*番外編*木蓮
第六十七話 再会前後の蓮視点のお話
『ーーーー蓮、いってらっしゃい』
『うん、いってきます……』
去り際の遥は、瞳に涙を溜めながらも笑っていた。
思えば、いつもその笑顔に救われていた気がする。
ーーーーーーーーどんな時も…………
「松風くん、彼女いるの?」
「いますよ。お先に失礼します」
「ちょっ、蓮!」
女子部員を冷たくあしらった蓮は、満のフォローも聞かずに道場を出て行く。大学生になってからも、二人の関係は変わらずに続いていた。
満は優しすぎる。
さすが遥の兄って感じだけど……
「はぁーーーー…………面倒だな……」
思わず本音が漏れる。蓮がこの手の質問を受けるのは始めてではない。大学に入ってから何度となくあったが、部活内で聞かれたのは初めてだ。
さっきの先輩もだけど、面倒だな…………満ほど、愛想よくは出来ない。
親しい人には、優しくしたいとは思うけど……
ブーブーブーと、ポケットからバイブ音が鳴り、慌ててスマホを取った。
「…………遥……」
『蓮、お疲れさま……』
「お疲れさま……」
耳元に響く声で思わずにやける。
頬を緩ませ柔らかな表情の蓮は、スマホを片手に歩いていく。
『うん、元気だよー』
「もうすぐだな……」
『うん……』
沈黙すら心地よいのだろう。先程までの冷たさは微塵もない。
「……遥……無理はするなよ?」
『うん、蓮もね?』
「うん……」
話したい事は沢山あるはずなのに、いざ電話になると言葉に詰まる。
近況はラインのやり取りで知ってるし、声を聞ければそれだけで嬉しくて…………何だか、思い通りにいかない。
もっと、ちゃんとした大人になりたい。
大学生になっても、俺自身に変化はない。
相変わらず満とは年の差を感じない付き合いをしてるし、弓道に至っては相変わらずで…………小さい頃から変わらない勝負の繰り返しだ。
「またな……」
『うん……またね……』
名残惜しさ満載で通話を終え、空を見上げる。
よく……空を見上げていた癖を想い出す。
公式的な試合では完全無欠の遥だけど…………実際はそうじゃないって、俺たちは知ってる。
一歩先に進んでいく俺たちに追いつけるように、地味な練習を繰り返していたし、泣き言を一つも漏らす事なく、時には厳しい指導にもついていってた。
「…………会いたいな」
耳に残る声に、すぐにでも会いに行きたい衝動に駆られる。
簡単に会いに行ける距離じゃない事は、俺たちがよく分かってる。
遠征とかあった時にも感じた事はあったし、高校が違っただけでも毎日会えてた方が奇跡みたいな事だったって実感した。
たとえ僅かな時間でも側にいたくて道場に通った一年があったからこそ、余計にそう感じる…………気が狂いそうなほど……遥に会いたい。
ただ……会いたいんだ…………
「はぁーーーーーーーー……」
思わず漏れ出る溜め息に、自身が心底ダメな奴だって感じた。
唐突になったチャイム音は、出なくても誰かくらいは分かる。
予想通り満だ。オートロックのマンションで、直にチャイム音を鳴らせる人物は彼しかいない。
勝手知ったる我が家のように持参した餃子を焼き始めた満から咎める声はない。いつもの調子に有難いと感じながらも、同じ部内で面倒臭さを感じていたのも確かだ。
ぶっちゃけ、遥以外の異性はどうでもいい。
優しくする必要性は感じられないけど、部活を円滑にやっていく上では多少なりとも必要な事だって分かってはいる。
部長になる度にある程度の妥協が必要だと思い知らされてきたし、上手く聞き流してる満に感じることは多々ある。
分かってはいるんだけど…………あんまり馴れ馴れしくされたら引くし、なんなら誰だこいつ? って思う時もある。
特に全国大会ではよくあることだ。
相手は俺たちの事を知ってるのに、俺と満にとっては初対面がほとんどだ。
