第五十四話 自由
蓮と一緒に弓を引く。
それは私にとって、毎朝の嬉しい習慣になっていたの。
「遥、いってらっしゃい」
「うん……いってきます、蓮」
制服姿の彼女が手を振り道場を後すると、再び場内から弦音が響く。蓮が引き続けていた。
「ーーーー高等学校……対抗戦か…………」
そう呟いた彼の視線の先にある的には、全て四本の矢が中っている。五つある的すべてに四射皆中していたのだ。
「ハル、藤澤先生が呼んでた」
「はーい」
翔に呼ばれ、職員室に揃って顔を出した。今は昼休みだ。
「二人とも来ましたね。土曜日に、風颯と……練習試合をする事になりました」
「えっ?!」
思わず声を上げた翔は、慌てて口元を押さえる。
「対抗戦前の練習試合になりますから……」
ーーーー鳴っているの。
今までは、合同練習だったのに……練習試合ってことは、少しは近づけたってこと。
そう思っても……いいって、ことだよね?
「……神山さん、大丈夫ですか?」
「は、はい……」
遥はそう一言返すのが、やっとの状態だった。
教室に戻る中、無言のまま歩く彼女の背中から、声がかけられる。
「ーーーーーーーーハル?」
「翔……試合だね……」
「あぁー……楽しみだな……」
「うん!」
微笑む遥は、強豪校との練習試合に臆するどころか心待ちしているような印象だ。その一方で翔は『楽しみだな』と、口にしながらも、それを実践できる状態ではなかったのだろう。そっと視線を逸らしていた。
藤澤に一吹と部員が全員揃い、午後の練習が始まった。
午後は実践練習が主だが大会前という事もあり、曜日毎に団体の練習をしている。
今日は男子を中心に団体の練習が行われている為、女子は一つの的を使い、一人ずつ引いていた。自分の番になるまでは素引きや記録を交代で取っていく。
「青木くん、好調だねーー」
「うん、そうだね」
二年生と一緒に引くことに、最初は少し戸惑っている所もあるみたいだったけど……頼もしいよね。
青木は安定感のある射を保ち、八射五中していたのだ。
「遥の番だよーー」
「うん」
練習を眺めていた彼女に、美樹が声をかけた。遥の番が回ってきたのだ。
変わらずに綺麗な所作で的に放っていく。素引きをしていた女子部員が思わず視線を移すほどだ。
背中から感じる視線に鳴りながらも八射皆中だ。射初式の際に射詰で外した彼女の影は、今は何処にもない。想像すらも出来ないのだろう。思わず拍手しそうな雰囲気さえあった。
「ふぅーーーー……」
周囲の反応を他所に、遥は大きく息を吐き出して矢取りを行っていく。背中から感じる視線は、緊張感を与えていたのだ。
道場の片付けが終わると、勢揃いした部員の前に藤澤、一吹と共に遥と翔も立っていた。他の部員は正座をしたまま、彼らの話に耳を傾けている。
「ーー最後に部長から」
「はい、今週の土曜日に、練習試合をする事が決まりました……」
少し騒つく場内だが、大きな騒ぎにはならない。部長の話に耳を傾け、ある意味では期待していたのだ。対戦校を。
「……合同練習を行った中部地区の風颯学園です。学校対抗戦を模範した、団体戦を行います」
「やったーー!」
思わず声を上げたのは青木だ。いつもなら陵が真っ先に声を上げそうだが、少しは成長したのだろう。
ガッツポーズをした青木は、恥ずかしそうに行き場のない手を下ろした。
「そう、楽しみですね。来月の大会に向けて、励みにしていきましょう」
藤澤が微笑んで纏め、解散となった。
更衣室でも、帰り道でも、話題になるのは、土曜日に控える練習試合についてだ。
「楽しみっすねーー!」
青木のテンションは高いままだ。そんな彼の様子に、上級生だけでなく、同学年の彼らも呆れ気味に笑っていた。
