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「おお、これは良い」
夕飯時、父は起きてきて、鶴と名乗る老婆が置いていった荷物を開けて喜んでいた。
「何それ?」
「反物だよ」
見ると、桐の箱に入ったそれは、綺麗な和柄の生地だった。
「美しい、見事に真っ白だ。いててて」
父は脇腹を押さえてダイニングに腰掛ける。
「でも今は、食い物の方がありがたかったな」
「鶴さんって誰なの?」
「名乗ったのか? 先生が」
私は冷凍食品のパスタを電子レンジにかけた。
「先生?」
「歳を取ったんだな、先生も」
父は嬉しそうでもあり、物憂げでもある表情を浮かべた。
「ああ、強いていうなら、金儲けの先生かな」
「詐欺の先生ってこと?」
「人聞きが悪いぞ」
「ホンモノの仕事のお礼だって」
「そこまで喋ったのか」
試しに続きの言葉を待ってみたが、父はそれ以上何も言わなかった。
「ねえ、昔さ」
電子レンジの表示を見ながら私は話題を変えた。
秒数がカウントダウンしている。
「蛇の夢を見たら、人に話すなって言ってたよね?」
「ん? ああ」
父はちらりとこちらを見て頷いた。
「蛇の夢は他人に感染るからな。それがどうした?」
「それって、なんていうか、今でも有効なの?」
「有効って?」
「子供騙しじゃなくて、今でも気をつけていた方がいいかってこと」
父は鼻で笑った。
「んー、まあ、そうだな。帰ってきたら手を洗え、くらいのことだ」
「よくわからないけど。他人に感染るってどういうこと?」
「蛇は邪、ヨコシマなもの。恐怖、不安、人がもともと持っている負を刺激する。だから感染る、ように見える。厳密には煽って回る。要らぬ心配をな。初めは夢。単なる夢。脳内のバーチャルな映像。だが夢を見たという現象が残る。人のメモリに記録として残る。質量のない情報だ。現実には何の影響もないはず。しかし、数人が見るとどうだ? 蛇の夢の話を聞いたという人が、同じように蛇の夢を見る。すると、大勢の人が同じ夢を見た、という現象が残る。情報に色がつく。実態を帯びてくる。現実になって押し寄せてくるような錯覚をする。それがまた不安や恐怖を煽る。大きな流れをつくる。そしてどこかのタイミングで、情報が質量をもち始める。質量をもつものを、情報が操るようになるんだ。すると思いもよらなかったところで、誰かが実害を被ーー」
電子音が鳴る。
カウントダウンがゼロになる。
用意していたフォークがふいにキッチンの床に落ちて音を立てた。
私は拾い上げて、水でゆすいだ。
「できたよ」
「聞いてたか?」
「同時に蛇の夢を見た人がいたら?」
「ん?」
「同時に見たら、それは感染ったとはいえないでしょう?」
父は天井を見る。
少し考えて、口をひらく。
「動物園に遠足で行けば、複数の子どもがライオンの夢を見るだろう」
私はダイニングテーブルに大皿を二つ運んだ。
「話だけが刺激じゃない。同じようなものを見たんだ、きっと」
そう言って父がテレビをつける。
ワイドショーでは、女子中学生の自殺について、にわかに報道されていた。
「どれだけの人にどれだけの影響があるか、ちょっと人間のオツムには難しすぎて、想像できないな」
「ウェルテル効果……」
「難しい言葉を知っているじゃないか。そういう方面のことにばかり興味を向けるなよ」
「そういうわけじゃ」
「知ってるか。『若きウェルテルの悩み』の著したゲーテだが、多くの読者がその小説を模して自殺したのに反して、本人は自身の失恋の傷を、表現し拡散することで癒すことができた」
フォークを渡すや否や、父は巻かずに麺を口へ運んだ。
「話半分。この世で一番大事なことだ」
「一番はお金じゃないの?」
父は笑った。
「前言撤回。一番大事なのは、笑うことだ」