第六十八話 一意
深く息を吐き出して空を見上げた遥が、視線を下ろせば大きな建物が広がる。
茨城県にあるアダストリアみとアリーナを目の前にして、心拍数が上がる。これから始まる最後の大会に緊張感が増していた。
大会初日に結果が出る個人戦は、集中力がものをいうだろう。
反芻させながら瞼を閉じれば、周囲の気迫に押される事なく的を見据えた。
緊張した横顔が一瞬で変わったと、並んで引く機会が多かった美樹には伝わっていた。他人からしてみれば緊張感を全く感じさせない的中率を誇る遥が、息を吐き出して空を見上げる場面があった。最初は分からなかった美樹も、今になってようやく気づいた。彼女が見上げる時は試合前の僅かな時間という事に。
何度となく勇気づけられていた横顔は、彼女が弓と精一杯向き合い戦ってきたからだと。
願うように握った手に、陵の手が重なる。
「ーーーー次だな」
「うん……」
部員が見守る中、音が響く。自身の心音よりも大きく聞こえていた。繰り返される射形が乱れる事はない。
放つ度に緊張感が薄れていくのだろう。微かに口角が上がる姿に、蓮や満がいたなら気づいたかもしれない。彼らの為し得なかった記録に、一歩ずつ着実に近づいているのだから。
四射三中以上で準決勝に、さらに四射三中以上した者だけが決勝進出だ。全国から各都道府県内で勝ち進んだ者だけが出場できるインターハイの的中率は、県大会よりも高いが、最後まで残る事ができるのは、ほんの一握りである。
次々と矢が放たれる中、仲間の射に勇気を貰っていた。翔も普段と変わらずに引き続けていたからだ。
口にしたゼリーを飲み込んで、息を吐き出す。ここまで来れば、腹も据わるのだろう。アリーナを目の前にした時よりも明らかに顔色がいい。
再び舞台に立った遥は、ただまっすぐに的を見据えていた。その横顔に緊張の色はない。頭から指の先まで一本の糸が通っているかのような凛とした姿が印象的だ。
「ーーーーハル先輩……」
彼女を慕う者は多く、風颯からわざわざ外部を受験してきた藤田もその一人だ。迷いながらも決めた選択に後悔はなくとも、過ぎる想いはある。
思わず呟いた彼女の瞳が潤む。三年前にも確かに聞いた弦音は、少しも変わらずに健在であった。
この三年間のすべてを出し切っても順位が上がる事のなかった翔に対し、彼女もまた変わらない結果を残していた。
「遥ーー!!」 「おめでとう!!」
駆け寄る仲間に微笑む。
彼等さえも成しえなかった三連覇だ。
期待に応えられる自身でありたいと思っていたからこそ、今日までにかけられた言葉の意味は分かっていた。
届いた結果にようやく表情が緩む。
皆中は結果でしかない…………でも、一本でも多く引くためには勝ち続けるしかなくて……
「ハル、おめでとう」
「翔も……おめでとう……」
「あぁー……やっぱ、悔しいな」
ハッキリとした口調が、やけに響いて聞こえる。彼の最後の夏は終わったのだ。
「……団体も頑張れよ!」
「うん……」
そう、まだ引けるんだ……
明日に控える団体戦に心が弾む。彼女にとって個人戦の勝利よりも、団体戦出場の方が実りあるものであった。
「ハルちゃん!!」
「稔、おめでとう!」 「おめでとう!!」
駆け寄ってきた手を握り返し、ほとんど同時に伝え合えば笑みが溢れる。
「また明日だね!」
「うん…………稔……ありがとう……」
「んーー、久々に楽しかったなーー……明日も負ける気はないけどね」
「稔らしい……」
態とらしく告げても本音だと分かる。彼もまた弓道の為に、風颯学園を選んだのだから。
全国上位同士が並んでいれば、自然と視線も集まる。萎縮しがちな彼女も周囲を気にするそぶりはなく、元気よく手を振る従兄弟に笑顔を返していた。
残す団体は清澄高等学校において数十年ぶりに立つ舞台だ。明日に予選を行い、決勝トーナメント一回戦から二回戦へと続く。最終日には決勝トーナメント準決勝から決勝、三位から四位決定戦、五位から八位決定戦と、三日間で順位が決まる。
清澄の五人が並べば、見守る仲間にも緊張が走る。遥にとって初めてのインターハイでの団体戦であり、出場するメンバーに至っては初めての舞台だ。結果を残す者もいれば、空気感に呑まれ実力の半分も発揮できない者もいる。
間近で見ていれば、ダイレクトに感じていただろう。
外れが続く中、一際澄んだ音が響く。
変わらない弦音を響かせて飛んでいった矢の行方は、見ずとも分かる。彼女自身も中りに興味はないのか顔色を変える事はない。
集中力の高まった彼女に届くのは、大前の美樹から順に放たれる音だ。中りが続けば勢いがつき、伸びていった。
予選は四十八校から上位三十二校に絞られる。清澄は十二中で例年なら通過圏内だが、他校の結果によって左右する為、最後までは分からない。
「ーーーーギリ行けるか?」
結果をメモしていた翔の手が止まる。
「……あぁー」 「えっ?」
様々な反応に一吹が微笑む。
「明日のトーナメントに出場が決まったな」
