第五十六話 抵抗
遥は緊張感を抱えながらも、いつものように弓を引いていた。道場には昨日と同じく一人きりだ。
ーーーー蓮も……試験だから…………
今朝送り合ったメッセージを思い出し、頬を緩ませる。矢取りを行なう的には、全て四射ずつ中っていた。
「ーーーーよし!」
空を見上げ、また気合を入れ直し、スマホに視線を移す。『頑張れ!』の文字と可愛いうさぎのスタンプに励まされていた。
少しでも……長く、弓が引けるように…………試合はいつだって、自分と向き合うみたいだから…………
ホッカイロで暖をとりながら、半円状になり部員が揃う。
「二年生にとっては最後の対抗戦だな」
『はい!』
敢えて告げた一吹に、緊張感よりも何処か楽しさを強く感じている者が多いようだ。昨年の男女共に果たした優勝は、彼らの自信に繋がっていた。
東部地区では一人八射、一組四十射の予選を行い、上位四チームが決勝トーナメントに進出となる。
男子から始まった予選に、遥たちは目の前で放たれていく矢に、先程までの気持ちよりも緊張感が増しているようだ。
そんな中、一吹も藤澤も、五人の射を静かに見守っていた。
ーーーー緊張しない時なんて、ない。
でも……残りたい…………少しでも多く、弓が引きたいの。
願いが通じたのだろう。彼らは四十射二十四中と、全体一位の的中数で決勝トーナメントの通過を決めたのだ。
「ーーやったね!」
思わず声を上げる美樹に、彼女たちは微笑んでいた。
「……うん」
「次は私たちの番だよねーー」
「そうだね、美樹」
いつも包まれる独特の緊張感よりも、喜びの方が強くなっていくようだ。先程まで固かった表情が一気に緩んでいく。
翔がトーナメントの抽選を引き、チームメイトの元に戻ると、女子の予選が始まった。
彼女たちが姿を現わすと、遥から近い観覧席に人が集まっている。全国優勝は伊達ではない。
「ーーーーやばいな……」
「あぁー……」
陵の呟きに応えた翔だけでなく、自然と彼女の射を追っていた。
遥はいつもと変わらない所作で引いている。
その音に続くように大前の美樹が矢を放ち、繋がっていく。
ーーーー楽しい…………これが、ずっと続いてほしいって思うくらい……伝わってくる緊張感も、負けてきた日々も、今日の為にあったんだって…………
男子に続き、女子も四十射二十四中を決め、予選を一位で通過となった。
遥が午後から行われる決勝トーナメントの抽選を引き、部員の元に戻ると、部活と変わらない雰囲気に変わっていた。
昼食を揃って食べる中、喜びを噛みしめる。それは彼女だけではなく、応援にきていた部員も含め共通の想いだ。
決勝トーナメント出場に喜んでいたが、また同じように引けるかどうかは分からない。本当の勝負は、これからだと言えるだろう。
「また男子からだなーー」
「あぁー、男子の二試合の後、女子が二試合で、また男子から決勝戦だからな」
「楽しみですね」
「さすが青木だなーー」
「あぁー」
はっきりと楽しみだと言える彼は、昨日の緊張感に包まれていた時とは違うのだろう。青木が本番に強いからこその言葉だ。いつもと同じように引ける事は、並大抵の事ではない。
「青木はその調子でな」
「はい!」
勢いよく応える姿を頼もしく感じる二年生がいたが、そんな青木とは対照的に、無言で口に運ぶのは加茂だ。
上級生に混ざって引く機会が、中学まではなかったからだろう。緊張感と戦いながらも毎回のように結果を残していた。
「……カモちゃんの音、聴こえてたよ」
「部長ーー……」
柔らかく微笑む遥に、加茂は食べようとしたミニトマトを弁当箱の上に落とした。思わず頬が緩み、心もほぐれていくようだ。
「遥ーー、私の音はー?」
「勿論、美樹の音も。みんなの射に続くように引く感じだから……」
背中から抱きついてきた美樹に微笑んでいた。
こんな風に……話を出来るまで、強くなってるって思うから……。
緊張感との向き合い方を学んでいたのは遥も同じだったが、自分に向けられる陵の視線を感じ、美樹から離れようとするも彼女が許さない。
「ちょっ、美樹! 視線が怖いから!」
「いいの! 陵が悪いんだから!」
何やら揉めているようだが、いつもと変わらない陵と美樹のやり取りは教室と同じだ。
「本当、美樹たち仲良いよねー」
「ねーーっ」
「……部長も仲良いじゃないですか?」
「えっ?」
「一昨日、見ましたよ。駅まで彼氏さん、迎えに来てましたよね?」
「ーーーーうん……」
思わず頬が赤くなる遥に、ここぞとばかりに美樹が食いつく。
「ほら、私だけじゃないよ。バカップルは」
「バカについては否定しないのかよ」
陵の突っ込みに、また笑みが溢れる。
ーーーーそっか……ちゃんとカップルに見えるなら、それは嬉しいかも……
意識が弓道の緊張感から遠ざかる清澄の面々であった。
「…………やっぱり、緊張するね」
奈美がそう呟く。チームメイトが対戦校と共に入場してきたからだ。
大前から順に弓を引いていく。陵の調子はよく、一射目から中る安定感があった。
心の中で『頑張れ』と応援しながら、矢を放つ音が響く度、一喜一憂していた。
「ーーーーやった!!」
遥の手を取り、上下に勢いよく振るのは美樹だ。チームメイトと彼の活躍を喜んでいた。
本人たちの想いとは裏腹に、他校から見れば順当に決勝進出となった。
「次は……私たちの番だね」
