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ともなき音叉 短編版

作者: えすてい


 あなたのくれた勇気、もう聴けないのかな。


 大学二年生の秋、親友の香菜が交通事故で亡くなった。

 激しい事故だったらしい。

 棺の中で見送るはずだった香菜の綺麗な顔は、見ることができなくなっていた。

 涙を流す彼女の両親、暗い色のハンカチで口元を覆い、『小さい時から、ずっとありがとうね』、そんな言葉を聞いた気がする。

 曖昧に返事した私がどんな顔をしていたのか、もう思い出すことができない。

 履き慣れないパンプスを脱ぎ散らかし、下宿先へと帰ってきた。

 もう使われなくなった大きめのワードローブ。かかった洋服を優しく手でなぞらえた。

 匂いの残ったベッドにうつ伏せで横たわり、喪服のまま静かに目を閉じる。

 線路が近く、交通の便が良いだけの安いマンション。

 列車の横切る音が窓を閉めていても聞こえてくる。

 いつもは気にならなかったその音が、今はより大きく感じた。





 ■■◇■■





 香菜と出会ったのは高校三年生の夏だった。

 中々煮え切らない私に母は受験勉強の為、と半ば押し付けるように学習塾のパンフレットを渡してきた。

 今までそんなもの微塵も感じさせなかったというのに、どうして今更。

 ふと見上げた私は、久々に母親の顔を見た気がする。

 いつのまにか歳を重ねて増えていくシワとシミ。

 心配そうに私を映した瞳が、少々苛立っているようにも見えた。

 夏休みだけの短期間だと知りながらも、重い足取りで家を出る。

 蝉の鳴き声を耳にいれたくなくて、蓋をするようにイヤホンで塞ぐ。

 電車を降りてすぐの雑居ビルに大きな看板が見えた。

 CMでも何度か見たことのある大手の学習塾。同じような受験生たちが吸い込まれるようにして入口に歩を進めている。

 始業の合図。耳から抜ける英文と数学の解説。

 何度も蛍光色の線をのばし、ルーズリーフを煩雑に埋めていく作業。

 書き付けられた授業の板書が歪な羅列に見え始め、私は目頭をぎゅっと抑えた。

 手元の時計を一瞥し、進まない針と徒労感に圧倒されていく。

 ノートに書かれた自分の汚い数列を眺めながら、この夏期講習がどのくらい続くのか無意味な計算をした。

 私は我に返り、凡庸な脳みそをリセットした。シャーペンをノックする指と思考を止める。

 馬鹿馬鹿しい、こんなこと。


 手洗いだと偽って席を立つ。狭い廊下の先、階段横の化粧室へと入った。

 講師の声すら届かない静かな空間。

 女子トイレの鏡面の前で止まり、私は自分の仏頂面を眺める。

 やりたいことなんてないし、何かになりたいという目標もない。

 ただ言われるがまま勉強だけやってる今の私って、一体何なのだろう。

 好きなことや夢中になれるものが無いわけじゃない。だけどどこか心は上の空、興味関心が本当の自分と繋がっているような感じがしないのだ。

 青い春と呼ばれる輝かしい学校生活は遠く、真っ青で窮屈な未来が、ぽっかりと口を開けて私を飲み込もうとしているようだった。

 突然、キィ、と扉が開く音がして、私はトイレの奥を見遣る。

 内開きの個室から人がでてきた。

 水の流れる音が今更ながら耳に入る。

 トイレの奥から歩いてきたその子は、利発そうな眉に長い睫毛に大きな瞳が特徴的だった。

 バランスのとれた鼻筋に繋がる血色のいい唇。メイクなんてしてないのに、素朴な美しさが際立つ。

