一.館に住む姉妹
魔女や黒魔術などといったものが、大半の人間に信じられていた時代。
欧州の然る国に、それはまあそこそこ栄えていた町があった。人通りはあり、行商人や旅行者もそれなりに入って、これといった悪評や噂も立てられる事なく、穏やかで健全な活気で溢返っていた。社交界も形成されており、そこに有名な将軍や爵位を持った貴族なんかが集って、庶民からすれば大した事のある話をさも世間話でもするかのように交わし合うのである。
青空の澄み渡る今日においても、そんな社交界の集いが催されていた。町中の、良い見晴らしのとれる小高い丘の上に建った屋敷にて、社交界の中でも数十人の人間のみで開かれた比較的に小規模の催しであった。その屋敷の一階にある広間にほとんどの人間が集まっていたのだが、そんな中で、近頃の政治や経済状況などの話で盛り上がっていた三人の伯爵の内一人が、「少し外の風にでも当たりに行かないか?」と提案した事により、三人は広間からそっと席を外し、同じく一階にあるテラスに場所を変えていた。場所も変われば気分も変わるようで、三人は先程の話題とはまた別の話を交わし始めた。
「そう言えば、ここからずっと北に行った森の奥にひっそりと館が建っていて、その館には、それはそれは美しい御婦人が住んでいるそうじゃないか」
気風の良い伯爵がそう言う。すると、膨よかな伯爵も今程その話を思い出したとばかりにこう言う。
「ああ、その話か、わしも知っている。確か、姉妹二人で住んでいて、その姉君の方がこの世に二人といないと噂されるほどの美人だそうで? 聞くところによると、どこか高貴な生まれの御婦人だとか」
二人の口にしたこの話を、温厚な伯爵は今まで聞いた事がなかった。
「なんだ、その話は?」
「おや、君は聞いた事がないのか? と言っても、私も噂を聞いた事があるだけで、実際にその御婦人を見た事はないから偉そうに言えないのだが。なんでも、その御婦人を一目でも見れば、一生分の恋心というものを味わえるそうだ。しかし、その見た目とは打って変わって、取る態度はとても冷たいらしく、折角その御婦人に会いに行ったとしても、すぐに追い返されるという事が多々あるそうだ」
気風の良い伯爵に続いて、膨よかな伯爵も説明を始める。
「ああ、美しい薔薇には刺があるとはまさにこの事だ。ほれ、例の、何かにつけて己の勲章を自慢している将軍がおるだろう? あいつだよ、気取った口髭を生やした奴。あの高慢な将軍がその噂を聞いて、是非とも御婦人との婚約を取り決めてやろうと、試しにその館を訪ねた事があるらしい。だが、見事綺麗にあしらわれて、手ぶらでとぼとぼとと帰ってきたという。もし、それが本当だとしたらいい気味だが、あの財産と名誉持ちの将軍でも歯が立たないとなると、御婦人は相当冷めた美人だという事になる。わしも会ってみたいとは思うが、あの高慢な将軍と同じようにあしらわれると考えると、どうもな……」
二人の説明を聞いて、温厚な伯爵はその話に興味を持った。温厚な伯爵は普段、そういった噂話などには少しも興味を示さないのだが、二人の伯爵がその話に出てくる婦人をこれでもかと美化してくるので、それならその婦人が本当に美しいかどうか確かめてみようという気になったのだ。温厚な伯爵は、二人から聞き出させる限りの情報を教えてもらった。その日の社交界の催しが終わると、彼は二人の伯爵とその話の続きをしながら自分の屋敷へと帰った。
それから数日が経って、温厚な伯爵はついにその館を訪ねる算段をつけた。町で店を営業しているある男性が、定期的にその館へ食料を運んでいる事が分かったのだ。すぐさまその男性をうまく買収して、食料を配達する日でもない今日という日に、その館まで連れて行ってもらった。
