第六十一話 疾風
「遥ーー、白河が呼んでるよー」
「うん」
小百合に呼ばれ二組の教室を出ると、翔が用紙を手渡した。
「これ、藤澤先生から。また練習試合できそうだってさ」
「えっ? それって……」
「あぁー、風颯だよ」
「それは楽しみだね」
「あぁー……あと、他の学校とも」
「わーい!」
手放しで喜ぶ遥に、翔は思わず苦笑いだ。気負わずに喜べるほど、生半可な相手ではない。それが全国連覇の風颯学園となれば尚更である。
「今年の風颯にも、上手い奴が入学したんだろ?」
「そうなの?」
「あぁー、蓮さん達から聞いてないのか?」
「うん、翔は何で知ってるの?」
「村松が言ってた」
「そういえばライン交換してたね」
「あぁー」
風颯の部長とだけでなく、レギュラー人とは合宿や学祭を通して交流があるメンバーが多い。
「今日は体験入部だよね?」
「あぁー、また後でな」
そう言って、隣のクラスへ戻っていった。
翔とマユが一組で、美樹が三組、陵と和馬が四組になったんだよね。
今日は体験入部があるから、楽しみだけど……もう入部の子がいるなんて、幸先のいいスタートになったって、一吹さんも喜んでいたっけ…………
初日から着実に部員は増え、総勢二十三名だ。
すでに経験者が男子三名、女子が二名と入部した為、道場は手狭になった。昨年度の功績が大きく反映されているが、増築計画が現実味を帯び始めていた。
「弓と矢を選ぶところから始めますね」
『はい!』
今年は男子の比率の方が高い。体験入部の一年生は元気よく応え、備品の弓に触れていく。
「ーーーー今年は、また豊作ですね」
「藤澤先生…………そうですね……続いていくんですよね」
「そうですよ……道は長いですから……」
「はい……」
椅子に腰掛けた藤澤の隣で、ジャージ姿の一年生に視線を移した。
みんなの音に続いて引く時は、緊張感よりも楽しさの方が強いの。
心強くて、音に励まされているようで…………
『ーーーー繋がっていくものだな』
その言葉の意味を中等部の頃の私は、よく分かっていなかった。
周囲の期待も、プレッシャーにしかならなかったから……今思えば、音を聞く余裕なんてなくて、自分のことで精一杯だったんだ。
私の音に励まされたって仲間が言ってくれても、当時は分からなかった。
ただ、追いつきたくて…………そればかり考えていたの。
三年生の指導の下で未経験者がたどたどしくも引く姿に、懐かしさを覚える。
「ハルーー、こっち頼む!」
「うん!」
順に教えていくが、的に中る者は殆どいない。未経験者にとって、それだけ弓を引くことは難しく、的中すること自体が稀である。
「それでは、部長にも備品で引いてもらいましょうか」
「はい……」
背中に視線を感じながらも、的に吸い込まれるように中っていく。
四射皆中したところで拍手が起こった。
「…………次は、いつもの弓でお願いしますね」
「はい」
昨年、一吹指導の下で行った練習風景を思い出していた。素人が聞いても分かる音の違いに、感嘆の声が上がりそうだ。
カンと、心地よい弦音を立てながら放たれる矢は、中白を正確に捉えていた。
「ーーーーすごっ……」
「音が…………」
思わず溢れる声に、部員たちは何処か誇らしげだ。聞き慣れた言葉は、彼女の射がいつもと変わらない証でもある。
四射皆中すると、先程よりも大きな拍手が響く。
振り返り驚いた様子の遥は微笑んでみせた。それ故に、男子の見学者が多かったのかもしれない。
「竹弓から放たれる弦音は、また格別ですよね」
「……はい」
藤澤に応えた遥は、祖父たちの射を想い浮かべていた。
一際澄んだ音に魅せられて……肌脱ぎをするおじいちゃんたちが、とてもかっこよかった。
一瞬で虜になったからこそ、今も続けているの。