 ショートカットが良く似合う、いや、ああいうタイプはどんな髪型でも似合うだろう。

 Tシャツにジーンズ、着飾らないスニーカー姿なのに、すれ違えば二度見してしまうような楚々とした魅力が感じられた。

 私は慌てて目線をそらしスマホをだす。

 アプリの並んだ画面の中で視線を必死に泳がせ、何の意味もないフリック操作を繰り返し始めた。

 近づいてくる彼女の気配を意識しつつも、さっさと個室に入ればよかったと後悔する。

 彼女が横に立ち、手を洗い始めた。

 水音を聞きながら、私はこの子が早く過ぎ去ってくれるよう祈った。

「ねぇ」

 彼女が声をかけてきた。

 反射的に目を上げた私は鏡越しに彼女と目を合わせる。

 驚きを隠しつつぶっきらぼうな口で返事をした。

「……なに」

 彼女は怖気づく様子もなく鏡面の目を横に向け、私の本体を見て彼女は言った。

「もしかして……」

 鏡から目を話した私も、本体と目を合わせる。

 間近で見た彼女の瞳に吸い込まれそうで、たじたじになりながら私はスマホの画面を消した。





 ■■◇■■





 授業が終わり帰路に立つつもりでいた。

 西日が傾斜を迎え赤く空を染める。

 いつにもまして蝉がうるさい。

「えっと……内田さん……?」

 私は彼女の苗字を呼んだ。

「香菜でいいよ」

 慣れた口調で自分の呼称をそう求める。私たちは今日出会ったばかりだと言うのに。

 ボーイッシュなキャップを被る彼女は印象をさらに変えた。

 参考書の入った重い手提げでさえ、彼女という花を彩っているかのように見える。

 内田香菜。

 彼女が私にそう名乗った時、どこか嬉しそうな顔をしていた。

 私は彼女とどこかで会ったことがあるだろうか。

 香菜は少し離れた私立の女子高に通っているようだったが、高校受験もよくわからないまま通過した私には、その場所がいまいちピンときていなかった。

 おずおずと私は彼女に尋ねる。

「それで、私に何か用………?」

 建物の入口で私が出てくるのを待っていた彼女。

 行き交う受講生の間に挟まり、私たちは隣合って歩く。

「今日の過去問エグくなーい? 一問も分かんなかった」

「理工学部の赤本ある? 明日貸して」

「先生ヤバくね、くそキレてた」

 雑多な話題で埋め尽くされる喧騒に、一人置いていかれそうになる。

 思わず手が耳に触れそうになった瞬間、彼女がこちらを見ていることに気がついた。

 私は咄嗟に結ったヘアゴムを触って誤魔化す。

 香菜は言う。

「この辺りにある本屋を探してるの。あたし土地勘なくてさ」

 私はなんとなく駅に向かっていた足をついと止める。香菜もそれに倣った。

 道行く人の流れに逆らわないよう、道の端の街路樹に二人で寄る。

「本屋さん………か………」

 私は小さく呟いて、駅の構内にある商業スペースを想起する。

 あまり大きくないその中に書店は無かった。

 記憶を辿り、駅から少し行った近くのビルに書店が入っていたことを朧気に思い出す。

「確か、あそこの交差点を右に曲がってすぐのところに店舗があったと思う」

 私は駅とは反対側の道路を指さして告げた。

 蝉のけたたましい鳴き声。雑踏のひしめき合う耳障りな音。

 反応の薄い香菜を見た。

 説明不足だっただろうか、彼女はじっと私の方を見つめたまま動かなかった。

 わずかな沈黙の後、彼女は照れくさそうに言う。

「ごめんね、もし時間が空いてたら、一緒に来てもらえない?

