第2話
ーー賢者ジョナの元で修行を開始し、5度目の冬がまもなく訪れようとしていた。
自身の処刑が失敗に終わってから、王都では一体どのような騒動が起きたのか、考えなかった日はない。
夕陽を横目に、遥か南に位置する故郷へ、ついつい視線を向けてしまう。
黄昏に染まる湖がそよ風で波打ち、まるで不安な心を映しているようだった。
「……エリザベス」
呼びかけに対して体を向ける。
凛と佇む師匠がいつになく優しげに微笑んでいる。
「やっと魔力がたまったわ」
その言葉を受け、身体中に電撃が走る。
ついにこの日がきた。
過去に戻り、自分をこの地に追いやった者たちへの復讐を果たす時が。
「あなたがいなくなると寂しくなるわ。でも、あなたの存在が私の記憶から消える寂しさに比べれば、大したことではないわね」
「すみません……」
「あら、ごめんなさい。歳を取ると感傷的になってダメね。あなたを困らすつもりはなかったの」
エリザベスは瞑目し、深々と頭を下げた。
死に直面した自分を救い、魔法の基礎を享受してくれたジョナへの感謝が溢れる。
「師匠……」
両腕が震えた。
この師匠と離れ離れになることは出会った日から決まっていたことだ。
しかし、いざその瞬間が来ると躊躇う自分もいた。
ジョナがエリザベスの体を優しく抱きしめてくる。
「本当につらいのは戦地に1人で向かうあなたなのにね……でも、あなたなら大丈夫よ」
「はい……」
しばしそのまま、黄昏から紺碧の闇が差し掛かるまで、師匠は優しく包み込んでくれた。
「では、過去へと帰りましょう。私との約束忘れてないでね」
「……」
エリザベスは黙って頷く。
「そして、間違っても、新たな時間軸で私に会いにきてはダメよ」
「えッ……それは…」
エリザベスは目を剥いた。
他言しないことは承知していたが、会いに来ることも叶わないとは考えていなかった。
「私の存在はあなたの国にとって不都合なの。もしもあなたが良心から関わろうとしても、アディスの皇族がこの地に来たら、おそらく私は迎撃してしまうわ」
師匠の瞳は悲しげだった。
この地に来て間もない頃、ジョナがアディスの体制側から命を狙われていると教えられたことがある。それを踏まえれば当然と納得するしかなかった。
「いけないわ。名残惜しくて私が躊躇ってはダメね。あなたの生が幸福に満ちることを願うわ」
「はい。師匠もお元気で」
ジョナが頭をひと撫でしてくれた。
まるで我が娘を愛でるようにたっぷりの微笑みを込めて。
ジョナは一息吐いて一歩下がり、杖を構え、呪文を唱えはじめる。
≪時間魔法≫
エリザベスの体を巨大な魔法陣が包み込んだ。
琥珀色の魔力が闇夜を照らす。
段々と景色が揺らめき、湖も、森も、ジョナの姿も朧げとなっていく。
「さようなら、私の最後の弟子……」
最後に彼女がつぶやいた言葉は最後まで聞き取れなかったような気がする。
エリザベスの体を魔法式が包み込み、激しい虚脱感が襲ってくる。
雷鳴のような轟音が耳に痛い。
身体中を業火が暴れ回るような感覚。
……
永遠にも一瞬にも感じる不思議な時間が終わった。
静かな暗い海を独り漂っているような感覚。
音も光もない世界だった。
次第に五感が戻ってくる。
柔らかな布に包まれ、横たわっているような感覚。
エリザベスは重く感じる瞼をゆっくりと開いた。
よく見た懐かしき天井。王宮の自室のベッドに横たわっていた。
ガバッと体を起こし、両手で肌を触る。皺の刻まれていない肌だ。
ゆっくりと寝台から降りようとしたら、足が短く床まで届かなかった。
飛び降りるようにベッドから出る。
不安な気持ちで鏡を覗くと、幼少期の自分が写っていた。
「……戻ってきたのね」
師匠の魔法は成功したようだ。