満は外面がいいけど、部内を除けば俺といい勝負だ。
腹の中では、面倒事は避けたいと思っているはずだ……
「蓮の気持ちは分かるけどな。俺も最初の頃、ひどかったし」
「やっぱり……」
「彼女は部長からいい加減にしろって言われてた」
「常習犯かよ」
「そういう事、気にするだけ無駄だ」
「うん」
お見通しな満も、彼女については語りたがらない。
妹の事も追及されないから、俺から進んで話すことはないけど……遥の口調から、連絡を頻繁にとってるのは分かる。
満らしさに頬が緩み、パリパリの羽つき餃子を口に運んでまた綻ぶ。
「美味しい……」
「だろ? また店にも食べに行くか?」
「うん……」
変わらない幼馴染に安堵して、また一日が終わる。ほぼ毎日のように夕飯を一緒に食べて、どちらかの家でゲームをする。それは実家にいた頃よりも距離感が近いほどだ。
「…………満は、さ……」
「どうした?」
「いや、何でもない……夏には帰省するんだろ?」
「あぁー、じいさんの墓参りしたいしな」
「そっか……」
滋じいちゃんが生きていたら…………じいちゃんは今も、昇段試験を受けていたと思う。
今も周囲からは、そういう催促というか、嘆願があるみたいだ……ただ、じいちゃんにその気はない。
ライバルがいなくなるって、想像すらつかない。
俺にとっては満が部内にいるのが当たり前で、いつだって引き継いできた。
今更、変えようがなくて…………
「蓮、スマホ鳴ってる」
「んーー……」
メッセージにすら頬が緩む。毎日のように『おはよう』と『おやすみ』のスタンプを送り合っているし、短いながらも通話する事もある。
ただ僅かな時間でも毎日のように会えていた事が、ずっと昔のような気がした。
あと半年以上も離れ離れだって思うと、気分が沈む。
自身の想いすらままならない現実に、イヤでも実感する。
気づいたら、遥のことばかり考えてるって……
「勝負するだろ?」
「うん……そういえば、稔から連絡きてた」
「蓮にもか」
「満も?」
「あぁー、心配してたからな……」
「そっか……」
僅かな沈黙に苦い記憶が掠める。
あって欲しくない現実はそこらじゅうに転がっていて、届かないからと追いやった自身に嫌気がさす。
身に覚えのある感情に確信のある言葉を告げられ、素直に頷く。
「ーーーー本当、蓮って……」
「うるさい」
「まだ何も言ってないだろ?」
「顔が言ってるって!」
ニヤけ顔の満をジト目で睨んだところで意味はなく、テレビに視線を映す。よそ見して負けたは言い訳にしかならないと、彼が一番よく分かっていた。
告げずにいたら後悔だけが残っていただろう。身に覚えのある感情に溜息を吐きそうになりながら、呆れ気味の満に勝利してみせた。
会えたら、伝えたい事があったはずなのに……いざその日を向かえたら、会えただけで…………
『…………会いたかった……』
同じ言葉が聞こえてきて、それだけで言葉にならない。
返される言葉も、触れる距離も、電話越しじゃ足りなくて…………手を繋いで誤魔化した。
二人きりだったら間違いなく、抱きしめるだけじゃ済まなかった……
手の温もりに実感していた。帰ってきたのだと。
滋じいちゃんは、俺のじいちゃんにとって『終生のライバル』だ。
冗談めかして言ってたけど、それは本音だったと思う。
そうじゃなきゃ、とっくに十段になっていたはずだ。
全国に数えられる程しかいない段位も、じいちゃんにとっては無価値みたいだ。
ちゃんと聞いた事はないけど、段位にこだわっていないのは分かる。
師範として教える立場にいるじいちゃんから直接教わる事は、今では殆どない。
制服姿の彼女の横顔に想い出す。
じいちゃん達に教わっていた頃が懐かしい。
部活動で弓道をするようになって、中ることの厳しさを知った。