 ……あたし、方向音痴で………」

 私は条件反射で左手の腕時計を見る。

 家に帰って参考書の問題に取り組むことが、目下の優先事項だと講師が熱く語っていたのを思い出す。

 だが土地勘のない彼女の為に書店を案内してあげることは、頭にもう一度詰め込まなければならない単語帳をめくるより遥かに有意義だと思えた。

 二つ返事で私は彼女の望みを快諾する。





 ■■◇■■





「栞ちゃん、この辺詳しいの?」

 丸い瞳が私を覗き込むようにして尋ねてくる。

 人懐っこい香菜はすぐに距離をつめ私のことを名前で呼ぶ。

「小学生の時ここに習い事をしに通ってたの。随分前なんだけど」

 自動ドアが開くと冷たい空気が通り抜けた。

 懐かしい匂いと、子どもの頃に入っていた時の感覚が呼び起こされる。

 そういえばよくここで親が買い物しているのを待っていたっけ。

「何の習い事をしてたか、あたし当てるね」

 微笑む彼女が意気込みながらそう言ったので、私は黙って頷いた。

 別にそこまでするほど珍しいものでもなかったが。

 この辺りは学習塾も多ければダンス教室にスイミングスクールも揃っている。習い事を子どもにさせるなら、殆どの家庭がここに集まってくるだろう。

 ビルの中央部に貫通したエスカレーターの柱。

 そこにはそんな習い事の広告が、幾つも張り出されている。

 私の二段下にいた香菜は流れていくそれらのチラシに目もくれず告げた。

「―――ピアノ、でしょ?」

 私はびっくりして思わず彼女の顔を見た。

 帽子のつばで少し陰った香菜の表情。

「……どうして分かったの?」

「まぁ、多いからね」

 彼女はただ笑ってそう答えた。

 目的の階に辿り着いた私はその話題を深く掘り下げることもせず、彼女に尋ねた。

「そういえば、何を買いにきたの?」

 本屋さんに案内するだけだったはずが、いつの間にか買い物に付き添ってしまっていた。

 ここで別れるのもなんとなくばつが悪かったので、私は何も言い出さなかった。

 私の言葉を聞いた彼女は、あっけらかんとして返す。

「そりゃあ、あたし達、受験生だからねー」

 書棚に敷き詰められた本の束の横を通る。

 あまり興味のない週刊誌や旅行雑誌。祖父とよくやったクロスワードの棚を抜け、『受験生応援フェア』と大々的に装飾されたポップの前に来た。

「塾にも通ってるし、もう夏だし。いよいよって感じだよね。

 ……嫌そうだね、顔に出てるよ」

 私の引き攣った表情を見たのか、香菜は茶化すように言う。

 顔になんか出るはずない。元々こういう顔をしてるんです、私は。

「別に嫌じゃないよ、勉強するのは。強要されるのが不満なだけ」

 口を尖らせながら私は返事する。

 誰に弁明するでもなく、そのまま私は続けた。

「……進路、決まってないんだ。やばいよね、もうこんな時期なのに」

 妙な気分だった。今まで親にだって告げたことのない気持ちがつい口から出てきてしまう。

 どうしてか分からないけど、なんとなく香菜になら話せるような気がした。

「わかった! だから今日トイレで授業サボってたんだ」

 冗談めかしながら言う香菜。

 明るい声に私は情けない思いを通り越して首肯した。

「……そうだね、嫌気が差してたのは、事実かも。

 私って、ちゃんと大人になれるのかな………」

 未来に広がる漠然とした不安。

 冷たい雨が体温を奪うように、しとしとと心細さに拍車をかける。

 落胆を宿した母親の瞳が怖くて、私はここまで来たんだ。

「……結局、何をやっても中途半端で、上手くいくことなんて何も無かった。

 そんななのに、一丁前に高いお金払ってもらって塾なんて」

 連なる本棚には資格関連の本がずらりと並ぶ。

 字面だけの意味も分からない書籍たちが、私を取り囲んで睨みつけているようだった。

「――関係ないよ」

 凛とした香菜の言葉が私の思考を遮る。

「自分が何になりたいかなんて、みんな分かってるわけじゃない。絶対にうまくいくことなんて、そんなのあるわけないし。