値段も手入れ方法も、高く難しい竹弓を受け取った時、ずっと続けていきたいって思った。
辞めようと思ったことはあったけど……弓から離れることだけは結局できなかったの。
新入生に教える遥は楽しそうだ。それは彼女だけでなく、部員が増える事は仲間の総意でもあった。
翔と和馬、陵と雅人が教えている的には、女子が集まっている。昨年と変わらない光景を横目に、遥は真由子と指導にあたっていた。
「肩はもう少し開いて……」
「こうですか?」
「うん」
初めて弓に触れる中にも筋のいい子はいる。藤澤がまた豊作と言った通り、昨年よりも多くの入部がありそうだ。
「部長さん、見てもらえますか?」
「うん……えっ!?」
振り返ると、見知った顔に思わず声を上げた。
「ハル先輩、お久しぶりです」
「……藤田ちゃん、久しぶり…………じゃなくて、風颯は?!」
「先輩を追いかけて、来ちゃいましたーー」
中等部の頃の後輩は、嬉しそうに頬を緩ませ抱きつく。小柄な少女は、遥を姉のように慕っていた。
風颯の名に反応するのは部員と経験者だ。地元では進学校であると共に、弓道部の全国常連校としても有名である。特にこの四年は連覇を果たしていた。
「…………藤田ちゃん……私は……」
「先輩……私、ハル先輩の射がすきなんですよーー」
ストレートな言葉に心が揺れる。
少し照れた様子で告げられた言葉は、遥にもしっかりと伝わっていた。
「…………ありがとう……」
穏やかに微笑むと、藤田は嬉しそうに両手を握り、上下に勢いよく動かした。
入部したばかりの遠藤や昨年の青木の姿と重なって映る。彼女を目指している者は多いのだ。
中等部個人戦三連覇の記録は、未だ誰にも破られていない。それは、満や蓮ですら達成できなかった記録でもあった。
思いがけない人達の入部もあり、着実に弓道部員は増えていった。
『……遥の射が、すきだよ』
清澄に入学した日、蓮がくれた言葉に救われていたの。
記録が残るほど、何に向かって引き続けているのか分からなくなっていった。
あれだけ……おじいちゃんの射を目指していたはずなのに、一緒に引くことは……永遠に叶わなくなったから…………
『綺麗な所作は、だいたい正しい』
そう言っていたからこそ、射形を心がけていた。
中りよりも優先させていたから、皆中は結果でしかなかった。
それに……不思議と、中る瞬間が分かるようになっていったの。
調子がいい時は特に、離れの瞬間……中ると、確信が持てるようになった。
正しい射法で射られた矢は必ず中ると……正射必中は、ある意味正しかったんだと確信が持てた。
一人きりの道場に変わらない弦音が響く。正しい姿勢を保ちながら放つ。その横顔は何処か楽しそうだ。
次に会った時には……もっと、向き合えるような私でいたいから…………
「いってきます」
口癖のように告げると、道場を後にした。
学校ではすでに準備を整える仲間の姿があった。そこには入部したての一年生も含まれている。
「ハル先輩、おはようございます」
「おはよう……藤田ちゃん、早いね」
「はい! 朝は苦手ですけど、先輩の射が見たいですもん!」
反応に困る遥を助けたのは美樹だ。
「藤田ちゃん、的をお願いしてもいい?」
「はい!」
元気よく応え、すっかりと弓道部に打ち解けていた。
「なぁーー、遥……藤田さんって中学の頃、どんな感じだったんだ?」
「……一緒に引いた期間は、一年もないけど……入部したての頃は上位に食い込む素質があるって、言われていたよ」
「えっ? それって……」
「うん…………二年生に上がった時、スランプの時期があったみたい……私も、詳しくは知らないけど……」
「そうなんだ……でも、今のところスランプって感じはしないけどなーー」
「ーーーーそうだね……」
