第六十話 春寒
道場の桜を眺め、空を見上げ微笑む。
「ーーーーいってきます……」
蓮の言葉を反芻させていた。
待ってもらえられるような私でいたいから…………それに、また出来るなら、三人で引きたいから……
「見学は自由ですよーー!!」
「これから、矢渡しの演武を行います!」
二年生の声かけが場内まで聞こえている。
「遥、行ける?」
「うん!」
美樹に頷いて応えた遥は、艶やかな着物に襷姿だ。昨年と同様、新入生勧誘の為の演武である。
まっすぐに的を見据え、弓を引く。簡単なようで難しい所作だが、素人目には分からない。それほどスムーズな動きで澄んだ音が響く。
「ーーーーすごい……綺麗……」
「うわぁーー……」 「すご……」
周囲から感嘆の声が上がり、拍手が送られていた。
正しい所作で放たれた矢は、中白に中った。
矢渡しを終えた遥は、そっと息を吐き出す。その視線は何処か遠くを眺めているようだ。
「この後は男女別に弓を引くので、ぜひ見学して下さいね!」
張りのある声に、遥は微笑んでいた。
ーーーー去年も部活勧誘の一環で、矢渡しはしたけど……あれから、また一年経ったんだ……
駆け巡る想いを振り払うように、いつもの袴姿になると、団体戦のように五人が並ぶ姿に心が動く。
「あっ、さっき入り口にいた人だ!」
「かっこよかったよねー……」
真新しい制服の浮き足立つ声が止む。初めて目にする者にとっては、そこだけが違う空間に思えた者もいる事だろう。次々と放たれる矢は圧巻である。
拍手が起こる中、入れ替わりで遥たちが並んだ。
「さっき、着物で矢渡ししてた人だ!」
「本当だ! また見れるんだね!」
思わずにやけ顔になるのは、誘導していた二年生たちだ。
「部長、やっぱりすごいね」
「あぁー、綺麗だったもんな」
「うん!」 「だよな!」
美樹から順に放たれていく音に、遥は耳を傾けていた。周囲の喧騒は届いていない。ただ、いつもの所作を心がけたまま引く。集中力の高まっている状態だ。
「ーーーー負けてらんないな」
「あぁー」
そう口にした陵に、皆頷く。いつもとは違いギャラリーの多い中、変わらずに四射皆中する姿は理想的な射手の姿だった。
「みなさん、お疲れさまでした」
「お疲れさまです!!」
元気に応える姿に、藤澤の目が細まる。
この三年で、道場にかつてのような活気が戻った。大きく貢献している者は誰から見ても明らかだが、当の本人は緊張から解放され安堵した様子だ。
「ーーーー終わったね……」
「うん、お疲れさま!」
「お疲れさま」
にこやかに応え、安土に視線を移す。始まったばかりの現実に、打ちひしがれる事なく微笑む。
また……始まるんだ…………最後の大会が……
「遥ーー! さっそく入部者がいるよ!!」
「やったね!」
「うん!」
勧誘日から入部者がいるのは、実績を多く残しているバスケ部くらいだ。弓道部もこの二年で実績があるとはいえ、これまでが弱小だった事もあり、藤澤が顧問を務めて以来、初めてのことである。
「ーーーー本物だ……」
彼女の視線の先には遥がいた。
「ちょっと、モモちゃん!」
「あっ……」
口に手を当て、思わず漏らした本音に頬が染まる。
「ーーーー本物?」
穏やかな声で話しかけられ、ますます赤くなっていく可愛らしい姿に、場内は和やかな雰囲気だ。
「あの……私…………遥先輩の射を見て、始めたんです!」
「ーーーー私?」
「はい! 三年前、個人戦三連覇してますよね?! あの時の射がすごくて!!」
羨望の眼差しを直に感じ、思わず視線を逸らしそうになりながらも、そっと微笑んでみせる。
「ーーーーありがとう…………二人とも、中学から引いてるの?」
「は、はい!!」
「先輩と、一緒に引きたくて……あの、今から……引いて貰えますか?」
戸惑って周囲に視線を向ければ、的が用意され準備は整う。
「ーーーー四射でいい? あとは……部活の時にね」
「は、はい!!」
二人は顔を見合わせ、嬉しそうなまま弓を握った。彼女たちから放たれた矢は、吸い込まれるように中っていった。
ーーーー懐かしい……こんな風に言われることは、今までにもあった。
みっちゃんの……妹だから…………
そっと息を吐き出し、まっすぐに見据え放つ。
ぶれる事なく中り、中白を中心に四射皆中に対し、二人は四射二中だ。最初の勢いからの失速は、明らかに弦音に呑み込まれたようだったが、二人とも嬉しそうに頬を緩ませる。
「ーーーーっ、ありがとうございます!」
「ありがとうございます……感激です……」
オーバーなリアクションに戸惑いながらも微笑む。
「…………これから、よろしくね」
『はい!!』
仲の良さが、私にまで伝わってくる。
それに、本当に……弓がすきなんだ…………
「私たちも、遥を見て始めたんだよ?」
「先輩達もですか?!」
反応の良さに、真由子と奈美は顔を見合わせ嬉しそうだ。
「ーーーー塚田理沙さんと、大石桃子さんですね」
『はい!!』
藤澤にも変わらずに屈託のない笑みを向けた。
「ーーーー大石って……」
「はい! 大石隆は、私の兄です!」
「兄妹で弓道やってるんだなー」