「青木らしいな。そんなの言うの陵だけかと思ってた」
「おい! 翔!」
更に笑いが込み上げる。
「事実だろ? それにしても、練習試合か……」
「先輩たちは、今までも練習試合ってした事あるんですか?」
「ないよーー、初めてだよね?」
「うん、初めてだから……緊張するよね」
「えっ? 部長でもするんですか?」
意外に思ったのは青木だけではなかったのだろう。渡辺に小林、増田も、口にはしなかったが、驚きの表情を浮かべていた。
「青木くん……それは、するよ。いつもしてるよ? 今日の練習とかも……」
「視線、感じた?」
隣を歩いていた美樹の問いかけに、素直に頷く。
「うん……合同練習の時よりは、マシだったけど……」
「あーー、あれは、見てるこっちも緊張したなー」
「確かにねーー」
彼らの言葉に、一年生は去年の合同練習を思い浮かべた。手本となって披露した射法八節を。
「練習試合かーー、少なくとも選抜の結果が考慮されてるんだろうなー」
「あぁー」
ーーーーそう……今までは、藤澤先生の人脈があっても、そういう話は断られているみたいだったから……滅多にないチャンスだよね。
同率三位の実績を残した選抜大会は、記憶に新しい団体戦だ。弓を引く良いイメージが残っているのだろう。短く頷いた翔だけでなく、遥も美樹も、繋がったような練習試合に、気持ちも高まっていくようだった。
藤澤から聞かされた風颯学園との練習試合。それ以降の練習は、試合前よりも引き締まった表情の部員が、いつもよりも多かった。
全国連覇をするだけの実力を備えた学校と、対戦できる機会は稀だからだろう。
袴姿の清澄高等学校弓道部員は、対戦校である風颯学園を訪れていた。
簡単に挨拶を済ませると、良知から試合について説明があった。座ったまま話を聞く彼らから真剣さが垣間見える。
「ーー対抗戦を考慮して、五人立一人八射で引いて貰う。女子から始めるからな」
『はい!』
場内に入って右手が清澄のスペースになっていた。
遥たち、いつものメンバーから引いていく。美樹から順に放たれる中、宮崎が記録をとっていた。ノートには◯や×が書かれている。
「ーーっ……」
彼らは溢れそうになる声を抑えた。練習試合とはいえ、試合中だからだ。
彼女たちは四十射二十四中で終えると、一年生だけの五人が場内に並んだ。
ーーーー緊張しているのが、私にも分かる。
試合と変わらない張り詰めた空気が、ここにはあるから……
◯や×が先程よりもランダムに続く中、落ちの平野が最後は持ち直し、四十射十六中で引き終えた。
大きく息を吐き出す姿に、遥は微笑んでいた。最後まで気持ちが折れずにいられたからだ。
「お疲れさま」
「ーーーーはい!」
遥の差し出した手に、遠慮がちになりながらも嬉しそうに手を重ね、ハイタッチを交わした。
矢取りを行うと、副部長率いる男子団体メンバーが揃う。
目の前で引く彼らに視線を向けながらも、隣から響く音を聞いていた。
蓮から続いて部長になった村松くん……強豪校は伊達じゃない。
安定しているのが、はっきりと……音でも分かる。
彼女の感じた通り、風颯のいつものメンバーは四十射三十一中と、高い的中率を見せた。
その一方で、いつも半分以上を目標にしている清澄は四十射二十五中と、高い的中率を出してはいたが、実力差を感じずにはいられない結果となった。
「お疲れさま」
先程と変わらずに手を差し出す遥と、ハイタッチを交わす彼らは、肩の力が抜けたのだろう。朝練のような空気間に戻っていく。
清澄で最後の団体となった渡辺たちは、温かな視線を受けながら、いつもと変わらずに四十射二十中しているのだった。
「ハル部長ーー」
「……お疲れさま!」
渡辺が差し出してきた手に、今度は彼女が応える。
