第六十三話 空窓
「連休中には道場が解禁になりますからね」
『やったーー!!』
陵と青木の揃った声に、藤澤も微笑む。五つの的が限度だった道場は拡張され、八つ並ぶ広さが確保できる事になる。
団体練習にも力が入り、連休明けの大会が待ち遠しい面々が殆どだ。入部当初は緊張感が否めなかった加茂たちも二年生になり、下級生を指導する立場になってからは極度の緊張感に見舞われる事も減ったようだ。コミュニケーションも概ね良好で、入部当初は名門校からの入学に驚かれていた藤田も部員達と楽しげである。
「明日の夕練まで一吹さんの道場で引かせてもらえます。朝練は自由なので参加する人は七時半には集合して下さい」
『はい!』
部活終わりに遥が声をかける習慣となっているが、毎日のように全員が朝練に参加している。強制的ではないが上達には練習が一番だと理解しているからだけでなく、彼女の弦音に憧れる者が多くいる事も一つの要因だろう。
「部長は段位持ちですよね?」
「うん……藤田ちゃん、よく知ってるね」
「神山兄妹は有名ですから」
「へぇーー、やっぱり中学から注目の的だったの?」
話題に入る美樹に応えたのは藤田だ。遥があまり自分のことを語らない為、現状しか分からない部分も多いのである。
「お兄さんは一度だけ、中等部に来た事がありますけど……別格でした」
「……ありがとう」
「ハル先輩もですからね!!」
「う、うん……」
勢いに押され、後退りしそうになりながらも頷く。分かっていない様子に思わず溜息を吐き、顔を見合わせたのは藤田と美樹だ。
「私も、遥の射を見てはじめたんだよーー」
「……うん…………」
「ハル先輩の射も別格でしたから!」
「……ありがとう」
微かに染まった頬が愛らしい。蓮がいたなら抱きしめていただろう。
「藤田ちゃんも的中率高いよねーー」
「まだまだですよーー」
テンションの高い二人に挟まれたまま、夕暮れ時の空を見上げる。繋がっている空へ視線を移すのは癖ではあるが、この春からその頻度は格段に上がっていた。
「遥、練習楽しみだね!」
「うん!」
連休中に団体に向けて練習メニューが組まれている。一吹がコーチになった事により、より良い環境で引けるようになった。道場を拡張して貰える程の功績が認められるようになり、藤澤の望んだ再生は確かに叶えられていたが、彼女自身の再生は未だに不明瞭である。競い合う相手がいない事が一つの要因だろう。尊敬され、彼女のようにと努力を重ねる部員がいる一方で、今もはるか高みの目標だけを掲げて引き続けているようだ。
藤田と同じ電車に乗り込んで、話す機会が増えた。後輩から語られる現実に自身を振り返る。
「藤田ちゃん……今は楽しい?」
「勿論です! これからの試合も楽しみです!」
屈託のない笑みが本心だと語る。自身が求めたとはいえ環境が変われば崩す者もおり、メンタルに左右される部分が多いのも現実だ。
「そうだね、まずは練習試合だね」
「はい!」
出会った当初からの変わらない勢いに安堵していた。
連休に入ってすぐ同じ地区の学校と交流試合が組まれていた。今までとは違い、実力が認められる程、強者と戦う機会が増える。
数年前までは藤澤が出向いても良い返事を貰える事はなかったが、今は違う。こちらから頼まなくとも依頼が来るようになった。全ては清澄高等学校が結果を残しているからだが、ただそれだけではない。神山遥が在籍している事が大きく反映されていた。それは顧問と対面する藤澤にしか分からなかったが、一吹も感じ取っていたはずだ。あの神山滋範士を弓道家で知らないものはいない。松風一夫範士の補佐を務めた事もあり、孫である事が周知の事実になったともいえるが、本人に至って変わる様子はない。
いつもと同じ弦音を響かせ、真摯に向き合っているようだ。
「いよいよだな!」
「あぁー」 「うん!」
朝からテンションの高い部員達に勇気付けられていたのは遥の方だ。
「今日はよろしくお願いします!」
『よろしくお願いします!!』
次の団体戦に出るメンバーだけ参加なのだろう。男女五人ずつ総勢十名が揃って挨拶した。有り余る勢いに押され気味になりながらも応える。対する清澄は部員全員が参加していた。交流とはいえ待ちにまった試合である。一人四射の団体総当たり戦だ。
「ーーーーーーーー竹弓か」
「ああ……」
「やっぱり、凄いね……」
