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自殺すると無間地獄に落とされるっていうあれ、限り無くのほうの無限だとずっと思ってた。

作者: ずっとサイテー

7月下旬、某日。時刻は深夜1時半を回っている。


梅雨明け間もない夜半の熱気に顔を歪めつつ、夕間の俄か雨が湿らせたアスファルトのにおいに小さく鼻を鳴らす。


夏は苦手だ。けれどこの時期、雨上がりの地面がかもす独特のにおいは嫌いではない。


アパートから歩いて20分の旧商店街。の、はずれに、小学生の時分から「やくざビル」というダイレクトすぎる呼び名で通っている廃ビルがある。

私は、その廃ビルの前にたたずんでいた。


かつてこの界隈の反社団体がテナントであったという4階建ての建造物は、田舎の低い街並みからは浮きそうなものだが、不思議と遠目には高さを感じさせない。

ところが地形による錯覚か、それとも先のイメージがそうさせるのか。真下に立ってみると意外にも圧があり、そのギャップから思わず上階を見上げてしまう。


「落ちたら、死ねるんだろうな」


私は視線を屋上にずらし、あえてはっきりと口に出した。


深い意味はない。水族館の水槽を前に「おいしそうだね」とおどける類の不謹慎なたわごとだ。それがただ、何となく頭に浮かんでしまったにすぎない。

死ぬ理由など、私にはない。

ないのだが――。



来た。


通りの向こう側から、こちらへ歩いてくる人影が見える。


切れかかった街灯が覚束なげに照らし出すそれが女性のものであると、この距離からではまだわからない。だが、私は知っているのだ。


彼女がこちらに気付くまで、およそ20秒。気持ちが浮き立つ。私は、彼女との前回の出会いを反芻した。





女性の名は「サキ」という。


「その時も」この時刻に、この廃ビルの真下で初めて出会ったのだ。


サキはとても美しい女性だ。というより、およそビジュアルという括りにおいて自覚・無自覚を問わず私が好むあらゆる要素を、陶芸の大家が万にひとつ焼き上げた傑作がごとく、奇跡的とも思えるバランスで備えていた。つまるところ、どストライクだった。


けれど、いわゆる「一目惚れ」かというと、正確には少し違う。


最初に彼女を目にしたとき、私は数秒呆けた。そして我に返ったのち、全力でその場を立ち去らんとしたのだから。


時間が時間なら場所も場所だ。そんなときに現実離れした美女の出現など、もはや魑魅魍魎の類と相場は決まっているのだ。


…足が竦み、一歩たりとて踏み出すことかなわなかったわけだが。


サキは、どうやら生身の人間だった。


彼女は怪しさ全開であろう私を見るだに、意外にも歩を早めこちらへ向かってきた(このとき私の恐怖はピークを迎えんとしたが、間近に迫りくる彼女の相貌に見蕩れ、このまま食い殺されるのも悪くないか、などと本気で考えつつもあった)。と、思えば俄かに泣きだし、「ぬう゛」と珍妙な声を発したのち、へろへろとその場に崩れ落ちたのだった。


私はサキをビルの非常階段に座らせ、話を聞いてやった。


恋人に手酷く振られ、ひとりやけ酒をあおっていたが、店も閉まり、金もなく、帰るべき寝床は同棲していた元恋人の部屋。戻れる筈もなく、いっそ人気のない道を選んでは当て所なく彷徨っていたのだという。


泥酔状態の彼女が発する言葉はほとんどが意味不明で、名前を聞き出すことすら難儀したが、大体そのようなことを言っていた。


よくある話といえばそうだが…。一応同情はしつつも、自己破滅的な行動や自衛意識の足りなさは目に余る。酒が抜けたらひとこと言ってやろうとも思ったが、同時刻にこんな場所をぶらついている私も同じ穴のムジナだ。あれこれ言える立場ではない。


こんな場所?


私は、自分がなぜその廃ビルに足を運んだのか、全く心当たりがないことに気付いた。「いつの間にかそこにいた」かのような気がするし、それ以前の行動を思い出そうとすると、頭に靄のようなものがかかり邪魔をする。唯一思い出すのは、夕間の俄か雨――。


なんだ、これ――。


回りかけた私の思考は、サキの盛大な嘔吐によって中断された。





胃液まみれのサキを何とか連れ帰り介抱した私は、そのままうちに住まないかと提案し、彼女もそれに同意した。互いに会ったばかりの人間が、なんとも無警戒極まりない話なのだが、結果的に彼女との生活は私にとって心地よいものだった。


性格や服の趣味、食べ物の好み、好きな映画の話など、挙げればきりがない程、とにかくあらゆる事柄において私とサキの意見は一致した。酒好きもそのひとつだが、吐くほど酔った彼女を見たのはあのときが最初で最後だ。


サキは一緒にいてよく笑った。私が遊園地の観覧車にさえ怖くて乗れないと白状したときなど、たじろぐほど大きな両目を糸のようにして笑い転げていた。私はとりわけ、コロコロと表情を変える彼女の山猫のような目が好きだった。


