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第二章  書の庭へ 2-10

前回の更新から構成や設定を見直していたこともあり、少々間が開いてしまいました。本節から、だんだんと湊の生きる世界がどのようなものかが見えてくると思います。大和や紀伊を舞台とする戦国物は少ないと思いますが、今後もできる限り実際の地理や史実に沿った物語にしていく所存です。戦国の世の空気感を感じて頂ければ幸いです。

 夕刻、船団は紀ノ川の河口、紀伊湊(きいみなと)に出ていた。

 紀ノ川とその沿道は大和から紀伊を結ぶ大動脈でもあり、海に面したこの場所は良港として栄えていた。またこの地は戦国大名や守護大名の支配下にはなく、雑賀(さいか)・太田・土橋(つちはし)といった土着の士豪が連携して自治を敷くという、畿内でもひと際珍しい秩序で保たれていた。当然、根来にとっても経済的に重要な港であり、比較的自由な商いが認められている。

 一行は明るいうちにと既に帆船へと荷を移し終えていた。その船の上で、湊は赤く染まりだした水平線を、うっとりと眺めていた。風はより強く、分厚い雲が西の空を覆い始めていたが、バックに照らされた赤い夕陽が、何とも幻想的な風景を作っていた。

湊「海って、こんなキレイなんだ……」

磯の香りをのせた風、寄せては返す波の音にカモメの声。少年は五感すべてで堪能した。

湊「俺の名前、母上はひょっとして……」

その名が表すもうひとつの意味を考え、一層物思いに更ける湊。

 その横で夕日に照らされてキラキラとしたものが海に放たれる。

惣一「おえぇぇぇぇぇぇえええぇっっ!!!」

道休「あちゃぁ………ぶり返したか。」

惣一はひどい船酔いに襲われていた。紀伊湊に到着し川船から降りた時点がピークだったが、今またこうして船で海に揺られると、今度は磯の匂いが追い打ちをかけたようだ。

道休「大丈夫か?船が大きくなればマシになると思ってたんだがなぁ。」

惣一「……ダメだっ……この匂い……おぇえ…っ!」

 そう言って惣一の背中を擦る道休。湊は白けたような目で唖然としている。

湊「…おい……大丈夫か?(これが、あの……惣一…?)」

惣一「お、……お前に、同情されるとはっ……不覚っ!」

湊「もういいから……しゃべんな。」

道場で打ち合った後なら、この状況を揶揄(からか)えたかもしれないが、本人の本気で苦しむ様を見て、とてもそんな気にはなれない。

 船はある場所を目指して少し南へ向かっていた。

湊「そういやこれ、どこへ向かってるんだっけ?」

道休「あぁ、明日の天気が良くないみたいでな、和歌浦(わかのうら)ってとこに二晩停泊することになったんだ。」

湊「わかのうら?」

 和歌浦——紀伊国随一の景勝地。干潟(ひがた)と小さな島々が織りなす風光明媚な地形は、“天橋立(あまのはしだて)”にも比肩すると讃えられ、奈良・平安の昔より、幾多の歌人に詠まれてきた。その美の裏では、戦国の世、地元士豪「雑賀衆(さいかしゅう)」の貿易港としての一面もあり、時に火薬と陰謀の香りすら漂わせていた。

 その地に差し掛かった時、雲の切れ間から差し込む夕日が入り江一帯を茜色に包んでいた。船団から思わず感嘆の声が漏れる。干潮のため浅瀬が現れ、砂の筋が島々をつなぐ。水面は鏡のように空の色を映し、ところどころに立つ松の影が細く長く伸びている。 波打ち際では、貝を拾う子らの声と、漁から戻った舟の櫂音(かじおと)が重なって聞こえる。潮の香りは濃く、しかしどこか柔らかい。湊も、その光景を胸いっぱいに吸い込むように眺めていた。

 船団が桟橋へ寄せると、浅黒い顔の男が手を振って近づいてきた。その男は弥兵衛(やへえ)と名乗り、雑賀者(さいかもの)らしく腰には脇差を差し、背には網と銛を背負っている。