「はい、珍しいですか?」
「いや、遥のところもそうじゃん?」
「う、うん……」
話を振られ頷いてはいるが、驚いていた。ここまでストレートな好意は滅多にない。それが先輩の妹ともなれば尚更だ。
隆部長の妹さん……そう言われると、少し目元が似てるかも……
「失礼します!」
道場に勢いよく入ってきたのは、新一年の男子生徒だ。
「ーーーーあれ? 遠藤?」
「お久しぶりです!」
「何? 陵の知り合い?」
「あぁー、俺らの中学の後輩」
陵の後輩という事は、翔と青木の後輩でもある。親しげに頭を撫でる陵に、上下関係の良さが分かる。
「うわっ、本物だ!」
大石と同じ反応に笑いが起こるが、言われた本人は不思議そうな表情だ。
「俺……間近で見たくて、清澄にしたんですよ!」
「ーーーー遠藤くん、よろしくね」
「は、はい!!」
遥が差し伸べた手を勢いよく上下に振る。感激した様子の遠藤に、戸惑いながらも笑みを見せた。
あの頃の射を……見てくれている人がいたんだ…………
駆け巡る想いに、無意識に胸元に手を寄せた。道着の上から触れた指輪に安堵しながら。
中等部に入学した頃の私は、毎日……必死だった……
急に大人になった二人に、追いつけないような気がして……ただ夢中になって、引き続けた。
追いつきたくて……ただ、そばにいたくて…………
心地よい弦音を響かせ、まっすぐに前を見据えた。五つの的には全て四本の矢が中っている。
「ふぅーーーー……」
はらはらと舞い散る花弁に、現実を思い知る。
「…………蓮……」
思わず口にした名前に、自身も驚いていた。
……私……こんなに…………
タイミングよくスマホが鳴り、頬が緩む。
『ーーーー遥、進級おめでとう』
「ありがとう……蓮…………」
言葉に詰まり、押し寄せてくる。彼も同じような想いなのだろう。揃って、無言のまま耳を傾ける。
「…………蓮?」
『うん……遥は、道場?』
「うん……」
『気をつけて帰れよ?』
「うん、ありがとう……蓮は、もうお家?」
『うん……』
そばに感じる声に染まりながら、頬が緩む。
『週末は満とゲームする事になりそうだな』
「楽しみだね」
『まぁーな、対戦ものは勝てるといいけどなー』
「みっちゃん、容赦ないからね」
なんてことない日々が、どんなに特別なことだったか分かる。
声を聞くだけで嬉しくて……顔が見れないことが淋しい。
今に始まったことじゃないのに……やっぱり慣れなくて、きっと……これからも、慣れることはないのかもしれない。
『ーーーーまた電話するな』
「うん、またね……」
まだ耳に残る言葉を反芻させ、スマホを握った。今、この瞬間にも、此処で過ごした日々が脳裏を過ぎる。
「ーーーーーーーーよし!」
気合を入れ直すように声を上げ、一人になった道場を出て行った。
これからは、今が当たり前になるんだよね……
「……ただいま」
「おかえりなさい」
道着のまま帰宅した遥を出迎えた母に、微笑んでみせた。
ーーーー大丈夫…………あの頃よりも、蓮と繋がっているから……
チャイム音に扉を開ければ、幼馴染で親友の満が顔を出す。
「……お疲れさま」
「お疲れー、今日の新歓、早く抜けただろ?」
「そう? 普通じゃない? 和田も抜けてたし」
「ったく、相変わらずだなー」
そう言ってお菓子と共にコントローラーを取り出した。
「満……今日は九時までだからな?」
「分かってるって」
お互いの部屋を行き来し、どちらかの家で夕飯を一緒に食べる事がほとんどだ。四月にも関わらず手軽さと美味しさが相まって、鍋が夕飯の定番になりつつある。
「ハル、何だって?」
「奈美ちゃんと小百合ちゃん、それから雅人くんと同じクラスになれたって」
「そっか……」
「うん……って、何で分かったんだ?」
「顔見れば分かる」
断言されれば、それ以上の追求は出来ない。表情があまり変わらないと言われがちな蓮でも、彼女の事に関しては別で、親友には丸分かりのようだ。
「ーーーーさっそく、新入部員がいるって」
「へぇーー、よかったじゃん」
「うん……」
素直に頷きながら連打しているが、手元の激しさとは違い心中は穏やかだ。
「……また、練習、試合、するか、もな」
「あぁー……って、あーーーー!!」
ゲームオーバーの音に項垂れる満と喜ぶ蓮の間に、一年のブランクはない。
勝負をしていたかと思えば、協力プレイでクリアを目指しながら夜が更けていった。
『おはよう、遥』
同じような時間帯にくるメッセージに鳴る。遥が同じようにスタンプと共に返せば、蓮もまた頬を緩ませた。
「ーーーー最後の大会か……」
昨年を振り返り、連覇した時の感動が蘇る。そして、まだ始まったばかりの生活にも弓道がいた。
習慣の早起きは道場へ行く代わりに、満とのジョギングが日課になりそうだ。
まだ冷たい風が頬に触れる中、無意識に空を見上げた。それは、彼女がよくする仕草だった。
ーーーー最後の大会かー……一人で出場する最後の大会は、これで二度目。
中等部の頃よりも、少しは成長しているかな……
晴れ渡る空を見上げ、また春が来たことを実感していた。彼が側にいない季節がきたことを。