彼女のほうも、私のことを意識してくれていたようだ。どちらから、ということもなく、私たちの間にそういう雰囲気が出来るまでに時間はかからなかった。

が、問題はそこで発生した。


考えてみれば違和感を覚えるべきだったのだ。なりゆきとはいえサキのような女性とひとつ屋根の下。実際に行動に起こすかどうかはともかく、「そういった感情を持つ」こと自体がないというのは、明らかにおかしい。


私は彼女に好意を抱いていたにも関わらず、一切欲情することがなかった。無理を押して行為に及ぼうすると、猛烈な吐き気に襲われる。それでもサキはしきりに求めてきたが、ついぞ私がこたえられることはなかった。


私はサキの欲求を満たせなかったばかりか、温厚な彼女のプライドをいかほど傷つけたのだろう。あるとき仕事から帰ると彼女の姿も、持ち物もなく、そのまま戻ってくることはなかった。


私はサキの行方をあの手この手で探ったが、結局何ひとつ情報を得られなかった。彼女があの山猫のような目で笑いかけてくれることはもうないのだということを漠然と受け止め始めたとき、ようやく一粒だけ涙をこぼした。その日私は、セブンプレミアムの甲類焼酎を空きっ腹に半パックほど流し込み、気付けばぐしゃぐしゃに泣き腫らした顔を枕にうずめ、泥のように眠ったのだ。


そして目を開けたとき、私は、件の廃ビルの前に立っていた。




アスファルトの、雨のにおい。


ああ、タイムリープというやつかな。


スマートフォンをひらいた。やはり、サキと出会ったあの日だ。時刻は深夜1時半を示していた。


日付を確認する前から、直感していた。もっとも、まともな人間ならばそれを確認したところで納得できるというものでもないだろうから、その時点で私も大概おかしいのだろうが。

だってほら。服装も、先週切り揃えた筈の前髪だって、あのときのままだ。

ここで以前感じた記憶の混濁も、理屈はわからぬが、おそらくこの現象に由来するのだろう。


この擦りに擦られた、もといその道では王道の展開を、正直何度夢想したことか。

それゆえ、いざそれが(おそらく)現実となっている状況に対し、ほかのあらゆる感情を差し置いて、妙な気恥ずかしさが勝ってしまったのだ。


結果私は、自分でも驚くほど冷静に現状を受け入れ――。


今にいたる。


私はこの後の展開を頭の中に思い描いた。通りの向こうから、きっとサキは現れる。今回の彼女はまだ私のことを知らないだろうが、それでも、ひとこと謝りたいと思った。



前方に人影。


切れかけた街灯が、それを覚束なげに照らした。


サキではない。その瞬間私は、なぜだか忘れていたその女性の名を唐突に思い出し、呟いた。


「ミサキ…?」


彼女は山猫のような目を細め、穏やかに笑った。世界が、まるごとひっくり返った。





私は再び目を覚ました。眼前には梅雨明けの星空が広がり、視界の端に「やくざビル」の屋上が見える。気付けば私は、ビルの前で大の字に横たわっていた。ふと感じたむずがゆさに頬をこすると、湿ったものに触れた。泣いていたらしい。


すべて思い出した。


美咲のこと。


今夜私が、死ぬつもりでこのビルから飛び降りたこと。


美咲とは、大学のサークルで知り合った。恋人に振られたとかで、やけ酒をあおり酔いつぶれた彼女を介抱したのがきっかけでよく話すようになった。見た目もタイプであったし、性格や趣味も一致し、一緒にいて心地がよかった。何より私は、よく笑う彼女の山猫のような目が好きだった。


思えば、告白など思い切ったことをしたものだ。彼女が私を受け入れてくれたとき、どんなに嬉しかったことか。その僥倖を、私は自らどぶに棄てたのだ。


厳格な両親は、私と彼女の関係を知るや猛反発した。私が抵抗すると、父は折檻と称して暴力をふるい、母はそれを止めることもせず、育て方を間違えたと泣くのである。


心身を消耗した私は、次第に自分が間違っているのだと考えるようになり、ある日心配してくれた美咲に、思いつく限りの心無い言葉を浴びせた。本当は、すべて自分自身に向けた言葉だった。


美咲は黙って俯いていたが、しばらくして顔を上げ、山猫のような目を少しだけ細めて微笑むと、ひとこと「ごめんね」と言い私の前から立ち去った。

俄か雨の、夕間のことだった。


美咲が自殺を図ったのは、その二日後のことだ。


大量の睡眠薬を摂取して。


一命こそとりとめたが、昏睡状態に陥った彼女は、2年経った今も目を覚まさない。


美咲が自死という選択をした本当の理由はわからないが、彼女も私と同じ悩みに苦しんでいたであろうことは、今なら察するに難くない。だとすれば、彼女は私の言葉に追い詰められた。私が、彼女を。


