殿部夫妻の夜
「おい、聞いたか? 聖坊の話」
「いいえ、何も。何かあったの?」
殿部夫妻はリビングで就寝前のゆったりとした時間を過ごしていた。
先にお眠の時間が訪れた子供達を寝かしつけ、コーヒー片手に夫婦で情報共有するのが、殿部夫妻の夜の過ごし方である。
「なんでも、強について行って、仕事を手伝ったらしいぞ」
今日も子供達の面倒を見てくれた、聖というしっかり者の男の子。
裕子は彼の成長を幼い頃から見守ってきたが、未だに驚かされてばかりいる。
「お手伝い……見学じゃなくて?」
「強はそういうところ細かいからな。お手伝いってことは、聖坊が何か手伝ったってことだ」
自分の娘と同い歳だとは思えないほど言動が大人びていて、陰陽術の勉強にも高い意欲を見せているという聖。
籾経由で順調すぎる進展をちょくちょく聞いていたが、さすがの裕子も今回の成長には耳を疑った。
小学校入学前から陰陽師の手伝いをするなど、滅多に聞く話ではない。
彼女はふと、「男子三日会わざれば刮目せよ」という慣用句を思い出した。
(聖ちゃんの成長に気付けなかったのは、ほとんど毎日顔を合わせてるから、かねぇ?)
なんて、冗談めいた結論に行き着く。
そうでもしないと、毎度驚かされる聖の成長に理性が追い付かないのだ。
「強から紹介された仕事が、ちょうどその案件だったらしくてな。『加奈ちゃんはお手伝いに来ないんですか』って聞かれちまったよ」
「あぁ、このあいだ強さんが持ってきた庄司さんとこの?」
「そうそう、それ」
聖との繋がりが切っ掛けとなり、母親3人はよく話をする仲である。
これまで真守君ママには家業について黙っていたが、今回の騒動で峡部家と殿部家が陰陽師であることがバレた。
聖がお手伝いに来たから、同じ陰陽師の娘である加奈もお手伝いに来るのではないか、と予想するのは自然な流れだ。
「加奈ちゃんはまだまだ無理ね」
「あぁ、同年代と比べたらうちのお姫様の方が優秀なんだが……聖坊は天才だからな。比べる方がどうかしてる」
聖に影響されたのか、加奈の陰陽術に対する学習意欲は高い。
彼女の中で、陰陽術の練習をするのは当たり前、という認識が出来ているようである。
意欲的に取り組む可愛い娘に対し、籾は嬉しそうに指導を行っていた。
この調子で長男の要にも指導できれば、殿部家の秘術伝承も順調に進むであろう。
聖の存在は、殿部家に多大な影響を与えていた。
初仕事を話題に出した籾は自然、自分の時がどうだったか振り返る。
「俺が初めて親父の仕事について行ったのは、たしか中学入ってすぐの頃だったか……。準備に3日かけたのに、親父にダメ出しされまくったのを覚えてる」
懐かしき思い出にひたる籾の目には、かつて生きていた頃の父親の姿が映っていた。
あの頃の父親はどんな思いで自分に指導を行っていたのか、今では確認することも出来ない。
もしも、もう一度会えたとしたら、子育て話を肴に美味い酒が飲めそうである。
懐かしい思い出に蓋をし、籾はコーヒーを一口飲んで続ける。
「しかも、現場行ったらものすごく臭くってよぉ。鼻がもげるかと思ったぜ」
陰陽師にとって大切な霊感には個人差がある。
籾は嗅覚に特化しており、離れた場所にいる妖怪でも嗅ぎ分けることができる。
今でこそ慣れたものの、初めて真正面から嗅いだ妖怪の臭いは強く印象に残っていた。
「そうだったの……」
……実はこの話、裕子は既に聞いたことがある。
同じ思い出話をしてしまうなんて、長く連れ添った夫婦にはよくあること。
裕子は籾の話を聞きながら、あの時自分の体験談は語っていなかったなと思い出していた。
「お前はどうだったんだ?」
「私は初めての仕事より、見学の時の方が印象に残ってる」
陰陽師の家系に生まれた裕子は、当時にしては先進的な思想の下、女性でありながら一通りの陰陽術を教わっていた。
当然実戦経験もあり、陰陽師業界の事情や陰陽師の子育て事情にも精通している。
