2.死にかけの少年は出会う
少年は、何かの建物の壁に倒れ込む。その際、額を強く打ち付け、ジクジクと痛んだ。
ずずず、と壁にもたれかかったまま体がずり下がっていく。ウチの家の壁を汚すな、とかなんとか言われそうだ。もしかしたら、また蹴られるかもしれない。
だがそれよりも、今は空いた腹だ。もう何日も食べていない。
少年が食用として集めた薬草は、大雨の前に大人たちに盗られてしまった。食べられそうな草がまだ生えていないかと探したが、なかなか見つからない。
雨が降ってからは人々は家の外に出ない。だから、奪うこともできなかった。
2日、3日食べないことなら前もあったが、今回は雨が降っている。雨が少年の体力を奪っていく。
腹が静かだ。昨日あたりまで大きな音がぐうぐうと鳴っていたというのに、今はもうそんな力もない。
死ぬのかな。なんとなくそう思った。
雨粒が顔にかかって痛い。額に水がしみて痛い。額の傷は結構ひどいのかもしれない。
少年は力尽きて、目を閉じた。
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____……………?
額にひんやりとしたものが乗る。
瞼をゆっくりと開くと、目の前に誰かがいた。
「誰だ、てめえ!」
叫んだ声は掠れていた。少年は跳ね起き、額に乗っていたものがぼとりと落ちる。それが何かを確認することもなく、少年は拳を振り回した。
少年の拳は目の前の人物には当たらなかった。その人は右手で受け止めていた。
「だめよ、まだ動いちゃ」
そう言って少年をものすごい力で寝かせた。逆らってはいけないかもしれない、と少年は思った(それほど力が強かった)。
「あなた、3日も眠り続けていたのだから。死んでいるのではないかとヒヤヒヤしたわよ」
額に何かが乗せられる。先程まで乗っていたものと同じものだった。
美しい女性だな、と思った。輝くような金髪に、キラキラと光る瞳を持っている。少年はこんな色合いの人を初めて見た。
自分の体をよく見ると、全身綺麗に洗われ、服も新しいものに変えられていた。女の人に裸を見られたと思うと、少し恥ずかしくなった。
「ここ、どこ」
「エプラ内の私の家よ」
……エプラに、こんな人いただろうか。少年は必死に思い出そうとしたが、ふと自分の腹に手を当てた。
「腹減った」
「そうだろうと思ったわ」
湯気の立ったお椀を差し出される。
「はいどうぞ」
スープを掬ったスプーンを差し出され、口に咥えると温かいものが口内に広がった。もっと食べたいと思うのに、すぐに限界が来た。
彼女はスプーンを置いて少年の頭を撫でる。
「胃が疲れているのよ。言ったでしょう、3日寝込んでいたって」
少年が倒れた直後に助けられたのだとして、それでも6日以上食べていないことになる。
「あなた本当に軽かったもの、普段からそんなに食べられていなかったのでしょう」
女の人にも抱えられるほど軽かったのかと、少年は少し落ち込んだ。
「あのさ」
呼びかけようとして、そういえば名前を知らなかったと気づく。
あ、えと、と口籠る少年に、彼女は察したようだった。
「私はリュミエルというの。あなたは?」
「……え?」
訊き返されるとは思っていなかった。
「あなたの名前は?」
「俺の、名前?」
名前、名前。そういえば、あの母親につけてもらっていない。
「俺、名前ない」
彼女、リュミエルは顎に指を添えて、少し考える。
「なら、あなたのことはルークと呼ぶわ」
だってあなたの髪と瞳、私と同じ金色なのだもの。
少年は、自分の伸ばしっぱなしの髪の毛を掴んだ。その色は、鮮やかな金。ずっと薄汚れていた髪の毛は、金色だったのだ。少年は鏡というものを見たことはないが、リュミエルが言うのなら瞳も金色なのだろう。
「るー、く?」
声が掠れる。
「うん、ルーク」
「るーく」
名前はルーク。初めて、つけてもらった。
少年の胸に、えも言われぬ感情が広がった。
ルーク、ルーク。何度も繰り返して呟く。
「る、り、ゆみえる」
今度は噛んだ。リュミエルって、言いにくい。
「リュミエルよー」
リュミエルもくすくす笑っている。町の女の子たちのくすくすは嫌いなのに、リュミエルのは嫌いではない。
「りゅ、みえる、りゅみえる」
リュミエルは顔を綻ばせ、もう一度ルーク、と呼んだ。
リュミエル、ルーク、リュミエル、ルーク。
少年は知らず知らずのうちに涙を流した。笑ってもいた。
名前なんて、いらないと思っていた。こんなに嬉しいものだったのだ。
優しい大人なんて、いないと思っていた。初めて、優しくしてくれる人に出会った。