 でも、栞ちゃんは自分のこと、しっかりと見つめられてるじゃん」

 不思議な存在感だった。

 香菜は抜き出した参考書を元の場所に収めて、たったそれだけの行為なのに、とても絵になる。

「まぁ、あたしも人のことは言えないんだけど。

 栞ちゃん、ちょっとあたしに勇気を分けてくれない?」

 尋ねる香菜に私は表情を崩した。

「勇気? なんの?」

「ついてきて」

 そういうと香菜は別の書架に向かって歩き出した。

 私は肩に引っ掛けた手提げを持ち直す。

 本棚に挟み込まれた掲示を読んで、行き着いたのが音楽関連の書棚であることが分かった。

 譜面台で何度か見た事のある楽譜たちが、白々しくも新品同様に並ぶ。

「なにか楽器ができるの?」

 私は香菜にそう聞いた。

「あたしも、小さい時からピアノしてるんだ」

 彼女は返事をしながら楽譜の中から一冊抜き出して手に取る。

「音大……目指そうかなと思ってる。なんて……」

 私はなんだか後ろめたくなって口を噤んだ。

 こんなにはっきり自分のことを話せる香菜が、すごく眩しく思えた。

 私とは縁遠い、夢を追いかける人。希望に溢れた人々が、ひたすらに自身の想いを胸に抱き、人生を邁進していく。

 香菜は、その中の一人だ。

 立ち止まって耳を塞いだ私とは違う。

 だけど、そんな彼女の表情は硬い。朗らかだったさっきまでとは比べ物にならないほど緊張した瞳。

 怖いんだ。

 香菜だって、自分が何者かになれるなんて分かってるわけじゃない。

 音大を目指せば、他の可能性は狭まる。

 その分勉強に時間が回せなくなり、滑り止めの大学なんて、もっとレベルを下げないと。

 私は香菜の持っている本の表紙を見た。

 昔の記憶がほんの少しだけ蘇り、自分の耳に触れながら告げる。

「………さっきも言ったけど、私小学一年生の時にピアノを習ってたの。同じ教室に、それ、凄く上手に弾ける子がいて、素直にすごいなって思った」

 香菜の持つ、ピアノの教本。バイエル。

 でもあの頃弾ける子は、そんなに多くなかった。

 私は続けて言う。

「それから私、その子の演奏がきっかけでピアノが好きになってね、一生懸命練習した。

 ――でも結局上手く出来なくて、習い事自体も辞めちゃったの」

 私は照れ隠しするように笑った。

 透き通るような音色。そんなの今まで、聞いたことがなかった。

 私は香菜を見つめて、

「今思うと勿体ないなって思うんだ。続けてれば、今頃何者かになれたんじゃないかって。私はできなかったから、だから、それを真剣に目指せる香菜ちゃんはすごいと思う。

 大丈夫、香菜ちゃん、ずっと続けてきたんでしょ? やろうよ。香菜ちゃんなら、できるよ」

 夏休みだからか、書店には人が多かった。

 親に連れられて、キャラ物の絵本をせがむ子。漫画コーナーで楽しげに話す女の子たち。レジに並ぶ人々の行列。

 私は珍しく煩いと思わなかった。

 図書館でもないのに、本がたくさんあるというだけでなんとなく声を潜めてしまう不思議な空間だからだろうか。

 返事をしない香菜に、私は言い切った後で目線を逸らす。

 無責任だったかな、と少しだけ気まずくなった。

 けど、こんな子がうじうじ悩む必要なんてあるだろうか。

 私は彼女に、勇気をあげたかっただけ。

「あ、あ、ありがと。嬉しい……。

 ーーえと、あ……それ、どんな子だったの……?」

 狼狽えた彼女が慌てたように尋ねてきた。

 私も変だったけど、香菜もちょっと変だ。

「どんな子?」

 私は首を傾ける。

「バイエル、弾いてた子」

 香菜は本を少しだけ振って言う。

「あぁ、えっと……ごめん。ピアノが上手だったことしか………。

 あ、そういえば、他のレッスンの子に妬まれてたことがあったかな……」

 昔から、私は人の顔を覚えるのが得意ではない。

 幾人か友達がいたような気がするが、あまり人目を気にしないところがあった私は、人付き合いがよくない。

 だから言ってやったんだ。

 悪口言わずにあの子みたいに練習すれば? って。