「脅威度2の、本当に何もできないような妖怪だったけど、初めての気持ち悪い感覚に鳥肌が止まらなかった」
だからこそ、当時の自分が如何に未熟だったかが分かる。
裕子は籾より霊感が弱いものの、肌感覚で妖怪を感知することができる。
妖怪が近くにいるほど肌が粟立つため、背後からの不意打ちにも強い。
運よく小学生まで妖怪と出会わなかった彼女は、そのゾワゾワっとする感覚に恐怖を覚えたようだ。
思い出話を語り終えた2人。
子を持つ親らしく、話題は自然と子育てへと移った。
「加奈ちゃんの霊感は私に似たから、見学の時は私が連れて行こうと思うんだけど」
「いやいや、小学校に入ったら父親の仕事調べの授業があるだろ? その時に俺が連れてってやるよ」
……リビングを沈黙が支配した。
2人はコーヒーカップを片手に顔を見合わせる。
お互いの目が『一切譲る気はない』と物語っている。
「あなたには要ちゃんの指導があるでしょう? 娘は私に譲ってよ」
「いやいや、お姫様をエスコートするのは父親の役目だろ」
「いつまで娘のことをお姫様呼びするつもり? もう小学生になるんだし、いい加減やめたら?」
「俺にとってはいつまでも可愛いお姫様なんだ!」
と言い切りつつも、最近娘からの反応がよろしくないことに彼は気がついていた。
幼稚園という社会に出たことで、自分が絵本の中のお姫様じゃないと理解した加奈ちゃんからすると、嬉しさより恥ずかしいという感情が勝るようになったのだ。
「お前はここ数年専業主婦してただろ。ブランクがあるんだから――」
「陰陽術の指導は全部あなたに任せてるんだから、見学くらい私に――」
結局、2人の議論に決着がつくことはなかった。
仕事見学に行くのはまだ数年先ということで、ひとまず保留となった。
「もうこんな時間か。先に寝る」
「はーい。私はドラマ見てから」
テレビから響く韓国語を聞きながら、籾はリビングを後にする。
寝室が近づくにつれて、彼は足音が鳴らないよう慎重に歩みを進める。襖をそっと開くと、そこにはスヤスヤ眠る子供たちの姿があった。
子供たちの眠りを妨げないよう、彼は大きな身体を静かに横たえる。
涅槃の体勢となった籾が子供たちの寝顔を覗き込んでいると、思わず心の声が漏れた。
「大きくなったなぁ」
ほんの少し前まで小さな赤ん坊だったのに、今では2人とも元気に走り回っている。
特に加奈は、優也と要のお姉さんとして内面も成長していた。
年下の面倒を見ようとする娘の姿は、父親の胸を強く打つ、感動ものの光景であった。
『見て見て! かな小学生になるの!』
今日の昼、ランドセルを背負って嬉しそうに見せてくる娘の姿に、喜びと涙が溢れ出した。
『やっぱり小学校行きたくない……』
寝る前、環境の変化に不安を見せた娘にお前なら大丈夫だと励ましの声をかけた。
明日にはきっと、立派な小学生になっていることだろう。
「そうか……もう小学生か……」
たった1日の間に大きく成長する娘に、籾は感懐を抱いた。
加奈の隣で寝ている要も、来年には幼稚園だ。
ぼちぼち陰陽術の指導を始めるべきだろう。
殿部家の嫡男として秘術を習得し、いずれ自分の跡を継ぐのだから。
独り立ちする子供たちの姿を想像し、思わず目頭が熱くなってきた籾は、そのまま目を瞑って夢の中に逃避するのだった。
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籾は要の教育計画を立てる上で、無意識のうちに聖を参考にしていた。
同じ長男として、立派な陰陽師になってほしいという願望の表れである。
しかし、普通の3歳児がおんみょーじチャンネルを集中して見られるはずもない。
遊び盛りの男の子を教育する大変さに気がつくのは、指導を始めてすぐのことであった。
「やっぱ聖坊は天才だった」
「? ……褒めても何も出ないよ」