温厚な伯爵は、男性が配達の際に使っている馬車の中で揺られながら、館に到着するのを待った。馬車を運転する男性が言うのには、町から北へ五マイルほど進んで、そこから目の前に広がっている森の中を大体十六マイルほど進んでいった所に、その館があるそうだ。あまりにも遠くにあるものだから、温厚な伯爵はいつの間にか眠ってしまっていて、男性に起こされる頃にはすでに目的の場所に着いていたのだった。館は逃げも隠れもしないのに、温厚な伯爵は男性に起こされるなり慌てて馬車を飛び降りて、目前に建つ館を視界に捉えた。
それは館というより、背の低い城に近い大きさであった。焦げ茶をした煉瓦造りの外観は随分と古く、壁の至る所には蔦が生え渡っている。どこか廃墟のような雰囲気が漂っており、まるで人など住んでいないように思えてしまうほど古めかしいのに、この館は何があっても絶対に崩壊しないといった確信を抱いてしまうような貫禄を醸していた。
男性は、食料の配達日でもないのに自分がいるのは気まずい、との理由で馬車の中で待つ事にし、温厚な伯爵は一人、館の玄関に立った。彼は妙に緊張して、その場で一度ごくりと喉を鳴らしてから、館の主を呼び出してみた。
すると、少しして、玄関の扉がすっと開いて、その向こうから一人の女性が姿を現した。古ぼけているわりに玄関の扉がちっとも軋まずに開いたので、温厚な伯爵は微妙に薄気味悪さを感じた。だが、目の前に現れた女性の姿を見ると、そんな感じもすぐに消え去っていった。
「どちら様で?」
女性にそう聞かれると、温厚な伯爵は自然とこう答えた。
「私はとある町に住む伯爵なのだが、貴女の姉君はおられるかね?」
温厚な伯爵が、この女性を噂に聞いた姉妹の妹の方だと思ったのには訳があった。目の前の女性は確かに美しく、それこそ神に愛されていると思えるような顔立ちをしていた。だが、それは麗しいというより、なんとなくあどけなさを匂わせるようなものであって、温厚な伯爵に一生分の恋心を抱かせるには後一歩及ばなかったのだ。そのため、彼はこの女性を姉妹の妹の方だと、直感的に悟ったのであった。
女性は可愛らしい溜息を一つ吐いて、
「申し訳御座いません。折角、ここまでご足労頂きましたのに……」
と、言葉を濁した。
「はて、すると、貴女の姉君は今、ご在宅でないと?」
「いいえ、館内には居ますけれど、生憎就寝中でして……」
温厚な伯爵は不思議に思った。思わず、空を見上げて、そこに太陽があるかどうかを確認してしまった。
「就寝中ですか? 今日は時計を持ってきていないのではっきりとは分かりませんが、私の感覚が間違いでなければ、今は正午を過ぎているはず。それなのに、貴女の姉君はまだ寝ていると?」
「はい、お姉様は大変朝に弱くて、昼になっても中々起きてこない人なのです。その上、起き抜けには妙な癖が出てしまう事もあって、とても人前には出せません。どうか、日をお改めになってお越し下さい」
そのまま女性が扉を閉めようとしたので、温厚な伯爵は急いでそれを止めた。
「では、貴女の姉君が起きてこられるまで、私は待ちましょう」
女性はしばし考えるような素振りを見せ、こう口にする。
「……実は今、お姉様は病気を患っていまして、それがまた質の悪い病気らしく、先日医者の方に診てもらったところ、当分は他人との接触は控えるようにと言い付けられました。なんでも、現在のお姉様は病気によってお体が弱っているため、外から来た者が運んでくる他所の空気にでさえ当てられる危険性があるらしいのです」
「なんと、それはお可哀想に。そうと分かれば仕様がない、今日のところは帰るとして、後日改めて、またこちらを伺わせて頂きます」
温厚な伯爵は男性の待つ馬車の前まで引き返し、早々に馬車を出すようにと男性に命じた。
