第二章 書の庭へ 2-9
前節の道休がついた嘘の理由が明らかになるとともに、物語は動き出し湊や根来寺を取り巻く世界にも少しずつ光照らされて行きます。また本節にて、初めて史実上の人物も登場します。舞台地の移動によるワクワク感と、戦国の世の空気を感じて頂ければ幸いです。
大和から紀伊へと流れる「紀の川」。からっとした陽光を受け、川面はきらきらと銀の鱗のように輝いていた。人馬や荷を積んだ六艘の川船が、静かに、しかし確かに流れに乗る。先頭の一艘、船縁に身を乗り出してはしゃぐ少年の姿があった。
湊「うおおぉぉぉ、ふねだぁああああ!」
道休「おいこら!この船小っちゃいんだから立つな和光!」
何故、こんな状況になっているのか。
これに先立つ二日前、蔵での騒動の後のこと——
静覚「それにしても、まったく貴方って人は…」
道休「ほんとに、申し訳ありませんでしたぁ!」
静覚「謝罪はもう結構です。」
道休「へ?」
湊のサボりを正さず、便乗して蔵の干し柿を盗み食い、揚げ句子供二人にその罪を擦り付けようとした道休は、厳しい罰を受けるものと誰もが思ったはずだ。しかし静覚はその罰を、お説教に留めた。その場には数名の僧に加え千蔵、源敬もいたが、少々ざわついていた。
静覚「その代わりこれだけの騒ぎを起こしたのですから、責任は取ってもらいますよ。」
道休「!……。」
周囲は訳も分からず、ぽかんとしていた。そんな彼らをふと見渡し、静覚は人払いをする。
静覚「ほれほれ。ここはもう結構ですから、皆さんは早く夕餉の準備をなさい」
そうして二人を残し、ぞろぞろとその場を後にする僧たち。
千蔵「何事かと思って来てみたが、状況がイマイチさっぱりだ。静覚さまのお考え、どう思う?源敬。」
源敬「いいえ。僕にもさっぱりです。」
そう言いながら、源敬の頭に、道休が口にしていたある言葉が引っ掛かっていた。
源敬「……(住吉詣、あれはどういう意味だったんだろう?)」
静覚「回りくどい配慮をするものですね。貴方らしいと言えばそうですが。」
静覚は周囲に人がいなくなったのを確認してから、道休にその言葉を向けた。
静覚「寺に来てからの彼の情緒については、私も少々心配してましたから。確かに堺への船旅は、いい気分転換にもなるでしょう。」
道休「あの、もしやお気付きで?」
道休は俯いた顔を少し上げた。静覚は彼の嘘の真意に気付いているようだ。
静覚「ええ、あの柿がまだお供えする前のものだったと判ったときにね。」
道休「やはり貴方には敵いませぬ。静覚さま。」
静覚「あの子はまだまだ落ち着きがありませんから、責任もって面倒見てあげて下さい。」
それを聞き、道休は姿勢を正す。
道休「はい。謹んでお受けいたします。」
静覚「でも貴方にはもう一つ、目論見があるのでは?」
道休「!」
静覚「“あのお方”との間に緩衝役が欲しかったのでしょう?確かに、無垢な子供そのものである彼なら、適材かも知れませんね。」
静覚は少し神妙な面持ちで、意味深げにそう語った。
道休は、さらに畏まり再び頭を下げた。
道休「…お見逸れ致しました。その通りです。」
静覚「まぁ、あなたなりに職務を果たそうとしたということで、今回はこれで不問とします。その分、しっかり働いてきてくださいね。」
道休「は。」
その表情は、いつもの心優しい住職のそれであった。道休の方にポンと手を置き、その場を後にする静覚。道休はしばらくの間、深々と頭を下げたままでいた——
堺——日ノ本のみならず、明や南蛮から人と物が集まる国際貿易都市。珍しい物好きの湊にとっては、一度は訪れてみたい夢の地であった。その堺へ、根来寺の使節団が向かうこととなり、湊も便乗する形で随行することになった。名目上は、蔵での一件の「罰」として雑用係を務めるためだが、話を聞いた瞬間、湊の胸は高鳴った。