「やったーー!!」 「マジ?!」
喜びを露わにする仲間に、自然と綻ぶ。
先程までの緊張感は微塵もなく、清澄らしくなっていった。
平常心を心がける遥であっても、寝つきは悪い。試合の緊張と明日も引ける興奮が残っているからだろう。
寝静まる中、着信に気づきそっと部屋を出れば、優しい声に自然と綻ぶ。
『ーーーー遥、頑張ったな』
「うん……ありがとう、蓮……」
言葉に詰まり、それ以上は出てこない。いつもなら話は尽きないが、試合前は特に過ぎるからだろう。
『……明日の遥の射、楽しみにしてるよ』
「うん……」
五分にも満たない短い通話でも、平常心を取り戻すのには十分であった。まだ生暖かさの残る布団に潜り、そっと瞼を閉じていた。
決勝トーナメント一回戦は予選で勝ち残った三十二校が参加だが、二回戦まで残れるのは半分の十六校。さらに最終日まで残れるのは、勝利した八校だけである。
予選で同中だった対戦校と並ぶ姿は、昨日よりも落ち着いた印象だ。初めて体験した独特の空気感に慣れなくとも、仲間の音を聞く余裕が僅かでもあるからだろう。変わらない射に勇気を貰っていた。
「やったな……」 「……残った……」
思わず漏れ出る三年生の声に反応を示す。特に二年生にとって、三年生と共に出場する加茂を羨む気持ちは強い。ただ昨日よりも一本伸ばし、三中した彼女に心の中でエールを送っていた。二中が続く中での結果は、大いに勝利に貢献していたからだ。
チョコレートで糖分を補給して、残りの射を眺める。遥の視線の先には、男子団体に挑む稔の姿があった。
「やばっ……」 「すごいな」 「音が……」
感嘆の声があちこちで漏れ出る。
風颯学園には四連覇がかかっているが、従兄弟の変わらない表情に確信だけはあった。必ず明日の決勝トーナメントに残ると。
稔の実力は、個人戦の結果からも他者を寄せ付けない強さを誇っていた。羨望の眼差しが大多数だが、それでも新進気鋭の彼をライバル視する者がいない訳ではない。兄達のように一方的な認識は日常の一部であり、それは遥にもいえる事だ。自覚はなくとも、整った射法八節には自然と視線が集まる。
「ーーーーーーーーさすがだな……」
「あぁー……」
まるで高段者のような空気感を纏う姿に、思わず息を呑む。
一人では辿り着けない場所に立つ彼女に迷いはない。ただごく自然に触れて前を見据える。
心地よい弦音を響かせれば、何度となく感嘆の声が上がる。競技である事を忘れるかのように魅せられていたのだろう。
「…………滋さん…………」
思わず呟いた藤澤に反応したのは、隣にいた一吹くらいだ。それは、かつての先輩の姿を彷彿とさせるような隙のない射形であった。
聞き覚えのある名に思わず声を上げそうになった一吹も、目の前の射から視線を逸らせない。
どこか苦しそうに引く瞬間があった彼女が、今は萎縮する事なく触れているように映る。今までも皆中が続くほど安定した射形の持ち主であったが、それ以上に心に来るものがあった。自身と重ねてしまう部分があったからだろう。彼女の凄さを垣間見た気がした。 仲間が外せば、プレッシャーがかかる。最後に引く落ちなら、それも強いはずだ。現に落ちを務めるのは、どの学校も的中率の高い者が多い。
彼女の射が中り続ける中で対戦校も続く。仲間を勇気づけると同時に、相手のプレッシャーになる場面だが、一回戦のように崩す事はない。
ここまで残る実力があるなら、それも当然である。並大抵の事ではないのだから。
「…………終わったな……」
「あぁー……」
結果は的を見ずとも分かる。遥にもしっかりと届いていたからだ。
「……惜しかったな」
十四中と予選よりも一回戦よりも結果を残したが、対戦校は十五中。たった一本の差が勝敗を分け、清澄高等学校は二回戦敗退になった。
敗北感の悔しさよりも、辿り着いた想いが強いのだろう。晴れやかな表情に思わず涙が溢れる。それは、目の前にいる仲間の表情に釣られたからだろう。
「……ハル先輩」
「藤田ちゃん…………どうだった?」
「来年は、私も……」
「うん……」
深く頷く姿に、決意を新たにする。藤田だけでなく部員の総意であるが、その想いは加茂が一番強いだろう。一緒に引いたからこそ、少しでも憧れに近づきたいと目標が明確になっていた。
「…………遥……」
喧騒の中、はっきりと届いた声に振り向けば、二人が手を挙げていた。
「ーーーーっ、蓮……みっちゃん……」
思わず駆け寄り手を伸ばせば、ハイタッチの音が響く。
「頑張ったな!」 「やったな!」
彼の腕の中で、思い切り頭を撫でられれば、視界が滲む。三年前とは違う部員の多さも、ようやく辿り着いた結果も、ここに来なければ知らなかった事ばかりだ。
「……よく、頑張ったな」
背中を撫でられ見上げれば、優しい眼差しと交わる。
『おめでとう!!』
揃って告げられ、瞳を瞬かせる。涙を拭う指先に溢れそうになりながらも笑みを見せた。
遥にとって最後の夏は、個人戦優勝、団体戦ベスト十六の二つを残す事となった。