当たり前のように皆中するじいちゃん達しか知らなかったから、余計にそう感じたのかもしれない。
半年前まで通った道場で弓を引くと、身の引き締まる思いがした。
変わらずに響く満の射も、久しぶりに聴く遥の音も……続けざまに響く弦音は心地よくて、どこか懐かしさを感じる。
弾む心とは裏腹に手元が狂う事なく皆中する姿は、さすがとしか言いようがない。間近で響く音に視線を向けそうになるのを堪え、的を見据えて放つ。
来年は、一緒に引けるのが楽しみだな…………
同じ大学で弓道をする未来しか見えていないのだろう。昨日の発言からも明らかだが、満だけでなく蓮にとっても決定事項のようだ。
「遥……」
少しでも触れていたくて、手を繋いで行動した。
久しぶりにデートしただけじゃ足りなくて、離れ難くて……
「…………来れるか?」
小さく頷いて真っ赤に染まった頬に綻ぶ。
意味はちゃんと伝わっているみたいで、ますます手放せそうにない。
送り届けて部屋に戻れば、微かな花の香りが掠める。
「はぁーーーーーーーー…………」
同じような溜め息でも、憂鬱だった日とは違って頬が緩む。
「…………あと、少し……か……」
大学に入学した当初は殆ど寝に帰るだけだった家も、今では自炊もして、それなりの生活をしてる。
遥は、あと少しで最後の大会を迎える。
連覇について心配はしてないし、余程のことがない限り遥に敵う奴はいないから揺るがないけど…………気負いすぎていないかは気がかりだ。
満に似て何でも卒なくこなすし、あんなに整った射形の持ち主なのに、勝利への執着が薄い。
結果に過ぎなくても、部活でやっていれば多く引く為には勝つしかない。
道場に響く弦音に吸い寄せられるかのように、静かに見つめる。こちらに気づく気配のない彼女の集中力の高さを窺えるが、朝日を浴びて光り輝いているかのような錯覚を覚える。
「ーーーーーーーー蓮……見惚れてただろ?」
「み……」
いつの間にか側にいた満に、図星すぎて慌てて口元を押さえる。邪魔になるのは蓮にとっても不本意だ。
深く息を吐き出した横顔に思わず息を呑む。矢取りに出た背中に声をかければ、幼い頃の面影の残る笑顔が映る。
「蓮、ハル、勝負しないか?」
「うん!」 「何本?」
乗り気な反応に綻び、一列に並ぶ。何度となく繰り返してきた練習の一つだが、続けざまに響く弦音はやはり圧巻であった。
「…………先に行くな」
手を振り道場を出ていく満の背中を見送って、思わず抱き寄せる。
「…………遥……待ってるから……」
「……うん…………」
重なる心音から離れがたく、無意識に背中に伸びてきた手に綻ぶ。
「……蓮……ありがとう……」
自身の行動に気づき染まった頬が愛らしく、思い切り抱き寄せれば、抗議の目を向けられる。
分かってないな…………それだと、余計に離してあげられそうにないんだけど……
「…………遥……」
名残惜しさの滲み出る頬に唇を寄せ、分かりやすく上気する素直さは見習いところだが、弱音を吐いてばかりはいられない。
これからが本番だ…………一つしか変わらないのに、年の差を感じる。
どんなに側にいたくても、ずっと一緒にいる事はできないし…………俺は、ただ見ているだけだ……
「…………私……叶えるから……」
どれだけの覚悟をもって告げたかは分かる。
あの無頓着な遥が、敢えて告げた言葉に応えてくれたって感じたから……
「うん……」
頷く事しか出来ないけど、信じてるんだ。
遥なら必ず叶えられるって。
「……負けるなよ」
「うん!」
電話越しでなく目の前にいる彼女に告げれば、気持ちのいい返事が返ってきた。
帰省したって、ずっと一緒にいられる訳じゃない。
早朝の僅かな時間が主だけど、それでもいいんだ。
「……蓮、行くだろ?」
「うん!」
満の隣に並んで道場に向かう。その横顔は、彼女と同じく光を帯びているようだった。