漂った。

 横か正面か、湊はしばらく視線のやり場に迷っていた。気が付くと志津は徐に志津は風呂敷を広げ、小筆と竹筒を取り出した。竹筒には、すぐに物書きができるように淡い墨が仕込まれている。

湊「それ、何?」

志津「和歌だよ。ここ、玉津島(たまつしま)神社っていってね。和歌の神様が祀られているの。」

湊「和歌……?」

湊は思わず鸚鵡(おうむ)返しにしてしまった。和歌になど触れたことはなく、随分と縁遠い場所に思えた。

志津「うん。和歌の上達を願って、皆ここで一首詠んで奉納するんだ。君の先輩たちもあっちで和歌を詠んでたよ。」

湊「へぇ。ここ、そういう場所だったんだ。」

 玉津島神社――和歌浦の象徴ともいえる古社である。聖武天皇の御幸(みゆき)に際し、(みことのり)をもって和歌の神を祀る社となり、歌心を寄せる者の憧れとなった。やがて多くの歌人がこの地を詠み、いつしか「たまつしま」の枕詞(まくらことば)としても伝わるようになった。

 志津はさらさらと筆を走らせる。何を書いているのか。湊はそわそわとその時を待った。

志津「うーん。やっぱりこれかな!」

湊「できたの?」

志津「聞きたい?」

湊「うん!」

志津は一枚の短冊を、ところどころ墨で汚れた両手に持ち正面に掲げ、背筋を伸ばした。 そして遠くを見つめるような瞳と一層大人びた声色で、その歌を詠みあげた。

 たまつしま 浦にたゆたふ (たづ)の声 葦辺(あしべ)をさして どこや行くらむ

 湊は息を呑んだ。ただ志津の横顔と、その響きだけが胸を満たしていた。

湊「……!すげぇ!!」

志津「ほんと!?」

湊「うん!…なんか、こう。景色が、ぱっと映るっていうか。…綺麗だなって!」

志津「ほんと!?ちょっと恥ずかしいけど、気に入ってくれたなら嬉しい!」

少し目を逸らしながら、志津は無邪気な笑顔を見せた。不意にどきりと胸を打たれ、湊も目を逸らす。

 志津「君も何か書く?」

湊「俺?」

差し出された筆を、つい無意識のまま執ってしまい湊ははっと我に返った。

志津は想いを筆に載せて美しい和歌を詠んだが、自分はこの筆で何を書けばよいのか、その意味や目的すら思いつかなかった。気付けば「あれ」以来、筆を握ってすらいなかった。

筆を持って固まってしまった湊を見て、志津はふっと微笑む。

志津「字が書けないなら、絵でも何でも好きに書いたらいいよ。」

 湊は手本なしではまだ、簡単な漢字と「和光」ぐらいしか書けない。それでもいま一番、何を書きたいのかを考えれば、答えはすぐに出た。

湊「…じゃあ、それ、書いてみたい。」

志津「え、これ?」

湊が指さしたのは、志津が今詠んだ歌だった。

志津「いいけど、私、字はあんまり上手くないよ?」

湊「ううん。それがいい。」

 そういって短冊を受け取る湊だったが、

湊「なんだこれ、にょろにょろした字だな?全然読めねぇ」

志津「ふふっ。仮名(かな)文字っていうんだよ。君みたいな坊ちゃんなら、知らなくて当然かもね」

湊「なんか崩れた字なら見たことあるけど、こんな字もあるんだ。」

そう言いながらも、それを手本に湊は書きだした。

湊「なんか分かんねぇけど、どう?」

志津「…へぇ、結構上手いじゃん!」

湊「え、ほんと?」

志津「うん!だってちゃんと穂先で書いてて、細い線も効いてるもん。これ、初めてならちょっと大したもんかも!」

 志津は前かがみになって湊の手元を覗いている。気付けば彼女の肩も最初の位置より近づいていた。

湊「え…!そ、そう?自分でもわかんねえけど、寺で習ってる字とは全然違うな!ここは、これ全部で一字なのか?」

志津「ううん。ここ、連綿(れんめん)て言って、“つしま”の三文字を切らずに続けて書いてるの。」

湊にとって剣や武芸のこと以外で具体的な点を、誰かに褒められるのは初めてであった。戸惑いながらもその相手が可憐な少女だったこともあり、少し得意気になった。

湊「もっと書いてみていい?」

志津「もちろん。何だったら他にも何首か持ってるよ。」

 ——そうしてるうちに、時間はあっという間に流れた。潮風が強まり、朝陽はさらに高く昇っていった。社殿の影は次第に地へと縮み、時の流れを静かに告げている。

志津が「そろそろ戻らなきゃ」と立ち上がり、道具を風呂敷にしまう。

志津「また書いてみたらいいよ。和歌じゃなくても、字だけでも、きっと楽しくなるから!」

湊「……うん、考えてみる!」

志津はにっこりと微笑み、再び編笠をかぶった。

 その笠の縁を指先で軽く押さえながら、背を向けて歩みだす。さっきまで確かに隣にいた温もりは、潮騒に溶けるように遠ざかっていく。湊はただその背を目で追いながら、手元に残った短冊を見つめた。

仮名文字の嫋やかで柔らかな線は、刀で切り結ぶような字とはまるで違う。けれどその不思議な形が、志津の声や笑顔と同じくらい、胸の奥に焼きついて離れなかった。


 その後一行は宿に戻り、午後からしばらくの間、湊は道休と共に船番を任されていた。そこへ惣一が姿を現した。

道休「お、交代かい?天満宮はどうだった?」

惣一「はい。御朱印や道真公の写本も頂けて、研鑽(けんさん)が捗りそうです。」

今朝方よりも膨らんだ風呂敷を見せて、満足そうな表情でそう答えた。

道休「船酔いのお守りも手に入ったかい?」

惣一「ぐ……」

道休「はっはっは!すまんすまん、満足そうで何よりだよ!」

 誰であれ隙あらば揶揄(からか)おうとする道休に、惣一も少したじろぐ。

惣一「…和光は?」

道休「ほら、あそこ。なんか玉津島を参ったそうだぞ。」

道休が指をさした先で、船の上で、湊は神妙な面持ちで何やら紙を見つめている。

惣一「玉津島?実は俺も天満宮とどちらにしようか迷っていました。奴が何故そこへ?」

道休「さあな。でも何やら晴れた表情してやがったよ。」

惣一「そうですか。」

 道休の顔にも、清々(すがすが)しく、柔らかな笑みが浮かんでいた。

道休「おーい、和光!交代だってよ。」

湊「うん!今降りるよ!」

 湊は船番の間、甲板に腰を下ろし、志津からもらった短冊を広げていた。そこに流れるように記された細い線を、指先で何度もなぞる。字の意味はまだ分からぬ。だが、その線のひとつひとつに、彼女の声と笑顔が確かに宿っているように思えた。最後に海の方を振り返り、しばし遠くの水平線を見つめる。胸の奥に、小さな灯がともるのを感じながら。

 依然風は強いが、西の空は明るい。船は明日、いよいよ堺へと漕ぎ出すのだ。

ここまでお読みくださり感謝いたします。志津と湊の初対面、惣一や道休との軽妙なやりとりを通じて、それぞれの心の動きが垣間見える回でした。いよいよ船は堺へ。湊の旅路は新たな局面を迎えます。

次話もどうぞお楽しみに!

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