船旅は、想定を上回る人馬と積み荷の量ゆえに決まった特別な手段だった。紀ノ川を川船で下り、紀伊湊にて帆船に乗り換え、紀淡海峡を越えて堺へと向かう――。そうして堺に入る前に一行が立ち寄るのは、住吉大社。海の守り神に航海の無事を祈る“住吉詣”は、堺に入る際の習わしであり、根来では「堺へ参ること」そのものを意味する言葉としても使われていた。
惣一との出会いや火縄の威力に打ちのめされた日々など、もはや遠い昔のように感じられた。湊は、期待に胸をふくらませながら、当日の朝を迎えた。その出立の直前、源敬が一人、彼を見送っていた。
源敬「昨夜はちゃんと眠れたかい?」
湊「そうならないように、昨日はヘトヘトになるぐらい刀振ったし働いたからな。抜かりは無いぜ!」
源敬「もう、調子いいんだから。」
呆れながらも湊の心躍る姿を見て、源敬も嬉しそうである。
源敬「それとさ。噂で聞いたんだけど。」
湊「?」
源敬は小声で、聞き寄りの情報を湊に教える。
源敬「例の干し柿、実は寺にお供えする前の、道休さん家の預かり物だったそうだよ。」
湊「ん?どういうことだ?」
源敬「つまり、あの柿は元から道休さんの所有物だったってこと。」
湊でさえ、干し柿がどれだけ貴重なものかはある程度理解していた。故にそれを聞いて、湊の頭にある謎はより深くなった。
湊「だってあれ、蔵の中にまだたくさんあったぞ?全部そうだとしたら、あのおっさん、何者なんだ?」
源敬「僕も詳しくは知らないけど道休さんて、古い書物や骨董への造詣が深くて、育ちはともかく生まれは良いって言われてるんだ。」
湊「まじかよ!あんな生臭坊主なのに!?」
源敬「その生臭坊主が、最初に和光を“住吉詣”にって言ったんだよ。」
湊「…………。」
湊はまだ、道休の真意を掴みかねている。だが少なくとも彼に対する心象は変わりつつあった。
源敬「これは僕の勘だけど、和光に“空の罪”を着せて、堺へ連れ出す口実を得ようとしたんじゃないかな。」
湊「あんのやろ!じゃあ、俺をこき使うためにあんな真似!しかも尻まで蹴りやがって!」
源敬はそんな湊の剣幕に、ふっと笑みを漏らした。
源敬「君って案外、人に好かれるタイプかもね!」
湊「ん、何か言ったか?」
源敬「ん-ん、何でもない!」
源敬の爽やかな笑顔を見て、湊はふと何かを思い出したように目を見開く。
湊「あ、そうだ!昨日堺へ行くって聞いてから、ずっと忘れてら。」
源敬「?」
湊「あいつ……どうなった?」
その一言に、源敬も思い出す。
源敬「ああ、えーと……そう!鳩弥君!」
湊「そうそう!」
源敬「多分、まだ境内のどこかで預かられているんだと思うよ。出自とかもまだ明らかになってないみたいだし。」
湊「そっか…」
ちょうどそのとき、旅支度を整えた一行が声をかけてくる。
「おーーい!和光―!早くこんかー!」
源敬「ほら、行っておいで!彼のことなら、僕が気を配っておくからさ。」
湊「……あぁ。じゃあ、行ってくる!」
湊が身を翻そうとしたその時、ふと立ち止まって言った。
湊「……あん時、お前が寄り添ってくれたから、正直に話す気になれたんだ。だから、その……ありがとな。」
源敬は、一瞬きょとんとした顔をした後、ふっと目を細めて笑った。
源敬「うん、行ってらっしゃい!」
その声に背を押されるように、湊は船へと駆けていった。
天候は快晴。少々風はあるが、川船は順調に西へと下っていた。
湊は船縁に身を乗り出し、すれ違った漁船の漁師に手を振る。
湊「おーい!ごくろうさーん!」
その声に、隣から冷ややかな一言が飛ぶ。
惣一「ったく。これしきで浮かれおって。」
湊「いやぁ、だってよ! 船だぞ船! 楽しいじゃんか!」
惣一の釘刺しも、今の湊にはまるで届かない。風に揺れる水面と心地よい揺れに、気分は最高潮。
──しかし、問題はその釘刺しではない。
湊はふと、惣一の言葉を反芻し、そしてぎょっとする。