だから私は――。


「死んで…ない…?」


頭から真っ逆さまに落ちたつもりだった。確実に死ねる高さだ。それどころか骨折のひとつもしていないなど、ありえる筈がない。


「目を覚ました?」


頭上に響いた声にびくりと肩をすくめ、おもむろに首をひねる。


「サキ…?」


サキがそこにいた。


今更気付いたことだが、サキの相貌は美咲によく似ていた。ひとつひとつのパーツや全体的なバランスはサキのほうがより洗練されているが、仮に双子の姉妹といわれれば信じこそすれ疑うことはないだろう。美咲はひとりっこだった筈。いや、そんなことより。なぜ自分は無傷なのか。夢を見ていたのか。なぜ美咲のことを忘れてしまっていたのか。サキ。お前は何者なんだ。


様々な疑問が堰を切ったように湧いてくる中、再びサキが口を開いた。


「サキ、というのは、君に名乗った名前だね。君たちの間で通りのよい名称だと、サキュバスといえばわかってもらえるだろうか。率直に言うと、君の精を狙っていた」


「君、死ぬところだっただろ。死の間際、種の生存本能とやらが急激にはたらくことで、最も良質な精が生まれるんだ。優秀なサキュバスは、それを敏感に察知する」


サキュバス…。


美しい女性の姿をした西洋の魔物だ。男性に淫らな夢を見せ、その精を吸い取るという。


サキこと、サキュバスを自称する目の前の女のいうことをまるっと信じるならば、話はこうだ。


これまでの出来事は、ビルから飛び降りた私が地面に到達するまでの刹那に彼女が見せた夢。しかし私が一向に誘いにのらないことに痺れを切らした彼女は、精の収穫を早々に諦めた。されど、飲み込み始めた獲物を容易に吐き出すことができないというヘビの習性よろしく、一度対象を夢に誘いこんだ以上、何かのきっかけで本人が覚醒するのを待つしかないのだという。

それで、退屈しのぎに夢を操作し私を弄ぼうとした矢先。


なぜか私が目を覚ました、と。


荒唐無稽だ。あまりにも。


いや、莫迦げているといえば、時間が巻き戻るのだって同じことではないか。先刻それを呆れるほどすんなり受け入れた自分には、もはやどんな出鱈目も否定する権利などないと思った。

そう。なにも不思議なことなどない。大概の不可思議なことは、単にまだ巧い説明が見つかっていないだけで、おこるべくしておこっているのである。

愛読していた怪奇シリーズに登場する古本屋が、よくそんなことを言っていた。

私は半ば強引に自分を納得させ、サキの話をまるっと信じることにした。もとい、考えるのをやめた。


「ちょっと、いい?」


信じたからこそ、新たな疑問が生じた。


「サキュバスってのは男を狙うんじゃないのか。その、精液を吸うんだろう?なら私は…」




「ああ、そのことか」


「そもそも私たちに対する君らの認識が間違っているんだよ。私たちにとって対象はなんだっていいのさ。オス、メスも問わないし、なんなら、どんな生き物だろうとかまわない」


「それらの趣味嗜好を読んで、"それが最も魅力的と感じる姿"に見た目を変えるだけ。同性愛者であれば、もちろん同性の姿にね。そういう習性なんだよ」


「"精"というのも精液自体を指しているわけじゃなくて…生命活動や生殖にかかわるエネルギー全般、とでもいえばいいのかな」


「そういえば君たちは、私たちを男性像と女性像で呼び分けているよね。対象が求める姿を現しているだけで、すべて同じ私たちなんだけれど」


サキが美咲とよく似ているわけだ。彼女は、美咲は私の理想だったから。それでもサキの顔のほうが整っているのは、押し込めた記憶の中でさらに美化してしまっていたためか。さすがに自嘲を禁じ得ない。


「じゃあもうひとつ訊くけど」


「生存本能が精を強くするって言ったよね。なら私を狙うのはおかしいでしょ。私、自分から死のうとしてたんだよ。てか、なに邪魔してくれてんの?」


4階建ての屋上から飛び降りた私が無傷なのも、彼女のお節介のせいだということは、ここまでくれば想像がつく。


私の問いに対するサキの返答は、いともあっさりしたものだった。


「そりゃ、死にたがりの精なんて狙ったりはしないさ。けど君は違うだろう。生きたがってたじゃないか、ものすごく」


「私は優秀なサキュバスだから。良質な精を得るためにそういうのを察知する力には長けてるし、助けもするよ。また強い精を供給してくれるかもしれないしね。まあ、今回は無駄足だったけど」


「結束の強い"つがい"がいる対象ほど催淫の効き目も薄まるとはいえ、私の力をはねのけるなんて。よほどこの子のことが大事だったんだ。私もまだまだだな」


「だけど最後の『あれ』だけはわからない。姿をもらってすぐ、念には念を入れてこの子に関する記憶は閉ざさせてもらったから。君の前に現れることも、君がこの子を思い出すこともありえない筈なんだけど」


サキは、何かぶつぶつと言いながらゆっくりと透明になり、やがて消えた。てっきり、去るときは羽でもはやして飛んでいくのかと思ったが。




美咲が目を覚ましたという報せを私が受けたのは、翌朝のことだ。


からりと晴れた、梅雨明けの晴天だった。

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