『うん!』
遥が敢えて口にした言葉に、緊張感を滲ませながらも声を出す。気合を入れ直すように応えた仲間に、彼女も笑顔を見せていた。
昨年の高等学校対抗戦優勝校に、インターハイ覇者と、ギャラリーが増えている。試合に敗れた学校は、必然的に観客になる事も要因の一つだ。
「ーーーーまた、皆中しそうだな」
「あぁー」
「部長が外す所なんて、松風先生の時くらいしか知らないですよ」
「確かになーー」
彼らの呟きは、もっともだ。遥は高校の大会レベルでは外さず、皆中する事が周囲にとっても当たり前になっていた。
けして中りを優先にした訳ではない事を知っている為、嫉妬の声が上がりそうな所だが、羨望の眼差しを向ける者が多い。
「ーーーー綺麗……」
「うん……」
思わず漏れ出る本音に、一吹と藤澤は顔を見合わせ微笑んでいた。
安定した射は予想通り皆中し、決勝進出となった。
続けざまに行われる男子決勝の舞台に注目が集まる。男女揃って決勝トーナメントだけでなく、決勝の舞台にまで残ったのは、清澄高等学校だけだったからだ。
ーーーーーーーー去年よりも、強くなってる。
清澄は再生したけど、それよりもっと……進化しているって思うから……蓮にも、見てほしかった。
私の居場所は、かけがえのないモノになったって…………
遥は自分達の番になっても変わらずに弓に触れた。心地よい音が響く度、感嘆の声を抑える人たちがいた。
昨年の僅差の勝利から躍進し、男女共に三本以上の差をつけて、東部地区で行われた高等学校対抗戦は幕を閉じた。
「遥ーー!」
「やったねー!」
「うん!」
仲間と抱き合い、ようやく勝利を実感した遥は、また空を見上げているのだった。
彼がいないと知りつつも、道場に立ち寄っていた。
まっすぐに的を見据え、弓を引く。試合と変わらない弦音が静かな道場に響いていた。
片付けをする中、スマホが鳴った。相手は見なくても分かっていたのだろう。勢いよく電話に出る。
「も、もしもし?」
『遥、お疲れさま』
「蓮……お疲れさま……」
耳元で響く優しい声に、頬が緩む。
『うわっ……ちょっ……』
「蓮?」
スマホの画面には、蓮の肩を組む彼が映る。
『ハルーー、正月ぶり。優勝おめでとう』
「みっちゃん、ありがとう」
『遥、おめでとう』
「ありがとう……」
蓮は満の家にいたのだ。
久しぶりに幼馴染み三人で話をしながら、夜は更けていく。
遥はその距離感を分かっていたが、顔に出す事なく笑っていた。スマホ越しの彼も笑えば、見つめ合う。
『ったく、相変わらずだなー』
『ちょっ、満?!』
髪をぐしゃぐしゃと勢いよく撫でられ、抵抗する蓮がそばにいる事を思い出す。笑いが絶えない幼馴染がいた。
みっちゃんといる時の蓮は、いつも楽しそうで……見ている私まで楽しくなってくるけど…………たった二日、会えないだけで…………
目の前を通過していく電車を眺める。
何本か電車を見送ると、待っていた彼が手を振った。
「ーーーー蓮、おかえりなさい……」
「ただいま、遥……」
「……お疲れさま」
「うん……遥、優勝おめでとう」
「ありがとう……」
差し出された手を握ると、会えなかった時間を埋めるように話を続ける。
「ゲームの勝負はついたの?」
「うん、満に負けた」
「みっちゃん、強いからね」
「うん、次は負けないけどな」
昨夜は満とゲーム対戦をしていた蓮は、欠伸を呑み込んでいる。
「大丈夫? ゆっくり休んでね」
「んーー、少し寄っていい?」
「うん?」
繋いだまま着いたのは道場だ。
「ーーーー蓮……」
強く抱きしめられ、遥がそっと背中に手を回すと、唇が触れ合う。
「遥……おめでとう、頑張ったな……」
「……ありがとう…………」
「本当は……一番に言いたかった」
昨夜、満に一番に言われた事を根にもっているようだ。
そんな彼の様子に笑みが溢れる。
「……直接は、蓮が一番だよ?」
「うん……」
「蓮……お疲れさま」
ーーーー蓮の……心臓の音が聴こえる。
私だけじゃないんだって……少し、安心するの。
二人は抱き合ったまま、お互いの音を聴いていた。同じようなリズムに、安心感を覚えていたのだ。
「ーーーー遥……週末は出かけような?」
「うん……ありがとう……」
ぎゅっと抱きついた遥の頭は、優しく撫でられる。長い髪に触れる蓮の手つきは慈しむさまが垣間見えた。
「…………蓮?」
「遥……続き……してもいい?」
一瞬、何の事か分からなかった彼女も、顔を真っ赤にしながら小さく頷くと、扉の鍵がガチャと閉まる音だけが、場内に響いていた。
ーーーーこの手を……ずっと繋いでいられたら……こんな想いも、なくなるのかな……
熱を帯びた身体を冷やすかのように、冷たい風が吹き抜けていく。手を繋いだまま、夜空を見上げていた。
「……流星群、見たこともあったな」
「うん……懐かしいね」
肩に頭を寄せた遥は、触れる手の温かさを感じながら、離れていく事を考えてしまう不安定な想いを打ち消すように願っていた。
蓮が……志望校に受かりますように…………
「……蓮…………来てくれて、ありがとう」
「うん……」
強がりは蓮にも分かっていたが、あまりに自然に微笑む姿に頷くしかない。
さらさらの髪に触れると、更に頬を緩ませる遥に、もう一度唇が寄せられる。
しばらくの間、抱き合う姿があった。