 その甲斐あって、今でもどうも集団行動が苦手だ。

 この耳のせいもあるけど、ただ単に社会的な煩わしさが苦手だったのかもしれない。

 香菜はピアノの教本に視線を落とし、

「そっか………」

 と小さく呟く。

 安心したような彼女を見て、私は自分の言葉がどうにか届いたことを知る。

 久々に空気が和らいだ気がして、密かに微笑んだ。




 ■■◇■■




 それからあたし達は二人でよく過ごすようになった。

 あんな所で彼女に出会えるなんて、奇跡としか思えない。

 向こうはあたしのことを覚えてなかったけど、それでも嬉しくてたまらなかった。

 彼女がいなければ、あたしはピアノを続けられなかっただろう。

 心無い言葉に幼い心は酷く傷つけられた。

 仲良しだと思った人たちは、みんなあたしを快く思っていなかったんだ。

 高い自尊心を崩された腹いせに暴言を何度も吐かれ、いつピアノが嫌いになってもおかしくなかった。

 けれど彼女だけは違った。

 彼女は元々あたしなんか見ていなかった。

 耳から入ってくる音という価値を通してしか、世界を認識していない。

 だからあたしのピアノを、綺麗だね、と言ってくれたこと、今でも覚えてる。

 嬉しかった。あたしの音を認めてくれることが、あたしの存在も認めてくれたみたいで。

 あんなに怖い子たちに向かって堂々と自分の言葉を伝えられる、魔法のような力強い彼女の響き。

 勇気をくれて支えてくれた言葉。

 なのに彼女は、突然教室から居なくなってしまった。

 仲良くなる前に、感謝を伝える前に、別れも告げずに。

 晴れない心にどうしようもない痛みが広がり、そのことでよく泣いた。

 今なら、彼女が辞めた理由が分かる。

 彼女は軽度の聴覚過敏だった。

 日常生活に支障はない。ただ、雑踏やざわめき、音の重なりが苦手だと言っていた。

 そんな彼女がグループレッスンなんてできるはずがない。

 大学生になって、節約する為にとルームシェアを申し出てくれた。

 嫌いなはずの線路沿いのマンションを、あたしとなら住めると言ってくれた。

 苦労をかけることも沢山あるけど、あなたと一緒に音楽の勉強ができるなら、こんなに楽しいことはない。

 あなたが困ってる時はあたしが絶対に助けてあげる。進路で迷ってた時みたいに、いくらでもあたしの音であなたを導いてあげる。

 いつか、あたしが今よりもずっと綺麗に、人を感動させられるほどに演奏が上達したら、ピアノを続けられたのはあなたのお陰って、伝えるつもりだ。

 その日までのとっておきのサプライズ。

 いつも真面目な顔してる栞ちゃんの、あっと驚く顔が見てみたいな。

 夕闇に沈んだ冷たい鉄。気付かなかった影。

 浮かれていたあたしの、不注意だった。




 ■■◇■■




 目が覚めたら深夜になっていた。

 冴えない頭でぼーっと窓を見つめる。

 真っ黒で星の見えない空は、私をどこか遠い所へ連れていったみたいだ。

 香菜の弾く音がまだ耳の中に残っている。

 もう聴くことの出来ない美しい旋律が、頭の中に響き渡る。

 そっか、香菜だったのか。

 小さい頃、雑音が苦手だった私に、音楽がこんな綺麗なものだと教えてくれたのは。

 香菜はあの時から私のことを覚えていたんだ。

 授業に飽き飽きして時間を潰していたあのトイレで。

 だから私に道案内を頼んで、ピアノの話しをしてくれた。

 それなのに、私は今頃になってやっと思い出した。

 香菜は私が覚えていなくても、友達になろうとしてくれたのに。

 私を不安から救い出してくれたのに。

 勇気を与えてくれたのに。

 私は何も、返せなかった。

 奏者のいなくなったグランドピアノが静かに佇む。

 溜め込んでいたはずの嗚咽が胸の内から溢れ出た。


 昨日までの日常を思い出した私は、頭の中で鳴る香菜の音楽に包まれて、耳が割れるほどの大声で泣いた。


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