弥兵衛「おう、算長(かずなが)殿。よくぞお越しくださった」

声には張りと威勢があった。根来衆の案内人らしく、一行とがっしりと腕を取り合い笑い合う。算長も短く会釈し、言葉を交わした。

算長「世話になるな。弥兵衛殿。」

弥兵衛「算長殿もお元気そうで。さぁさ、こちらでさぁ。船も人も休ませねぇとな」

 数人の船番を残し、男が港町の細い石畳を先導し、一行を湾沿いの宿へと導く。軒先からは干し魚の香りが漂い、海風が暖簾(のれん)を揺らしていた。

惣一「おい和光……ここは、どこだ……?うっぷ!」

湊は船酔いで今にもその場に崩れそうな惣一を肩に抱き連れ添っていた。

湊「…頼むから、今は吐かないでくれよ……。」

惣一「くそ…下級武士の肩になど……不覚千万だ」

湊「…黙って歩かねぇと放ってくぞ。」

背丈が合うからと道休に肩を貸すように言われ、泣く泣くそうしている湊だが、遠くから交互に聞こえる潮騒(しおさい)と三味線の音で、自分がまったく知らなかった世界の真ん中に立っていることを実感していた。

湊「…あれ?」

 根来と堺の一行が宿の前に差し掛かった頃、気づくと何時の間にか道休の姿が消えていた。どうやら別の案内人に連れられ、別の場所へ向かったようだ。あの男——津田算長(つだかずなが)も一緒に。


 すっかり陽は沈み、潮風はなお強く、音を立てて和歌浦の浜に吹いていた。港の片隅、松林を背にした座敷に、数人の男が顔をそろえていた。戸は閉め切り、2本の松明(たいまつ)が場を照らしていた。奥に坐すのは、雑賀衆の棟梁——雑賀孫市(さいかまごいち)

海陸の武装集団・雑賀衆をまとめ上げる若き頭領であり、鉄砲の扱いと軍略で名を馳せる人物だ。

孫市は、静覚から届けられた音信状(おんしんじょう)(便りの書状)を手にしていた。

 孫市「いやはや……これは見事なものだ」

松明に照らされた紙面の筆跡を、感嘆の息でなぞる。書を専門的に語れるわけではないが、それでも、この筆には尋常でない力が宿っていると直感できた。

孫市「流石は根来の静覚様。書に疎い(わし)らの眼にも、普遍の美しさよ…して、文中に“道休”なる御方(おかた)の名前もあった。その(ほう)であろう?」

道休は、柔らかな笑みを浮かべて深く頭を下げる。

道休「いえ、ただの風来坊にございます。お恥ずかしい限り。」

孫市「風来坊が、静覚様の御紹介を(たまわ)ると?どうやら、ただ者ではなさそうだ」

 孫市はそう言うと、そばの唐櫃(からびつ)を開け、一つの桐箱を取り出した。

蓋を外せば、少し瑠璃色(るりいろ)を帯びた灰色の(すずり)が姿を現す。

孫市「つい先日、大陸渡りの商船から譲り受けたものよ。お主の目で、どう見る?」

道休は身を乗り出し、両の手でそっと硯を持ち上げる。

道休「ほぉ!……これは端溪硯(たんけいけん)に相違ありませぬな。唐土もろこし広東の名工の手によるものでしょう。砥泥とどろのきめは極めて細やか、水を得れば墨も(あで)やかに立ちましょう。墨堂(ぼくどう)に走るこの石紋(せきもん)は、むしろ銘として刻むべき見事さ。(ふち)の龍雲彫りも、近年は滅多にお目にかかれませぬ。」

そこで一拍置き、道休は桐箱へ硯を戻しながら、ふと笑みを含ませた。

道休「——寺の古蔵にも、これに似たような逸品がございましてな。もっとも、滅多に人目には触れませぬが…」

 孫市は少し目を瞬かせたのち、盃を手にして笑う。

孫市「よくは解らぬが……聞いておると、まるでその石紋が螺鈿(らでん)のようにも思えてきたわ。道休殿、面白い御仁よな。」

軽く肩を揺らして笑うその声音には、すっかり道休を気に入った色がはっきりと滲む。

道休「こうした品を海の向こうから呼び寄せるお手並み、さすがは雑賀衆。まこと、数寄(物を愛でる心)の友としても頼もしい限り。」

言葉巧みにくすぐられ、孫市は上機嫌だ。

 その空気を切るように、算長が咳払いをする。この男、津田算長は根来の鉄砲伝来に関わった人物で、根来における鉄砲の全般を担う重鎮である。

算長「……そろそろ本題に入りましょう。」

孫市「…うむ、それもそうだな。申してみよ。」

場に(いささ)かの緊張感が戻る。

 算長「……我らは先駆けて鉄砲の生産体勢を整えることができた。だが堺の商人どもはいまや全国を相手に鉄砲をばらまこうとしておる。鉄砲ももはや珍品などではない。雑賀と根来でその利を分け合う時代も、長くは続くまい。」