藤田の放った的は四射三中だ。半数以上の中りに、周囲は感心した様子だが、本人は納得していないのだろう。素引きを繰り返している。
…………引いても、引いても、引き足りなくて……素引きを繰り返しても、何処かしっくり来なくて…………試合前の心境は、いつだって複雑だった。
そういう感覚は、分かるけど……
「遥ーー、着替えるよー?」
「うん」
朝練を終えると、藤田は相変わらずな人懐っこい笑顔だ。素引きの際に遥が感じた深刻な表情はない。
人の心は分からないけど…………弓の乱れなら、分かる。
中等部の頃に感じた自信が感じられない……楽しそうに引く姿が、印象的だったのに…………
何処まで踏み込んでいいか、遥自身も分からない。
時折、話をしたそうな藤田がいたが、直接何かを言ってくる事はなかった。部員が増え、体験入部期間が終わる日までは。
「遥、どうかしたのか?」
「いえ…………一吹さんの効果ですね……」
「俺の?」
袴姿の一吹は部員を眺めながら、不思議そうに応えた。分かっていない様子に、遥でなくても溜息が出そうだ。
陵に限った事ではなく、コーチの一吹も弓道部の人気に一役買っていた。袴姿というオプションも付いて、女子部員が増えそうな勢いだ。
「あの子が風颯から来た子か……」
「はい……一吹さん、知ってるんですか?」
「いや……昔の俺と似てるなって、思ってな。そういえば、道場の工事が決まったぞ?」
「本当ですか?! あっ、でも……その間は……」
「体力作りがメインと、時間は短くなるがうちの道場を使うといい。後で、藤澤先生から話があると思うけどな」
声を上げそうになったが、一吹が指示出しを始めた為、この話は中断となった。
道場で引けるのは嬉しい……一日触れないだけでも、感覚が鈍ってしまいそうになるから…………
『継続は力なりとは、よく言ったものだな……』
心に残る言葉に、当時を想い出す。
引き続けてきたからこその結果が、連覇であり、段位だったから……
「再来週からは、一吹くんの道場をお借りしての練習になりますからね」
『はい!!』
一旦は元気よく応えたものの、部活が終われば一吹を質問攻めだ。
「一吹さん、道場持ってたんですか?!」
「あ、あぁー」
「コーチって、宮司なんですか?!」
「あぁー、青木は食いつきがいいな」
「だって! かっこいいじゃないですか!」
実家が神社という事は知っていても、道場がある事までは知らなかった為、遥たちにとっても初耳だ。思わぬ質問責めに、一吹は驚きながらも何処か懐かしむように応えていた。
駅で分かれると、いつもは遥が一人で乗る電車に藤田と共に乗り込んだ。
「…………ハル先輩……」
「うん……」
「……私……弓が……苦手です」
頷く遥に、藤田は言葉を探しているようだ。
「…………でも、ハル先輩の射はすきです」
「ーーーーありがとう……」
「……先輩…………私も、大会に出れますか?」
「…………うん……藤田ちゃんが、望むなら……」
ストレートな言葉に瞳が潤む。遥は泣き出しそうな藤田に優しく微笑んでみせた。
「私…………勝ちたいんです……」
明確な言葉に、胸元を無意識に押さえ頷く。
「…………うん……一緒に目指していかない? 清澄で……」
「はい!」
潤んだ瞳が光を宿す。それは遥自身にも覚えがあった。
勝利にこだわる仲間は必ずいて……戸惑っていたこともあるけど…………部活で引くなら結果は必須で、一番多く引きたいなら残るしかないの。
結果に過ぎなくても、誰よりも多く引きたいなら…………決勝の舞台に進むしかないの……
「……私も、残りたいから……」
「ハル先輩……先輩なら、出来ますよ!!」
「ありがとう……一緒に残れるようにしたいね」
「はい!!」
素直な藤田に、考えすぎずに応えた。その言葉は遥の目標であり、高校生活最後の舞台に立つという宣言でもあった。