森をゆったりと進む馬車の中で、温厚な伯爵はここまでやって来たのに噂の婦人に会えなかった事を残念に思いながらも、婦人の患っているという病気が早く治らないものかと考えていた。そして何より、今からまた何時間も馬車に揺られなければいけないのだと思うと、むしろこの退屈な時間をどうやって凌ごうかという考えが頭を支配していた。最初は、まだ見ぬ噂の婦人の姿を自分なりに想像していたが、しばらくしてそれは詮無き事だと理解し始めて、結局は居眠りでもするのが一番だという結論に落ち着いたのだった。
この温厚な伯爵が次にあの館を訪れるのは、もっと先の話である。
一.館に住む姉妹
今日の来客は案外すんなりと帰ってくれて助かったわと思いながら、エリスが玄関の扉をしっかりと閉めたところに寝間着姿のままのローザリーが見えた。ローザリーはつい先程起きたばかりであり、未だ微睡みとの間を行き来するように瞼を重たそうにしていた。
「あら、お客様でもいらしていたの?」
エリスは背後からの不意の声掛けにも驚かず、ローザリーの方を振り返った。
「ええ、またいつものです。お姉様はご病気で寝込んでらっしゃるとでも嘘を言って、私が追い返しておきましたから、お気にせずお休み下さい」
「あら、酷い事をするのね?」
ローザリーは心にもない事を言いながら薄く笑って、少しばかり火照っている自分の頬を片手で押さえた。ローザリーはエリスの目をじっと見ていたが、当のエリスはそれをきつく睨み返してからつと目を逸らした。
「どうせ、お姉様も同じような事をして追い返すのでしょう? どちらにしても大差ない事、そんなどうでも良い事より、お姉様、そんな目で私を見ないで下さる? 起きたばかりのお姉様のその妙な癖、私は嫌いなの」
「あら、どうしてかしら?」
ローザリーはゆったりと足を進めてエリスに近づくと、彼女の頬に自分の手を添えた。その薄き胸は切なそうな息遣いを奏でていて、紅くなった瞳で堪らなく愛おしげにエリスを見つながら、彼女の頬を優しく擦った。
エリスの言う妙な癖とは主に今のローザリーの状態を指し、まるで恋をする乙女が抱く興奮にも似た生理現象のようなものであった。この癖は大体五日に一、二回の頻度で起こる。これが一度起こると、ローザリーは熱でも出したように顔を淡く上気させ、その眠たそうな目つきでエリスや自分の召使をじっとりと見つめるのだ。大抵の場合、それには彼女の一方的な肌の触れ合いがともなうのだが、このような彼女の癖にはエリスや召使もほとほと困り果てていた。
エリスは確かな嫌悪と形容し難い動悸を感じていた。その感じはローザリーの妙な癖に絡まれる度に、ほぼ同時に湧き上がってごったに混ぜ返される。エリスはローザリーの手をしっかりと掴み、それをじわりじわりと下ろしていった。
「お姉様のその目とこの手つきが、私にはほとんど別の生き物のように見えるからです。こんな事は、自分の飼い犬にでもやってあげた方が喜びますよ?」
「あら、素っ気ないのね。貴女は私の事が嫌いなのかしら」
ローザリーのその言葉で、エリスは不快感のような心のざわめきを感じた。
エリスはこの、ローザリーの澄ました言動をあまり好んではいなかった。まるでローザリーに心の内を見透かされているよう──事実、ローザリーはエリスの事はなんでも知り尽くしていた──に思えてしまうからだ。しかし、エリスにとってのローザリーとは、華麗で上品でそれでいてどこか気怠げな様子を醸す魅力的な姉であり、その根元からローザリーを嫌っている訳ではなかった。
「お姉様には、私の気持ちはすでに分かっているのでしょう? それより、早くお召し物を替えた方が良くってよ」
エリスの不機嫌な声色を聞いても、ローザリーは一切気にしない。むしろ、そんな彼女の反応にすら愛おしさを感じるように薄く笑って、ゆっくりと小さな溜め息を吐いた。
「可愛い娘ね。でも、照れ隠しなんて子供がする事よ? エリー、もっと素直になってみたらどうかしら」
