第七十二話 背中
夏に会えたきり……蓮とは会えていない。
次に会えるのは、桜が咲く頃…………
静かな図書室でペンが走らせ、過去問を難なく解く。周囲の音を遮断するかのようにイヤホンを付けて参考書と向き合う姿は、まさに受験生である。
体育祭も文化祭も終わり、残すイベントは卒業式くらいだ。周囲の進路が決まる中での勉強は、少なからずプレッシャーになるだろう。それが親しい友人なら余計に強くなっても不思議な事ではないが、彼女は至って冷静であった。受験が遅い時期という事は、それだけ勉強期間があるという意味だ。体育祭に向けての練習や文化祭に向けての準備も必要ない。放課後に美樹たちと遊んで帰った事もあるが、今では図書館に寄る生活が定着していた。
黙々と書き記す眼差しは、弓を引く時に近いものがあり、背筋が伸びる。蓮に近づく為に毎日のように勉学に励む姿は、彼も通ってきた道だ。満に追いつく為の練習を欠かした事がなかったからこそ、インターハイ優勝にも繋がり、受験においても結果を残したのだから。
『きちんと寝るんだからな?』
基本的に朝方の遥だが、彼からのメッセージに素直に頷き返す。
一日でも触れない日はないように努めているし、勉強に関しても詰めが甘い事はないだろう。ただ寂しさが埋まる事はない。ふとした時に想い出す言葉と弦音は、たいてい弓に触れている時だ。自身を見つめ返す度に押し寄せる感情があった。
教室でも欠席者が目立つ日が出てきた。それぞれが将来の為の選択をしているからだろう。授業だけを受けていれば合格するというものではなく、志望校や試験内容によって対策は様々だ。
小百合はバスケのスポーツ推薦が決まり、奈美も今週末には第一志望の合否が決まる。昼食に上がる話題が部活動メインから受験に変わり、徐々に進路が決まっていく中で、年明けに受験する者から焦りが出てもいい時期だろう。遥も後者の部類だが、友人の合格を心から喜んでいた。
「小百合ちゃん、楽しみだね」
「うん!」
笑顔で返され、自身の事のように綻ぶ。
友人の進路決定は単純に喜ばしく、不安よりも励みになっていた。それが親しければ尚更だ。
一緒に過ごす機会はあとどのくらいあるのだろうと、入学前の憂いた気持ちが薄れていたのは遥も同じであった。ただずっと続いていくと感じていた部活が終わったように、高校生活にも少しずつ終わりが近づく。合否を耳にする度に、より現実が増しいていくようだ。
「遥、受かったよ!」
「美樹、おめでとう! お祝いしなくちゃ!」
「ありがとう……」
手を取り合い喜ぶ。部活動でもよく見た場面だが、彼氏としては譲れない部分もあるだろう。ヤキモチを発揮しそうな陵を宥める翔も、この三年でよく見られる場面であった。
久しぶりに四人の帰宅時間が一致した為、寄り道しながら帰っている。引退するまでは駅まで一緒に向かうだけで、その後の交流は皆無であった。もっと遊んでおけば良かったと後悔しそうだが、当の本人にその発想はない。微かな想いは巡るが、結局は弓道が全てだったのだから、今更変えようがないのである。
最近できたばかりのクレープ店に立ち寄り、美樹と陵がシェアをして食べる姿が微笑ましい。今まで気づかなかったが、想い返せば同じような行動をした記憶はあった。
『二人とも合格、おめでとう!!』
「ありがとう」 「ありがとな!」
親友から祝われれば、胸にダイレクトに響く。何気なく過ぎていった日々を想い起こしても、部活で一緒に過ごした記憶が強い。
修学旅行や体育祭、文化祭と、数ある行事を共に過ごして来たにも関わらず、最後に残るのは引退後の花火だ。チリチリと微かな音を立てる火花が散る瞬間は、何処か物悲しい気分になった。
風颯で目の前で見た引き継がれる姿に心が躍り、ここで引けて良かったと、心音が加速していくような瞬間もあった。
「遥は年明けに入試でしょ?」
「うん、翔は来週末だっけ?」
「あぁー、追い込み中」
「翔なら大丈夫だろ?」
何の根拠がなくとも親友の実力は知っているし、努力する姿を見て来たからこそ報われて欲しいと願う。中学から続いた翔と陵の関係も、県内とはいえ別々の大学だ。互いの進路は何となくは知っていたし、弓道はこれからも続けていくと分かる。ただ同じ場所ではないだけで、これからも彼等の道は続いて行くのだ。
感傷に浸りそうになり、空を見上げた。すっかりと日が暮れた夜空に一つの星が見え、何度となく見上げてきた空の色を想い出す。
「ーーーー翔、またお祝いしようね」
「あぁー、ハルもな」
副部長として支えられてきたからこそ分かっていた。意外と熱く、陵に劣らず負けず嫌いであると。
「うん…………また、引きたいな……」
溢れた呟きに反応を示さないはずがない。進路が決まったら、お疲れさま会と称して道場を借りようとする辺り、弓道が好きな面子しかいないと分かる。
当たり前のように三年生のグループラインに送れば、次々と既読がついて決まる。
このメンバーと引く機会は、作らなければ無いに等しい。溢した本音は、遥だけでなく仲間も感じていた事だろう。
駅で分かれて手を振り返せば、遠ざかる背中を見つめていたのは美樹たちであった。
「ーーーーーーーー東京かぁーー……」
「やっぱ寂しい?」
「うん……」
「即答かよ」
「だってーー……」
