*番外編*開幕
大学生になった彼女たちの日常は、変わらずに続いていた。
「ハルちゃん、満さんと兄妹なの?」
「うん……」
久しぶりにされた兄妹確認に再認識した。入学当初から兄は目立っていたのだと。
講義が終わり広大な敷地内の一角にある道場に立ち寄る。それは風颯のような広さで、部員数も多く、さすがは全国大会常連校だろう。四射皆中するような猛者ばかりの中で、兄も幼馴染も頭角を表していた。
「ハルーー、帰るぞ?」
「う、うん……」
入部当初は騒がしかった遥の周囲も、今は落ち着いていた。といっても牽制する兄に加え、彼氏の溺愛っぷりが露わになったからに他ならない。
「あっ、蓮……」
「お疲れさま、満が呼びに来ただろ?」
「うん……」
「俺が行こうとしたのに先越されたんだよ」
「いいだろ? まだ靴履いてなかったし」
幼馴染とのやり取りに笑みを浮かべる。並んで歩く姿を何度となく見てきた遥も、周囲の視線に気づく。二人とも目立つらしく、神山満の妹というだけで先輩方から話しかけられる率が高いと思っていたが、実際はそれだけが理由ではない。入部当初から澄んだ音で皆中する姿が視線を集めていた。彼の牽制は今の所は効果的で、敵うはずがないと諦める者が大多数のようである。
「…………もうすぐ大会だな」
「うん……」
「楽しみだな?」
『うん!』
揃って応える姿に満が笑みを浮かべる。ようやく揃って引ける日が来て嬉ばしいのは兄も同じであった。
風颯のように高段位の先生による指導を受けられる機会が週に二回以上あり、授業で触った程度の学生もいるが、強豪校なだけあり経験者が圧倒的に多い。そんな中でも遥は入部当初からレギュラー入りを果たしていた。兄の成績を然る事ながら、彼女自身の見事な正射必中は有名であった。高校時代にインターハイで負けを味わった者もいる為、彼女を知らない方が少ないだろう。
部内のレベルは高校よりも非常に高く、今年も連覇が期待されていた。満が入部する一年前から慶星大学は全国でも負け知らずだ。男子に及ばすとも女子も昨年は全国大会二位と結果を残し、今年は揃って団体戦に優勝するかもしれないと囁かれていた。
「美味しい……」 「ハルは料理上手だよな」
「よかった……ありがとう……」
遥が大学生活に慣れるまで続いた夕飯を揃って食べる習慣は、今も続いていた。といっても予定があれば外食する事もあるが、満がいない日はあっても蓮が不参加の日はない。彼女と一緒に過ごす時間が大切なのだろう。並ぶ距離感の近さに、満が呆れて溜息を吐きそうになるくらいには、想い合っていると分かる。
満がひと足先に部屋を出れば、遥と蓮だけが残る。二人きりの空間に、どこか甘い空気が漂う。並んで洗い物をして紅茶で一息つく事が、最近の習慣の一つになっていた。
「……お疲れさま…………」
「うん……お疲れさま……」
押し寄せる緊張感と向き合う横顔から迷いは感じられず、楽しみにしていると分かる。遥の心中はともかく、蓮と満は信じていた。彼女なら必ず結果を残すと。
「自由練習が主流なんだね」
「うん、高段位の先生に教えてもらえる日以外はな……整った射形だっただろ?」
「うん……」
尊敬すべき師の射形に見慣れているからだろう。高段位と聞いていたが祖父達ほどではなく、緊張感は薄い。整った射形は確かであるし、教え方も一流の部類に入り風颯を連想させるが、それだけであった。心を揺さぶる程の弦音は祖父達以外にはあり得ない。それが彼等の認識であった。
蓮から見送られ部屋に戻れば一人きりの空間だ。ようやく叶った大学生活は順調な滑り出しだ。
入学式に抱き合った事もあり、本人達の知らない所で弓道部のカップルはある意味名物になっていた。一見クールな彼が見せる表情が、推し熱を加速させる要因になっていただろう。その一方で、彼女もまた部内で注目の的であった。彼と付き合っている事もあるが、竹弓を自在に使いこなす姿が一番の要因だ。部内の的中率は高く、実力者が揃っているのにも関わらず、彼女が乱す場面は見られない。また引くほどに集中力が高まっている節さえあり、その音からも違いは一目瞭然であった。