ほとんど噛み合っていないような会話に、エリスは段々と苛立ちを覚え始めていたが、彼女もローザリーと同じく気品を重んじるように育てられているため、その色が行動に激しく表れる事はなかった。それでも、やはりローザリーとは少し違って、その可愛らしい声色を完璧に保つ事はいまいち苦手であった。
「ほら、お姉様、女中の者が呼んでいますよ。早く行って上げないと、泣くか喚くかをして、逃げられてしまいますよ?」
「そんな事はないわ、あの娘達は私に全てを捧げているもの、私がいないと生きられないの」
ローザリーはくるりと踵を返して食堂へと歩き出す。
優雅に身を翻すローザリーの姿を見ると、エリスは今までの嫌悪感や苛立ちを少しばかり忘れて、半ば彼女に誘われるようにその後を歩き始めた。それから数十歩も歩けば、自分自身でも気がつかない内に、ローザリーに対する反感的な感情がどこかに消え失せていたのだった。
食堂には八人の女中が控えていたのだが、ローザリーとエリスがそこへ入ってくるなり、女中達はそれぞれ違った反応を見せた。八人の内、四人の女中はエリスの姿を見てとると緊張するように肩を震わせ、残りの四人の女中はと言うと、ローザリーの姿を認めるや否や心の底から嬉しそうに表情を和らげるのだった。
食堂の中央にある広々とした食卓に、一つの席には一人分の食事が、その隣の席には一杯の紅茶だけが用意されていた。これは二人の昼食であって、食事と言ってもパンとスープだけの簡素なものである。
ローザリーは食事のある席に座り、エリスは紅茶のある席に座った。食卓の周りに女中達が控える中、ローザリーはスープを一さじすくってはそれを飲み、エリスはゆったりと楽しむように紅茶を一口ずつ口にしていた。そうして、エリスが三口ぐらいの紅茶を飲み終わった時、彼女は赤味に染まった紅茶の表面に落としていた視線を上げて、
「これを淹れたのは誰?」
と、緊張気味に肩を震わせていた四人の女中を見やった。
エリスに声をかけられた瞬間、四人の女中は震わせていた肩をさらに大きく震わせて、その喉ではっきりと分かるほどの固唾を飲んだ。そんな四人の中でも、ある一人の女中は特に怯えていた。冷や汗をかきながら、まばたきをする事さえも忘れて、恐る恐ると一歩前に進み出る。
「は、はい……、私で御座います」
エリスはにやりと笑みを作ってみせて、その女中を睨みつけた。
「そう貴女なのね? それじゃ、貴女はこれを、どういった気持ちで淹れて、私に飲ませようとしたのかしら」
「そ、それは、エリスお嬢様がお喜びになるようにと存じながら、丹念に淹れました。それと、お嬢様がいつも仰っているものを一滴加え、仕上げと致しました」
「そう……」
「お、お口に合いませんでしたか?」
エリスは別段、この紅茶が不味いとか口に合わないとは思っていなかった。確かに、これはとてもじゃないが飲めないといったような紅茶が出される事はあったし、その紅茶を淹れた女中を後で自室に呼び出す事もあった。だが、今回は違った。言ってしまえば、これは単なるエリスの気まぐれであって、女中を苛めてその反応を楽しんでいるだけであった。
「さあ、どうかしら。貴女は、私のこの様子を見て、どう思う?」
「そ、それは……」
その一人の女中はそうとも知らず、ここでどう答えればエリスを満足させられるかを懸命に考えており、この後にくるであろう呼び出しの事を思うと、今にも泣き崩れてしまいたい気持ちで一杯であった。「その、あの……」などといった言葉を吐いては呑み、一秒一秒が過ぎてゆく毎に身を縮めていた。周りの女中達が不憫そうな横目で、その一人の女中を見ている。
ローザリーは手に持った匙を口元から下ろして、こう言う。
「エリー、可哀想でしょう? あの娘だって、貴女のために自分の手首にまで傷をつけているのよ。せめて、私が昼食を楽しんでいる時ぐらいは、そんな意地の悪い事は止めて頂戴」