彼女の合格を疑う要素はない。部長として真面目な姿を間近で見てきたし、試験前の勉強会では綺麗に纏められたノートを参考書のように借りていた。遠ざかる距離が覆る事はないと、分かっているからこそ寂しさは募る。
『そっか、よかったな……』
「うん!」
自身の事のように友人の合格を喜ぶ姿は微笑ましく、蓮にも覚えがあった。幼馴染が一年先に卒業する度に押し寄せる感情は何とも言い難く、彼女と離れる瞬間は言葉にすら出来なかったと。
『遥も風邪ひかないようにな?』
「うん…………蓮………………」
『……ん? どうした?』
「ううん…………」
言葉にならず感情が揺れる。通話を終えたくない一方で、当てはまる言葉が見つけられないのだ。
「……蓮、ありがとう…………」
僅かな時間の通話も、スタンプになりがちなメッセージのやり取りも、環境が変わったばかりの彼が率先して行ってきた。彼女の性格をよく分かっているからだろう。頻度を減らせば、さらに控えてしまうと目に見えていたからだ。
『…………遥……切り替えていい?』
「う、うん……」
スマホの画面に向けて微笑む。
映し出された彼との会話を楽しんでいると、扉をノックする音がした。
『このまま待ってるから……』
「……うん」
部屋を出ると一つの小包が手渡され、宛名とテーブルに立てたスマホを交互に見てしまう。娘の驚いた様子に微笑む母が退散すれば、またスマホの前に腰掛けた。
「……蓮、これ…………」
『よかった、やっと届いたか……』
「開けていい?」
『うん……』
伝票に書かれた文字にすら愛おしさが込み上げる。綺麗に梱包された袋を開ければ、リボンのついた小さな袋と赤い缶の二つがあった。
『……………………遥、メリークリスマス』
ぽろぽろとこぼれ落ちて、言葉に詰まる。
「ーーーーっ……メリークリスマス……」
何とか口にした所で込み上げてくる事に変わりはなく、涙が溢れる。
「……………………ありがとう……」
『使い心地はどう?』
「うん、いい香り……」
『よかった……』
互いに安堵する様子が見てとれる。ハンドクリームをつければ、花の香り包まれていた。
「あっ!!」
『どうした??』
「私、なにも用意してない…………」
『なんだ、そんなことか……何かあったのかと、思うだろ?』
少しも気にしていない彼に、らしさを感じながらも直接プレゼントを渡すと誓う。促されて赤い缶も開ければ、クッキーがぎっしりと詰まっていた。
「美味しそう……」
『だろ? 遥がすきそうだと思ったんだ』
「……蓮…………」
『明日にでも食べて』
「うん……」
さすがにパジャマ姿の彼女に勧める事はなく、眠るように促した。
ふわふわと、浮いているような気分のまま眠りにつくと、ここ数日の寝不足が緩和されていくようだ。
朝と夕の弓道は引退直後から時間の許す限り行ってきたが、最近は早朝だけの日々が続いている。入試が迫ってきているからだ。
勉強に励むのはいいが、無理していないか心配になるからこそのサプライズだったのだろう。
ーーーーーーーー近くて遠い二人の背中を、いつも追っていた。
今も…………
視線を向ければ八射皆中だ。早朝の練習は空気の冷たさも相まって、より一層背筋が伸びるような感覚がある。
「……………………会いたいな…………」
溢れた想いに、思わず口元を押さえる。スマホ越しでも会えた日の翌日は、特に巡るのだろう。手早く矢取りを済ませ、残りの時間を勉強に充てた。
早朝だけになった練習すら本数が少なくなり、追い込みに向かっているのだろう。効率よく勉強する横顔は試合中のようだ。真剣に向き合っているからこそ泣き出したくなる日もあった。今では遠い日の出来事であり、当時は苦しい日々が続いたが、振り返れば幼馴染がそばにいた。
「ーーーーいってきます」
「いってらっしゃい」 「ハルちゃん、気をつけてね」
母と祖母に見送られて家を出れば、冷たい風が吹き抜ける。引退してからも弓道が中心の生活だったが、今では勉学が中心になった。
大学進学を目指して積み重ねていく姿は、毎日のように練習で触れてきた弓に似ていた。最初こそ理想通りに引けなかった遥も、今では思うままに放ち、外す方が稀になった。記録を残すノートには◯だけが並び、他者を寄せつけない強さを誇る。それは毎日のように弓に触れ、積み重ねて結果に他ならないだろう。
引退後の夏休みのように図書館で励む。高校生活最後の冬休みになり勉強が捗る中、時計を見て気づく。昨年までは選抜大会に出場していた時刻であったと。スマホに手を伸ばしそうになり、ルーズリーフを取り出してスラスラと解いていった。
自宅に戻り昼食を終えれば、一人の部屋で参考書を広げる。好きな曲を聴いてテンションを上げているのだろう。スマホから流れるメロディーを聴きながら学習していたはずだが、いつの間にか音が届かないでいた。
夕飯時に声をかけられ、集中していた事に気づく。未読のメッセージを少しずつ読んでいけば、自身に向けられた言葉に微笑む。
『ハル先輩、楽しかったです!』
続くスタンプに、他のメンバーも同じような想いだと分かる。
『明日の団体も頑張ります!』
宣言する頼もしい後輩たちに旗を振るスタンプで返せば、すぐに既読がつく。
遥が一足先に大人になる彼等を追いかけるように。彼女の背中を見て勇気づけられていた仲間がいるのであった。