8.7の女
「私も何かお手伝いできる?」
「それじゃあ、このテーブル片付けて」
開いた場所に陣を描いた巨大な和紙を広げる。
祭具を並べて部屋の照明を切れば、蝋燭の灯に照らされた怪しい空間に早変わりだ。
「なんだか本格的ね」
「お父さんにちゃんと教わったから」
焚いているお香はこのあいだ術具店で購入したもの。美月さんの言う通りプロ仕様だ。
家で使っている練習用の道具とは違う。
そして俺も、そういう印象を抱かせるように場を整えている。
相手にお祓いのご利益を信じさせることで、効果が高まるのだ。プラシーボ効果と断ずるには、飛躍的に効果が上がるので、また違う理由だと思われる。
「それじゃあ、ここに座って。そうそう。それから、まずはこれを咥えて」
俺は陰陽均衡測定器に使う札、その人間用バージョンを差し出した。
包装紙から細長い札を取り出し、美月さんが一端を口に咥える。
「まだ?」
「まだ」
きっちり10分咥えたところで、陰陽均衡測定器に札をセットし、さらに5分。色を確認して……うわぁ。
色の見本は1~10に分かれており、1なら陽、5~6なら平衡、10なら陰に傾いていることを表す。
今回は8、いや、8.7くらいか。かなり陰気側に傾いている。
美月さんの状態は分かった。これは長期戦になりそうだ。
「じゃあ、お祓い始めるね」
俺は美月さんの正面に立ち、御幣を構えた。
心を鎮め、雑念を払う。
寝室は静寂に包まれ、厳かな空気が漂いだした。
まずは峡部家が信仰する神様へご挨拶。ちょっとでもご利益があったらラッキー。
「智夫雄張之冨合様におかれましては――」
我が家で開発された祓詞を唱え、リズムよく御幣を振りながら、美月さんの周りをゆっくり歩く。
陰陽師のお祓いは神の力を借りるわけではなく、御守りに使う陣の改良版を利用する。
陰気を浄化する陣により、美月さんの運気を平衡へ戻すのだ。
ただし、元が御守り用の陣なので、効果は微々たるもの。
定期的にお祓いし、少しずつ改善させる計画である。
どれくらい時間がかかるかは、美月さんの異常な不運がいつまで続くかによって変わる。
「――悪しき力を断ち、陽なる風を――」
俺が背後に回り込むと、美月さんは目で追いかけてきた。
その動作は無意識のうちに行っているようで、子供であろうと関係なく、根本的に人を警戒しているのが察せられる。
まだまだ心を開くには遠そうだ。
「終わり!」
「終わったの? ありがとうね」
美月さんはどこか安心したような表情を浮かべる。
お祓いは滞りなく終わった。
ただ、心を開いてくれなかったので、効果は薄いだろう。
今後定期的にこういうことをしますよ、と認知してもらったことで、今回は良しとするか。
その後は部屋の中の陰気を計測し、リビングや他の部屋でも同じことを繰り返してみたが、異常値は出なかった。
この家には妖怪がいない。とすると、別の所に元凶が潜んでいるということになる。
「おてつだい終わり。美月お姉さん、またね」
「ええ、今日はありがとう。またね」
美月さんは寝室から出ることなく、俺は母親にバトンタッチされた。
この寝室が、彼女にとっての聖域なのだろう。
いつか玄関までお見送りしたいと思わせられたら、俺の勝ちかな。
「どうだった? 娘は良くなりそう?」
玄関までの短い廊下で母親が尋ねてくる。
自分の娘の容態が気にならないはずがない。
俺は素人にも分かりやすいよう言葉を選んで答えた。
「心と体が極めて弱りやすい状態にありますが、安静にしていれば問題ありません。しばらくは家で大人しくしていた方が良いでしょう。人生における大きな決断もしてはいけません。極力お母様が寄り添って、美月さんが1人にならないようにしてください。お祓いは年単位で定期的に行うことになります。費用は掛かってしまいますが、社会復帰を目指すのであれば継続することをお勧めします」
「あ……はい。お任せします」
俺の人生の中で、患者の親と主治医のようなやり取りをすることになるとは、思いもしなかったなぁ。
使い終わった道具類を手に、俺は藤原家を後にする。
当然ながら、玄関先では親父が待っていた。
「疲れてないか?」
「全然」
「計測結果は?」
帰路に着きつつ、俺は美月さんの状態を報告する。
電話越しに会話は聞かれていたけれど、依頼人の前で悪い数値を口にすることはできない。
一通り報告したところで、親父は頷いた。
俺の仕事に満足してもらえたようだ。
そして、しばし無言で道を歩いていると、不意に親父が労いの言葉をかけてくる。
「演技するのは大変だろう」
美月さんへの対応について……か。
俺、親父にどう思われてるんだろう。
今更ながら気になってきた。
「問題ないよ。周りにいる子たちを真似してるだけだから」
「そうか……普通の子は、そうだな」
何やら親父は考え込んでいる様子。
普通じゃない子供を持つと大変だな。
俺が言えたことじゃないけど。
「お父さん、次の地下鉄来ちゃうよ」
「ああ」
いくら考えても無駄なことで悩んでほしくない。
さっさと家に帰って、お母様の夕食を堪能しよう。