エリスはローザリーを一瞥してから、視線を手元の紅茶に戻す。
「お姉様、あれは私の所有物でしてよ? それをどう扱おうと私の自由」
「あら、それはどうかしら? この館の主はこの私、館にあるものも全て私のもの、エリー、それは貴女も例外ではなくてよ。つまり、貴女の所有物は私の所有物でもあるの」
エリスは憎しみを込めた目つきでローザリーを見、空いている片手の拳を固く握り締めた。彼女はこの、澄ました顔で余裕を滲み出すローザリーの態度にいくらかの不満を隠し持っていた。
ローザリーは、自分が姉の立場にある事とエリスの事をなんでも知り尽くしている事に大きな優越感を抱いていたのだ。エリスの事はなんでも知り尽くしているのだがら、エリスがローザリーに言葉で反抗する事はあっても、決して勝つような真似は出来ないという事実もすでに知っている。
エリスは最後の一口で紅茶を飲み干して椅子から立ち上がり、ローザリーを忌々しく見下ろした。
「お姉様って、いつも卑怯ですわね」
そう吐き捨てて、エリスは早々に食堂から出て行ってしまった。
さっきから息を呑んで二人の様子を見守っていた四人の女中は慌てて、彼女の後を追っていく。その女中達がローザリーの近くを横切る時、その四人の中で手首に包帯を巻いていた一人の女中がそこで立ち止まって、さっとローザリーに向き直った。
「ローザリーお嬢様、今程はこんな私めのような小間使いを助けて頂き、有難う御座いました」
その女中が綺麗に礼儀正しく礼をすると、ローザリーはスープの僅かに残った皿に匙を置いて、その片手をそっと彼女の頬に添えた。
「気にしないで。それより、その貴女の手首、そんな雑な手当てなんかじゃ傷は良くならないわ。後で私の部屋にいらっしゃい、そうすれば、私がもっと丁寧な手当てをして上げてもいいわ」
あと少しでも気を抜いていれば、ローザリーの甘い囁きを聞いたその女中は、思わず誰の目にも明らかな切ない溜め息を漏らしていたところであった。すぐさまはっと我に返って、ローザリーから一歩後ろに足を引いた。
「お心遣いは誠に有り難いのですが、エリスお嬢様にお叱りを受けますので……」
「それなら大丈夫よ、私がエリーにちゃんと話をつけておくから。それに──」
ローザリーは椅子から少しだけ腰を浮かして、その女中の耳元に口を近付けた。
「そのまま、エリーの部屋に行って叱られるのは嫌でしょう?」
ほとんど息を吹きかけるように、ローザリーは呟いた。それから元のように椅子に座り直して、今の遣り取りなんてなかったかのように昼食の続きを始めるのだった。匙で残りのスープをすくい、それを少しずつ喉へ流し込んでいた。
何故か、その女中は仄かに息苦しそうにしながら肩を上下させ、すっかりローザリーの横顔に目を奪われていたのだった。どこか熱っぽいような顔色になって、たった今長い眠りから目覚めたようなその目は、あたかも愛しい人を見つめる花売りの少女のようであった。
「そこで何をしてるの? 早く行くわよ」
食堂の扉付近で立ち止まっていた女中達が呼ぶと、その女中ははっとして振り返った。
「ほら、早く、でないとエリスお嬢様から罰を受けてしまうわ」
「ごめんなさい、今行くわ」
その女中は名残惜しそうにローザリーの横顔をもう一度だけ見て、扉付近で待つ女中達と共に食堂を後にした。
ローザリーにはすでに分かっていた。あの手首に包帯を巻いた女中が必ずローザリーの部屋を訪ねてくる事を。これはエリスに対するちょっとした悪戯のつもりであった。自分が彼女の使っている女中をこっそり可愛がったという事実を知れば、エリスがまたいつものように不機嫌な様子で自分の所に来てくれるだろうと予想しての事だったのだ。だからと言って、あの女中を完全に利用している訳ではない。あの女中は、ローザリーが前から気になっていた、ちょっと臆病な性格の可愛らしい女性でもあったのだ。