孫市「それが商人というもの。己らの懐が潤えば、誰であれ売るだろう。」

算長「さらには三好方(みよしがた)の松永久秀殿が、あの町へ触手を伸ばし始めておるのだ。もしもあのような他勢力が堺を抑えることにでもなれば…」

道休「私も数寄者(すきしゃ)づてに、久秀殿があの千宗易(せんのそうえき)(=後の千利休(せんのりきゅう))様とも度々会っているとよく耳にします。堺の利権に目をつけておらぬ筈がありませぬ。」

孫市「……だが、それも潮の流れというものよ。」

 (さかずき)を軽く傾けつつ、孫市はゆるりと頷きいた。

孫市「肝要なるは、どう舵を切るかだ。」

算長「……何か策をお持ちと見える。」

孫市「…堺が後方に座する石山本願寺。兼ねてより我らは一向門徒(いっこうもんと)として(ねんご)ろにしておる。」

算長「ふむ……すなわち、堺にて事あらば挟撃(きょうげき)も可能、ということですな?」

孫市「左様。」

 くいっと盃の酒を飲み干した。

道休「さすがは孫市殿。大海を望むがごときお見立て。これなる上は、堺とも一層信を深めねばなりますまいな。」

算長「いずれにせよ、今の流れを留めぬのであれば、此方(こちら)とて異存はござらぬ……互いに得るものあるうちは、良き縁も続きましょう。」

孫市「無論だ。根来の書と紙は、我らの信用を支える道具。欠かすわけにはいかぬ。」

やがて酒肴(さかな)も尽き、孫市は盃を卓に置いた。遠くから潮騒が微かに響き、座敷には静かな余韻が漂った。

 雑賀衆(さいかしゅう)とは当時の紀伊国北西部に根を張った海陸の武装集団である。海運と鉄砲を武器に自治を保ち、海上貿易の利も得る。根来とは互いに補い合う関係にあり、雑賀は鉄・硝石(しょうせき)硫黄(いおう)を、根来は紙・墨・筆といった文の力を提供する。だが、その結びつきは常に利と時勢に左右される、微妙な均衡の上にあった。

道休「こちらも、雑賀の鉄と火薬に助けられておりますゆえ。互いに長く栄えますように。」

三人の(さかづき)が軽く触れ、酒の香りがふわりと立ち上った。

孫市は盃を置き、穏やかに微笑む。

孫市「—では、今後とも御贔屓(ごひいき)にお頼み申す。」

算長も小さくうなずき、道休は笑みを深めた。

 静かな余韻を残したまま、会合は静かにお開きとなった。二人は形ばかりの礼を交わし、案内人に連れられ夜の和歌浦へと散っていった。港町の家々はすでに戸を閉ざし、軒先から漏れる灯りはまばら。遠く波の音と、時おり強く吹き抜ける潮風だけが二人の間を満たしていた。

 先に口を開いたのは算長だった。足を緩めず、低く鋭い声を落とす。

算長「……道休。お主、今宵(こよい)は随分と口が軽かったな。」

道休は肩をすくめ、苦笑を見せる。

道休「はは、あれでも抑えたつもりでしてね。商いの場は、少々空気を和ませた方が上手くいくものでしょう、兄上。」

その呼び名に、算長は一瞬だけ眉をひそめた。

算長「忘れるな。お前は津田家のはぐれ者。浮浪の末に寺へ転がり込んだ身。静覚さまのご厚意で飯を食わせてもらっている分際よ——出過ぎた真似は、頭目たる私が許さん。」

 その声音には、血縁であっても容赦しない冷徹さがにじむ。道休は一瞬だけ瞳を細めたが、すぐにいつもの人懐こい笑みに戻した。

道休「へぇ、心得ておりますとも。」

算長はそれ以上何も言わず、足を早めて暗がりの先へと歩を進める。

道休はその背を目で追い、ぽつりと独り言をこぼす。

道休「(はぐれ者で結構。あんたと同じ景色を見るつもりはねえさ。)」

 潮の香りが夜気(やき)に混じり、波が岸を叩く音が響く。静覚から託された“役目”が、今夜のやりとりで一層重みを増したように感じられた。

最後までお読みいただきありがとうございます。次回はここまで引っ張ってきた編み笠の人物の素顔が明らかになります。おそらく、よくお読み頂いてる方には薄々ばれているかもしれませんが、女性です。

2-11も乞う御期待!

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