しかし、不安に襲われる。
メイドや庭師は無事だろうかと。
エリザベスはパジャマのまま扉を開けた。
「マリア、マリアはどこ?」
死刑台の正面で虚な目をした彼女の顔が鮮明によぎる。
「どうされました」
メイドのマリアが慌てて駆け寄ってきた。
エリザベスは歓喜のあまり抱きついた。
「よかった生きてて……」
ボロボロと涙が溢れる。マリアは怪訝な表情で戸惑っていた。
「怖い夢でも見たのですか?」
「夢じゃないわよね」
「はい、そうですね。生きてますよ」
マリアの笑顔を見て安心感に包まれた。
冷静になれば当たり前ではあるが、時間ごと戻ったのだから、生きている。
それでも確認せずにはいられなかった。
エリザベスのために王政に対して異議を申し立てた彼女にギュッとしがみつく。
「まったく、エリザベス様いつまでそうしているつもりですか。もうすぐ魔法教育が始まるのですから、着替えないと」
「え?」
マリアの言葉ではっとした。
戻ってきた時代がいつの頃か不明だったが、はっきりと認識することができた。
魔法教育は6歳となると開始する。
つまり今の自分の年齢は6歳の誕生日直後だということだろう。
師匠の元で1年修行を積んだ。その時間に加え、事件まであと9年ある。
10年の修行を積むという条件をしっかりと達成できる状態であった。
「さすが師匠ね」
「え?何のことですか?」
「なんでもない。着替えるから手伝ってもらえるかしら」
……
その日の午後、初の魔法授業が行われた。
以前の自分は一切の魔法を発動することができなかった。責任を取らされた教師は次々と解雇となる。いつまでも経っても変わらないことから、次第に「無能者」という言葉が襲いかかってくるようになった。
自分だけならともかく、その影響で母まで冷遇されてしまった。
当時は自由時間が増えたと気軽に考えようとしたが、大切な人に、あのような惨めな思いをさせるわけにはいかない。
それを避ける手段は単純だ。魔法を発現させればいいのである。
扉をノックする音とともに鼻髭の魔法使いが入室してきた。
簡単な自己紹介と授業計画を解説する。
初級魔法のテキストを何冊か机に広げ、魔法の扱い方を説明し始めた。
「……では、早速基礎魔法の炎弾を発動させてみましょう」
教師がコホンと咳をし、テキストに書かれたことをやってみろと指示してくる。
(今思えばひどい授業ね)
すでに賢者ジョナから魔法の基礎を学んだエリザベスはため息を漏らした。
教え方も順序も丁寧さがない。魔法と魔術の違いも、魔法の属性も知らない生徒に対して、いきなり炎属性の魔法を使えという指示など愚の骨頂。
以前の自分では気づかなかったが、明らかに面倒な仕事をさっさと終えたいという意思が見え隠れする。
「どうしましたか?」
一切動かないことに待ちくたびれた教師が催促するように質問してくる。
エリザベスはため息をつきたい気持ちをグッと堪えて魔力を込めた。
手のひらに紅色の球体が現れ、僅かにチリチリという音が鳴る。
「これは驚きました……」
初回の発現で成功させたことに教師が驚いている。
成功したら目を剥くような指示をしたのかと、呆れるばかりであった。
「あなたがやれと言ったのでしょう」
たまらず愚痴をこぼしてしまう。
本来であれば“先生“と呼ばなくてはいけない関係だが、師匠であるジョナ以外の魔法使いを師と仰ぐことに抵抗感があった。教え方の雑さもあり、嫌味たっぷりに呼びつける。
「これは失礼しました……さすが“精霊のカケラ“を宿す皇女様ですね」
それからは態度をあらためて授業が再開した。
だが、すでに魔法の基礎を偉大なる賢者に叩き込まれたエリザベスにとって、その時間は退屈そのものであった。