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視線。
アパートの敷地の外だ。
建物の隣を流れる川のその先。
小さな橋を渡った向こう岸にある歩道に、女は立っていた。
じっとこちらを見ている。
大人の女性だ。
髪が長い。
赤い服を着ている。
ーーこちらに手を振っている。
「あのぉ」
突然耳元で老婆の声がした。
私は飛び跳ねるほど驚いた。
「こちらに、仁宗さんはいらっしゃいますか?」
閉めようとしていたドアのすぐ裏に、小柄な老婆が、いつの間にか立っていたようだ。
「いえ、あの」
耳元で声がしたように感じたのは錯覚で、想定外に近くで人の声がしたので、そう思ったらしい。
「えっと、失礼ですが、どちら様ですか?」
仁宗というのは、父の名前だった。
「先ほどご一緒した鶴です」
先ほど……。
ホンモノの仕事のことか?
「鶴さん?」
聞いたことのない名前だ。
「あの、すみません、父は今……」
「あなたが娘さんね、可愛らしい」
「え? ああ、どうも」
「いいの。これを、仁宗さんに渡して」
老婆は、大きな風呂敷包みを私に差し出した。
受け取ると、かなりの重量だった。
歳のわりに力持ち?
いや、それにしたって重すぎる。
風呂敷は何か平べったい箱を包んでいるようだった。
「ほんの気持ちだけお礼です。それじゃあ」
そう言って踵を返し去っていく。
「あ、あの!」
老婆は振り向く。
美しい着物の帯が目に留まった。
鶴が舞っている。
河を飛び越えて。
「さっき父と一緒だったって、その、ホンモノの仕事、ですか?」
老婆は一瞬驚いた顔をしたが、すぐ笑顔になって、
「ふふ、あまり調子に乗って喋るなって、子供達に言われてるの」
「父は何をしているんですか?」
老婆は目を細めるだけだった。
「大丈夫。皆があなたのことを想っているわ」
そう言って老婆は去った。
下駄の小気味いい足音が、外階段を軽快に降りていく。
ふと我に帰り、川の向こうの赤い女を探す。
しかし、女は姿を消していた。
「待って!」
老婆を追いかけて階段を降りる。
エントランスを通り抜けて、建物の前の道路に出た。
しかし、道の左右どちらを見ても、すでに老婆の姿はなかった。
冷たい風が吹いても、しばらくその場から動くことができなかった。