両校が四組ずつ引き終えた所で、良二が声をかけた。
「もう一度、同じように引いてから休憩なーー」
『はい!』
再び構えた清澄は、先程よりも的中を伸ばす。
「ーーーー疲れた……」
外の芝生にレジャーシートを広げ、最初に寝転んだのは陵だ。休憩中も、風颯の団体に出れなかったメンバーが弓を引いている。辺りには、その音が響いていた。
「さすがに強いなーー」
「あぁー」
凹むよりも、何処か楽しそうな雰囲気さえある。特に陵と翔には、それが強いようだ。
「午後も同じように引いた後、上位二チームが決勝ですよね?」
「うん、男女別でね」
遥はおにぎりを食べながら応えていたが、その視線は的に向けられていた。自然と目で追っていたのだ。
「遥ーー、聞いてる?」
「うっ……ごめん……聞いてなかった」
集中していたのだろう。周りの声よりも、弓の音が大きく響いて聞こえていたようだ。
「もう、次も頑張ろうね!」
「うん!」
笑顔で応え、また道場に視線を移す。
ーーーーーーーー音が聞こえる。
目を閉じれば、はっきりと響いてくるの。
その瞳は、彼らがいた姿を想い浮かべているようだった。
午前中と同じように引いた結果は予想通りだ。いつもの学校代表チームが残っていた。
男子から試合さながらのように弓を引いていく中、両校の女子部員は彼らの射を静かに見守っていた。
次々と放たれる矢に、一喜一憂しながらも声に出す事はなく、その姿を見つめる。
右の的には全部で二十五中、左の的は全部で三十二中と、風颯学園の完勝だ。
「白河くん」
部長の村松が差し出した手を握り返す。
「ーーーーありがとうございました!」
その表情は、何処か晴れやかだった。
男子と入れ替わり同じように五人が並び、音が響く。
ーーーー丁寧に……まっすぐに……届くように……
最後に鳴る弦音が、やけに響いて彼らの耳に届いた。
高揚感からか、ゾクゾクするような感覚さえあるのだろう。翔は無意識に左腕を強く掴んだ。
彼女はこの試合、一度も外す事なく終えたのだ。
「ーーーー神山さん」
「……加藤さん、ありがとうございました」
同じように差し出された手を握り返した。
彼女たちの的は二十五中、風颯は二十六中と、僅か一本の差で勝敗が決まった。
「遥ーー!」
抱きついてきた美樹に笑顔で応える。
「楽しかったね」
「うん!」
賑やかな雰囲気に変わる中、良知が手を叩き注目を集めた。
「みんな、お疲れ。最後に両校の部長に、射詰をして貰って終わりにしよう」
「えっ……」
思わず声が漏れる。これで練習試合は終わりだと、聞かされていたからだ。
「風颯は村松、清澄は遥さんだな」
戸惑う彼女に、村松が強い視線を向けた。
「ハル、よろしくな」
「うん……」
その瞳の色で、これが彼にとっては試合の意味合いと同じ事を理解したようだ。
村松から順に引いていく。
さすがは両校の部長だ。六射を終え、外すそぶりはない。
二人の強さを改めて実感する中、決着が着く。
村松の的には九中、遥の的は十中だ。
「はぁーーーー……強いなー」
勝負に敗れたが嬉しそうに差し出され、握り返す。
「村松くん……ありがとうございました」
「……ありがとう」
健闘を称え拍手が響く中、彼女の横顔に思わず口にした。
「ーーーーすごいな……」
「あぁー……強いって……」
翔の言葉の続きが、陵には分かっていた。
『強いって、自由だ……』と、彼が以前にも言っていた事を想い返していたからだ。
「……次は残ろうな」
「あぁー」
小さく告げた誓いの言葉や、その射をそれぞれが胸に刻んで、風颯学園との練習試合は終わったのだ。
完敗の結果に想いが増していたのだろう。
空を見上げた遥は一番星を探していた。繋がった今日に、彼の射を想い浮かべながら。