新緑の季節に変わり、待ち遠しい日々が続く。新しい事を学び、友人も増え、大型連休に遊びの予定を立てる中、大会を迎えた。
数ヶ月ぶりに感じる独特の緊張感に思わず空を見上げ、深く息を吐き出す。集中力を高める姿に変わりはないが、昨年までとは違い彼等が揃っている。それは遥にとって心強い事であった。
「ハルちゃん、よろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
一年生で唯一団体出場に選ばれた遥は、親しげな副部長の手を握り返して大前に立った。
最初に引くプレッシャーをものともせずに放つ姿は、尊敬に値するだろう。現に部員達は感嘆の声を上げていたし、それは他校からも囁かれる程であった。
「うわっ……やっぱり凄いね」 「やば、今年の新入生でしょ?」
「上手っ……」 「さすがインターハイ三連覇の覇者だよな」
驚く四年生を他所に、三年生までの部員達は多少なりとも面識があった。自身が敗れた大会で最後まで引き続ける姿が、今も印象に残っているのだろう。昨年の団体戦も彼女の安定した射形があったからこそ、インターハイ出場まで導いた。そう感じるほどに精彩さを放つ姿に畏怖の念を抱く者もいたが、彼女が神山満の妹と分かれば納得であった。兄もまた入部当初から一目置かれていたからだ。
「……らしくなってきたじゃん……」
そう思わず呟く彼に遥が気づいたのは、翌日であった。
綺麗な射形に見惚れる。それは男女問わずで、弓に触れる者だからこそ分かる。一見簡単に中っているようだが、それは一長一短で辿り着けるような場所ではない。練習を繰り返し、心身ともに鍛えていくしかない果てしない道だ。
軽々と決めた男女揃っての団体戦優勝は、強豪校で知られる慶星であっても数年ぶりの事だ。特にここ数年は準優勝止まりが続いていた女子にとっては、ようやく叶った悲願ともいえる。
「やったーー!!」 「ハルちゃん、凄かったね!!」
抱きつかれ、一瞬だけ戸惑いが見られた遥も笑顔で応える。ここでの優勝は、彼女にとっても念願であった。
「ハル! やったな!」 「遥、おめでとう!」
自身の事のように喜ぶ彼等に応えるように、腕の中に飛び込む。ほとんど無意識だったのだろう。周囲に冷やかされ、真っ赤に染まった頬が初々しく、先ほどまで引いていた少女とは別人のようだ。
「相変わらずだな……」
「ーーーーっ、航!」 「久しぶりだな」
従兄弟達に囲まれ、苦笑いの表情を浮かべる彼もまた袴姿であった。
「…………航……」
「ハルは、蓮くんしか見てないから気づかなかったんだろ?」
「うっ……」
反論したいのは山々だが、彼女だけが従兄弟に気づかなかったのは事実だ。対戦校からも心地よい音がしていたと、振り返ればそれは従兄弟だったからだと納得である。何処かで聞き覚えのある弦音は、勘違いではなかったのだから。
「ハル! 次は負けないからな!」
「うん!」
差し出された掌に重ねようとすれば、心地よい音が響く。遥の代わりに彼がハイタッチを交わしていた。
「蓮くん…………狭量過ぎじゃない?」
「航、これが普通なんだって」
「えっ、ハルが大変じゃない?」
「もっと言ってやって」
「そこ、うるさい」
背後から抱きしめられた状態のまま囲まれ、表情を崩す。緊張感がある試合というだけでなく、上級生と挑むからこそ足を引っ張りたくないという思いが強かったからだろう。
彼女らしい笑顔に安堵の顔が並び、心配をかけていたと気づく。
「…………楽しかったね!」
「うん!」 「あぁー」 「またやりたいな!」
賑やかな従兄弟に手を振り分かれれば、久しぶりの感覚に包まれる。幼い頃からの憧れは今も続き、晴れ渡る空を見上げて願う。ようやく叶った場所で響く弦音は、他者を寄せ付けない強さを誇っていた。
この日を境に快進撃は続いていく事になるが、それはまた別の話だ。
「遥、行くぞ!」
「うん!」
歩みを進める彼女の頭上では、青々とした緑と雲一つない空が広がり、慶星大学一強時代の新たな幕開けに相応しい風が吹いているのであった。