天罰
誘拐を命じた男は、眠れぬ夜を過ごしていた。
「ゲホッ ゲホッ うぅぅぅ」
痰が絡み、ひどい咳が続く。
眠るために横になったものの、あまりの咳の酷さにいつまでたっても眠れない。
薬を飲んだところで、なかなか効き目は現れない。
「ヤブ医者め」
病ではなく、身体機能の低下が限界を迎えただけのこと。
ただの老衰である。
しかし、錦戸金は認められなかった。
それを認めたが最後、死に飲み込まれてしまいそうな気がして。
「ゲホッ ゲホッ おおぉぉぉぇっ」
痰壷に吐き出してようやく落ち着いてきた。
彼は側近に水を持ってさせようとして、ようやく異変に気がつく。
(やけに静かだな)
彼はそれほど戦闘に長けた人物ではない。
現場経験は多少あれど、錦戸家の当主として経営業務に専念していた。
そんな男でも気づくほどの静けさである。
「おい、司、どこにいる」
側近の名を呼べども、返事が来ない。
それは異常事態が起こっている何よりの証拠だった。
──♪
そんな静寂の中、鈴の音が鳴る。
部屋の中にあるはずのない、鈴の音色。
清涼な音は部屋の中を満たし、錦戸金の背筋を凍りつかせる。
「何者だ?」
彼が最初に思い浮かべたのは、暗殺者である。
自分が差し向けたからこそ、自分にも差し向けられる可能性を最初に疑った。
「キュイー」
──♪
「どこにいる?!」
緩慢な動きで部屋を見渡すも、暗殺者の姿はどこにも見つからない。
「まさか、峡部家の差金か? いくらで雇われた? その倍を出そう」
──♪?
「キュイー」
謎の暗殺者はおかしな音を立てるばかりで、返事をしない。
その代わり、音は先ほどよりも近づいた。
錦戸 金は声を荒げて言う。
「私を殺せば、錦戸家が必ず報復する。ただでは済まんぞ! はぁ はぁ」
──♪
「キュイーキュイー」
──♪
──♪
錦戸 金は節々の痛みを忘れ、音の出所を探して周囲を見渡す。
しかし、部屋中にこだまする音は場所を特定させない。
警戒すべき範囲が広すぎる。彼は寝室の中央にベッドを配置した使用人を恨んだ。
──♪
──♪
──♪
──♪♪
──♪♪
──♪♪
──♪♪
──♪♪♪
──♪♪♪
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──♪♪♪♪♪
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──♪
「はっ」
錦戸金は左を見た。
耳元で聞こえた特大の鈴の音が、反射的にそうさせた。
しかし、そこには何もない。
ただ足元を照らす柔らかな照明があるのみ。
小さな安堵と共に大きな不安が彼を襲う。
左にいないなら、暗殺者は一体どこにいる?
彼は、ゆっくりと右を向く。
──♪
そこにいたのは、死神だった。
錦戸金の最も恐れている存在が、すぐそばに佇んでいた。
「……………」
来るな、助けてくれ、まだ死にたくない。そんな言葉が心の中を駆け巡り、処理しきれずに口をパクパクさせている。
逃げるべき場面なのに、体は十全に動いてくれない。
たとえ動いたとしても、もう遅い。死神の鎌は既に首にかかっているのだから。
そんな状況で、死神が顔を寄せてくる。
「キュイー」
死神の頭の上には、なぜかモルモットがいた。
それは眼前まで迫ってきて、何かを喰む動作を始める。
死神に生死を握られている錦戸金は、その光景を眺めることしかできない。
カリカリカリカリカリ
「た、助けてくれ……」
こんな状況でも、若い頃の彼ならば何か打開策を思いついただろう。
しかし、衰えた脳は何の解決策も提示しない。
むしろ、焦りに焦って頭の回転が鈍っていく。
否、まともな思考さえできなくなっていく。
カリカリカリカリ
「あら? ここは、どこた?」
先ほどまで残っていた理性的な目の輝きが、どんどん失われてゆく。
これまでの人生で刻まれてきた険しい顔立ちが、柔和なものになっていく。
それは、錦戸 金が死よりも恐れていたことである。
カリカリカリカリカリカリ
「なにを、かんがえていたっけ? あなたはどちらさんで?」
目の前の死すら認識できなくなり、死神すらどういった存在か分からなくなる。
数十年にわたる経験や思い出が、ボロボロと崩れ落ちてゆく。
正確に言うならば、喰らい尽くされてゆく。
「キュイー」
──♪
このくらいにするか?
もう少し行っちゃおう。
そんなやりとりが、金の耳に聞こえた気がした。
そんな記憶さえも、数瞬後には奪われてゆく。
カリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリカリ
「あ、あぁぁ、あえぇぇえ」
錦戸 金は、いつしか自分が何者かすら分からなくなっていた。
そして、そのことに疑問を抱くことすらできない。
まともな言葉の発し方も失い、呻くことしかできない。
「あぁ……あぁ……」
「キュイー」
このくらいにしておいてやる。
聖がいれば、そんな意図が伝わっただろう。
「……………」
虚な眼差しでベッドに寝そべる老人を背に、死神たちは家に帰る。
大切なパートナーの平穏を脅かした罪人を裁いて。
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嫌な予感を覚えた側近は、深夜に最奥の間へ向かった。
主人の寝室の前に立つと、不審な声が聞こえてくる。
「大旦那様? 大旦那様? 入ります」
側近が部屋に入ると、そこには抜け殻となった主人がいた。
「あぁぁ……あぇぇぇああ……あぎゃあああ……」
赤子のように不快を表すことしかできない、むしろ赤子よりも物を知らない状態である。
それは、主人が最も恐れていた姿であった。
「大旦那様……」
とうとう天罰が下ったのだと、側近は主人の傍で立ち尽くすのだった。