湊「……いや、なんでお前がいるんだよ!!」
惣一は鬱陶しげに目を細め、肩をすくめた。
惣一「俺は学問だけじゃなく、世の見聞も広めるように言われて根来に来てるんだ。寺とも、元からそういう取り決めになってる。」
そして湊をじろりと見て、語気を強める。
惣一「そういうお前こそ、小僧の分際でなぜここにいる?」
湊「うっ……」
棘をつけて返された言葉に、湊は思わずたじろいだ。なにせ自分は「サボりと盗み食いを犯した罰」として、雑用係として乗せてもらっている身だからだ。
道休「お?和光、そいつ友達か?俺にも紹介しろよ。」
湊「そんなんじゃねーよ!」
船尾側の船縁にもたれて座る道休がちょっかいを出してきた。
道休「おれは道休。まぁ本来、名乗るほどのもんじゃねーが、一応この旅団のリーダーやってんだ。よろしくな!」
惣一「惣一と申します。」
道休「おう!因みにそいつさ、俺専属の雑用なんだ!おめぇも好きに召し使っていいからな!」
湊「げ!おまえ、それ言うなって!」
惣一「ふふ……それはいいことを聞いた。」
船上の漕ぎ手たちも含め、クスクスと笑い声が広がった。
旅の始まりにしては、悪くない雰囲気だった。
湊「ちぇっ。いい旅になると思ったのに、こいつらのせいで台無しだよ。」
道休「なんか言ったかー?」
湊「べーつにー。」
ぷいっと顔をそむけた湊は、ふくれっ面のまま景色を眺める。
ふと並走する別の川船に目をやると、乗組員たちが何やら話していた。だが、風の音にかき消されて、会話は聞き取れない。その中に、ひときわ目を引く男がいた。恰幅の良い僧兵のようだが、かなり年配にも見える。商人風の男たちと、何やら険しい表情で話していた。
湊「(……あれ、誰だ?)」
湊も寺に来てから二週間以上が経つが、見覚えはなかった。
道休「和光、あっちの船はあまり見ないでくれ。」
湊「?」
さっきまでとは違う、少し低く曇った声だった。
道休「あの男は少し厄介なんだ。」
惣一「あれが、津田算長殿か?」
道休「おっと。知ってたのか、惣一君。」
湊「……誰だよ、それ?」
道休はふと眉をひそめた。
この男でも、そんな顔をするのか。湊は意外に思った。
道休「あれはな、この国に鉄砲を持ち込んだ張本人さ。……あんな恰好しちゃいるが、どちらかといえば“戦国大名”だな。」
湊「……。」
道休「だが寺は、表立って彼を否定できねぇ。地縁も寄進も厚いときたもんだ……」
惣一「……。」
惣一も黙って道休の言葉を聞いていた。少し空気が張り詰めたように感じられた。寺に初めて来た時に感じた“武”の匂いを、湊は思い出す。
道休「ま、お前たちが気にすることじゃない!せいぜい船酔いしないように、遠くの景色でも眺めてな!」
湊は苦笑しながらも、言われたとおりに視線を遠くへ向けた。
そして最後に並走する川船を脇から一瞥する。そこに、もう一人。気になる人物がいたからだ。
編み笠を深くかぶったその人物は、商人たちのそばで会話を聞きながらも、船の揺れなど気にも留めず、筆をさらさらと走らせたて書き物をしていた
湊「……そうだ、あの時の──」
火縄試しの場で、ふと目に入ったあの仕草。あれと、まったく同じだった。
一瞬だけだったが、湊の目はまた、吸い寄せられるようにその筆先を追っていた。
湊「……一体、どんな顔をしているんだろう?」
川船は順調に西へ下っている。だが、まだまだ根来を出たばかり。その先には、湊の知らない世界が広がっている。
ついに物語は史実の波へと漕ぎ出しました。そして津田算長の登場により、鉄砲と書、そして商いの交点が静かに動き出します。次回は、雑賀の地での出会いと交渉、そして旅の行く末が描かれていきます。どうぞお楽しみに。
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