第六十二話 仕舞
いつもの道場で引いた遥は、早めに練習を切り上げた。
今日から……一吹さんの道場で引かせて貰えるんだよね。
初めての場所で引く緊張感と期待感がせめぎ合う。車窓から眺める変わらない景色に、緊張感が少しずつ薄れていくようだ。
清澄高等学校から徒歩十五分ほどの距離と、通いやすい立地に道場はあった。十五分であれど練習時間が減る事は否めないが、部員に気にした様子はない。皆、目の前の事に精一杯取り組んでいる為、学校と変わらない雰囲気だ。
響く音に期待していたのは遥だけではない。部員全員が週末に行われる春季大会兼県総体個人予選に向けて、気持ちを高めていた。
耳を傾けながら、正しい所作で放たれた矢は中る。場所が変わっても関係ないのだろう。安定感を保ったまま四射皆中する遥がいた。
「ーーーーさすがだな……」
思わず漏らした一吹は、五つの的を眺めた。
羽分け以上を出すまでになった部員に想い出す。真新しい道場になる前の彼もまた、此処で練習を繰り返していたのだ。
「一吹」
「父さん……どうした?」
「いや……」
様子を見に来た父に、一吹は平常心のまま応えた。
彼にとって楽しいことばかりではなかった弓道。それを知っているからこそ、父は安堵したように表情を崩し、飲み物を差し入れた。
「……ありがとうございます」
振り返れば、先程まで引いていた少女がいた。弓を引く時の大人びた印象とは異なり、今は年相応な高校生だ。
「……朝から精が出ますね」
「はい!」
にこやかな笑みが幼い頃の一吹と重なって映る。
穏やかな笑みを浮かべ、道場を後にする父の姿に、一吹も想いを巡らせているようだった。
少しずつ調子を上げ、羽分け以上を出せる確率が増えた。
部員が増えるにつれ、モチベーションも上がっているのだろう。練習量の減りに嘆く事はなく、確実に迫る大会に向け整えていった。
東部地区で行われる春季大会兼県総体個人予選を明日に控え、試合のように四射引いて放課後の練習も終わりとなった。
「ーーーー今日もやってるな……」
「あぁー」
様子を見に来た一吹の父に会釈をした遥は、仲間の射に視線を戻した。
ーーーーーーーー再生……したよね…………部員数だけじゃなくて、道場が賑やかになるほど……力も伴ってきたってことだから…………
部員は総勢三十八名。男子は十名、女子は八名の一年生が入部となり、年功序列のまま代表者は選ばれてはいるが、それも今年までになるかもしれない。強豪校になればなるほど、レギュラー獲得の難しさがある。それはコーチである一吹自身の経験談でもあり、遥自身にも覚えがあった。
『私…………勝ちたいんです……』
藤田ちゃんから……闘志を感じた。
誰にも負けたくないという明確な言葉に、私の方が勇気づけられていたの。
ずっと……足りていなかった覚悟が…………
「ハルーー、帰るぞー」
「うん!」
仲間の元へ向かう横顔は、何処か楽しそうであった。
スマホでやり取りはしてるけど、前みたいにそばにいられる距離じゃない。
高校に進学した時は平気だったはずなのに……いつから、こんなに淋しいって思うようになったんだろう…………
『頑張れ!』
短い文字に頬が緩む。
遠くにいても……そばにいるみたい…………
『遥なら叶うよ』
叶うと信じてくれる人がいる。
それだけで、強くなれる気がした…………それだけで、心が強くなる気がするの。
四月下旬の日曜日、春季大会兼県総体個人予選が行われていた。
八射弓を引き、男子五中以上、女子四中以上の者が県総体出場となる。
清澄高等学校からは男子十五名、女子十三名が出場と、昨年よりも大所帯で参加していた。
「ふぅーーーーっ……」
深く息を吐き出し、空を見上げる。遥のルーティンの一つだが、今は別の感情も伴っていた。
……蓮…………頑張るから…………
桜色の御守りを握りしめ、叶うことを願う。それがどんなに難しくとも、同じ場所でもう一度弓を引くという明確な目標があったからこそ、清々しい横顔だ。緊張感は微塵も感じられないほど、何処か楽しそうに微笑む余裕すらある。
他人から見れば羨ましい限りの心臓の強さだが、遥自身は平常心を心掛けているに過ぎない。
震える手を抑えながら、的を目掛けて放つ。吸い込まれるように中っていく姿に、仲間は勇気づけられていた。
弦音を響かせ導かれるように次々と中る瞬間がくる度、息をする事すら忘れそうだ。
「ーーーーすごい……」
「うん……音が……」 「……綺麗……」
初心者は響きの違いに驚かされ、今まで当たり前のように部長が中っていた事が、いかに特別だったと気づく。四射四中は彼女だけだったのだ。
「ハル……部長は、全国二連覇してるからな」
「えっ?!」
「すごっ……一年の時から負けなしって事ですか?!」
「あぁー、あの的中率に匹敵するやつなんていないよな」
「だよなー、せいぜいあの二人くらいだろ?」
「あぁー」
「あの二人、ですか?」