部長の勇姿を誇らしく思う部員を他所に、当の本人はいつも通りを心がけているに過ぎない。昨日までと変わらない弦音を響かせて放つ。
的中率の変動は入部当初から変わらず、○か×かの記録だけを見ればそうだが実際は異なる。○に変わりはなくとも、中っている場所に大きな差があるのだ。蓮たちとの勝負で中白かそうでないかを競えるほどの的中率は、他を寄せ付けない強さである。
昼休憩を挟み、実践的な団体戦だ。
遥が外す事はなく、吸い込まれるように中っていく。弦音や射形にも大きな変化はない。新しくなったとはいえ慣れ親しんだ道場という事もあり、鮮やかな清澄の快勝で勝負はついた。
喜ぶ部員がいる一方で落胆する対戦校。大会よりも高い的中率の部員が多くいるという現実を突きつけられた。試合ならば同様の実力と言えたが、それは本番に実力を出しきれていない部員がいる清澄の課題が浮き彫りになった結果ともいえる。
三年間かけて遥たちの世代は慣れてきたといえるが、負けて何も感じない者はいない。試合に負ければ悔しく、勝てば単純に嬉しい。そして、負ける事に慣れすぎてはいけない。藤澤が身をもって知っているからこその選出だったともいえる。
「神山さん!」
「はい……」
「次は負けないから!」
「はい」
思い切りライバル視されようとも遥に覚えはない。同じ舞台に立っていたとしても、周りを気にする事がないだけでなく、そんな余裕もない。
自身の射とどれだけ向き合えるかーーーーそれだけだ。
話かけられれば応えるが、握手を交わした遥よりも周囲の方が微妙な反応だ。負けないも何も、最初から勝負にすらなっていないだろう。部長は一度も公式試合で外した事がないのだから。呆れ顔に近い顔が並んでも、宣言した本人は涼しい顔で去っていき、宣言された遥の方が微妙な反応だ。
「ーーーーーーーー次か…………」
溢れた呟きは小さく誰の耳にも届かない。最後まで引くには高い的中率が絶対であるが、全国になれば強者は確かにいる。それでも彼女と最後まで競い合う者はほとんどいない。満と蓮のようなライバルは皆無とこの二年は言えただろう。とはいえ、三年続けてきた者の中には、的中率の高くなった者もいる。それこそ彼女をライバル視する者も。
「凄かったな!」
「うん!!」
「いいな、お前ら……」
「どういう意味よ?」
「……俺は高校までにするかな」
『はぁーー?!』
風颯ほどでなくとも毎日のように弓に触れ、努力を重ねたところで届かない。どんなに必死にやっても何も残らないと、打ちのめされた仲間にかける言葉はない。それは自身も感じた事なのだろう。無言はある意味では肯定の証だ。
「……………………私だって、神山滋範士に直々に指導されてたら!」
「ーーーー本気で言ってんの?」
単なる負け惜しみだ。いくら良い環境で続けたとしても、届かないと自身が痛感していた。今までも努力を怠った訳ではなく、だからこそ試合でも変わらずに引き続けられるようになったのだから。
「はぁーーーー……また一人勝ちするんだろうね」
「だよな……格の違いを思い知らされるよな」
「でも、楽しかったなぁーー」
「ああ」
結局は弓道が好きなため楽しかったのだ。強者との戦いは自身を見つめ直すいい機会にもなる。
負けた悔しさを滲ませながらも期待を寄せる。自身と同じ地区から優勝者が出る事は単純に応援しがいがあるし、喜ばしい事でもある。翌年も注目される事になるだろう。三年間の部活動は長いようであっという間だ。悔しさをバネに出来るのも、彼らが向上心を持って挑んだ結果でもあった。
ゴールデンウィーク期間中に二校と練習試合を行い、意欲的に活動した期間となった。
完勝する試合があれば、少しの差が届かず負ける試合もあった。一長一短を繰り返し、試合の日が日々迫っていく。
「ーーーーーーーー今日も残れたよ……」
一番星が出た空を見上げ、そっと呟き、目の前にある射と向き合う。
道場に立ち寄った遥は変わらずに弦音を響かせていく。当たり前のように中る射形は、一長一短で辿り着けるものではない。彼女が諦めずに触れてきた証だ。
練習とはいえ試合には押し寄せてくる想いがある。目の前が真っ暗になる事はなく、的を見据えた。
「…………もうすぐ……」
そっと漏らし、青々と茂った木に視線を移す。桜が咲いていたはずの木は葉が生い茂っている。
移ろいゆく季節を感じながら、変わらない音を響かせる遥の願いも変わらずにあった。