疑問に思うのは未経験者だけでなく、一年生全員である。よほど弓道に精通していなければ、同じ時間を共有することはない。遥にとって一つの歳の差が大きいのと同じだ。
「ハルの兄、満さんと……松風蓮さんだな」
「あぁー、あの二人がいたからこその風颯の偉業だろ?」
「だよなーー、外す姿なんて想像つかないし」
「あぁー」
順当に勝ち上がっていく横顔は、何処か楽しそうな雰囲気が漂っていた。今の遥と同じように、練習であろうと試合本番であろうと変わらない射形に息を呑んだ。
風颯との練習では格の違いを見せつけられた気さえしていたが、そんな劣等感を吹き飛ばすほどに整っていたのだ。
何度となく空を見上げ、呼吸を整える。まっすぐに前を見つめ、放つ。吸い込まれるように中っていく度、弦音と凜とした横顔が印象に残る。
今の遥の射もまた、彼等が感じた時と同じだった事だろう。
地区内で清澄が出場する度、他校の注目度も高くなり、ギャラリーも増えていく。そんな中、次の大会へ出場を決めたのは、男女揃って八名全員の三年生と、二年生からは青木、渡辺、曽根の男子三名、加茂、平野、増田、落合の女子四名。そして一年生からは、経験者のうち男子五名中三名、女子三名中二名だ。
東部地区からは男子五十六名、女子七十名が県武道館で行われる個人戦に出場となる中、来週に控える団体戦に向けて士気を高めていった。
「ーーーー蓮、お疲れさま」
『お疲れさま』
スマホ画面に映る彼に向かって微笑む。二人ともパジャマ姿だ。
『……いよいよだな』
「うん……」
見つめ合ったまま言葉が浮かばない。緊張感が増すのは当たり前の事だ。それが連覇のかかった大会なら尚更である。遥自身にも覚えはあったが、蓮にとってもだ。彼にとっても団体戦三連覇は並大抵の事ではなかったのだ。
『またな』
「うん……またね……」
スマホの画面に、遠距離だと思い知る。
ーーーー今までだったら…………
手元が震え、可愛らしいスタンプの文字に頬が緩む。
叶わなかった二人の目標に、手が届く場所にいた。個人の目標に届くのは、いつだって彼女だけだ。
二人からしてみれば羨む要素ではあるが、それはほんの少しだけだ。大半は「ライバルのいない大会に興味はない」が、占めている。
部活であれば、勝利を目指すものではあるが、彼らにとっては違う感情の方が勝っていた。二人だからこそ辿り着けた高みであり、風颯が強豪校とされる人員の厚みでもあった。
県武道館でこれから始まる戦いに緊張感が増す。特に初めてづくしの一年生は、応援であれど口数が少ない。試合前の緊張感は独特だ。何度も経験しているはずの遥であっても慣れないのだから、一年生の表情が固くなっていても仕方がない事だ。
「ーーーーハルちゃん!!」
そんな空気を無視するかのように勢いよく抱きついてきたのは、真新しい濃紺のジャージ姿の従兄弟だ。
「み、稔?!」
「へへへ、驚いた?」
「うん……風颯に進学したの?」
「そう、ミツ兄達がいなくて残念。ハルちゃんも、そうでしょ?」
心配そうな瞳に微笑む。
「ーーーーうん……でも、稔には負けないよ?」
態とらしく告げる遥に、稔も笑ってみせる。
「そうこなくっちゃ!」
ますます抱きついてくる稔を退けようとした所で、遥の番となった。
「ハルちゃん、またねーー」
「うん、稔もね!」
周囲の驚嘆を他所に手を差し出す稔に応える。ハイタッチの音に込み上げてくる想いがあった。
稔の後姿に彼を重ねていたのだ。濃紺のジャージは憧れの姿でもあった。
大会の規模が大きくになるにつれ難易度は徐々に上がり、より正確な射が求められる。
一つも外すことなく勝ち進んでいく彼女に、昨年までの二人を思い浮かべた者も多数いた事だろう。それほどまでに中る事は容易ではないのだ。
「ーーーー負けてられないなー……」
思わず本音の漏れる稔にとって、従兄妹は憧れの弓引きの姿でもあった。
心地よい音を響かせながら中り、安堵した様子の遥に対し、いつもと変わらずに中り続ける射に、羨望の眼差しを向ける仲間がいた。
遥は一つも外す事なく、個人戦優勝を果たしたのだ。
「ーーーー遥……楽しかった」
「美樹…………」
勝者がいれば敗者もいる。上位四名までが全国大会へ出場できる為、美樹だけでなく遥以外の三年生にとっての個人戦は終わったのだ。
…………風颯にいる頃、求められる射に必死で気づかなかった…………仲間も、一緒に戦ってくれていたのに……
「……美樹…………次は団体戦だね」
ずっと願っていた団体戦に出場することが出来る。
それは、みんなで乗り越えた成果…………きっと、おじいちゃんが私に足りなかった覚悟を……
「ハル、おめでとう」
「……翔も、おめでとう。また引けるね」
「あぁー」
東海総体の出場が決まり、安堵の息をつく間もなく、三年生にとって最後の団体戦が始まろうとしていた。
まだ、引けるんだ…………
勢いよく抱きついてきた美樹に微笑む。その姿は自信がついていた。今まで遥に足りていなかった覚悟も、言いようのない感情を持て余していた横顔もない。晴れ晴れと楽しそうに語り合う姿があった。