第五十三話 羽織
遥は姿見の前で帯を整えていた。約束した通り、初詣に着物を着ていくからだ。
どうかな? 綺麗に着れてるかな?
髪はアップに整えられ、桜色の着物とよく合っている。
「遥、綺麗に着れてるじゃない」
「ありがとう」
母の言葉に安心しているとスマホが鳴り、玄関まで早足に向かった。
『あけましておめでとう!』
ほとんど同時に告げた言葉に微笑み合うと、差し伸べられた手を繋いで、ゆっくりと歩いていく。
「遥、ありがとう。可愛いな」
「う、うん……蓮こそ…………今日は一緒に初詣に行けるから嬉しい……ありがとう…………来月、入試だよね?」
「うん、向こうに行ったら、満がご馳走してくれるってさ」
「やったね」
「うん」
自然と握った手に力が込められていた。
神社に出来た長蛇の列に並んでいる間も話が尽きる事はないが、主に弓道の話になるのは二人ならではだろう。
「風颯、連覇してたね」
「村松たちが頑張ったおかげだな」
「うん……」
連覇は……並大抵のことじゃない。
それが、痛いくらいに分かるから……改めて繋いでいった風颯の男子は、すごいと思うの。
みっちゃんが入部してから負けなしって聞いていたけど、いつまで続くのかな…………
「遥、次だよ」
「うん」
お参りの番が回ってきた。
彼が目を開けると、隣にいる遥は目を閉じたままだ。真剣に祈っているのだろう。それは、試合の凛とした横顔を思い起こさせた。
ーーーーーーーー蓮が合格しますように…………
そして、弓が……今年も、少しでも多く大会で引けますように…………
目を開けた彼女は、微かに笑みを浮かべているようだった。
「ーーーー遥」
差し伸べられた手を握って、おみくじを引く。初詣のルーティーンの一つだ。
『あっ……』
番号は違うが二人とも大吉だ。木にくくりつける事なく、お財布に入れると、手を繋いだ。
「お母さんも言ってたけど、寄って行ける?」
「うん、満は将棋の勝負だって言ってたな」
顔を見合わせ、笑い合う。穏やかな時間が流れているようだ。
「蓮……ありがとう……」
「何だよ……急に」
「ううん、言っときたくて……蓮のおかげで、最後まで弓が引けたから……」
「それは……遥の実力だよ」
彼女は首を横に振った。
「一人だったら……届いていなかったよ……」
その言葉の意味を、蓮は痛いくらいに分かっていた。
「そっか……頑張ったな……」
「うん……受験が終わったら、また出かけようね」
「うん……」
受験を間近に控えた彼に敢えて選んだ言葉を、蓮は否定せずに応えたが付け足した。
「……遥と、行きたい所があるから」
「うん、楽しみにしてるね」
神社から自宅までは遠くない距離だが、いつもよりもゆったりとした歩幅なのは、遥が着物のせいだからだけじゃない。少しでも長く、側にいたかったからだろう。
蓮と並んで神山家に入ると、帰省していた満に、遥たちの従兄弟の航と稔の姿もあった。
「本当に二人で来た……」
「航、言っただろ? 蓮は甘いって」
「ーーーー満、何の話だよ?」
蓮の声色はともかく、二人は手を繋いだままだ。
「蓮くん、ハル、あけましておめでとう」
「稔……おめでとう」
周囲を気にせず挨拶をする稔に、遥も笑顔で応える。
「あけましておめでとう。今年もよろしくね」
「うん、ハル! あとで将棋勝負しよう! ミツ兄、容赦ないんだよーー」
「うん!」
元旦から賑やかな正月を神山家では過ごす事となった。
お正月休みが終わる頃、朝だけは一緒に弓を引く事が習慣になっていた。
蓮といると、ずっと此処で引いていたくなるけど……もう学校が始まる。
休みの間も、午前中は二人で弓を引く事が殆どだったから、余計に寂しさが募っていくみたいで…………
片付けようとしていると、一夫が顔を出した。
「ーーーーやってるな」
「じいちゃん!」 「カズじいちゃん!」
思わず声を上げたのは、一夫が此処に来る機会が減っているからだろう。
「二人とも、相変わらずだなー」
そう言って的に視線を移した一夫は嬉しそうだ。彼の視線の先には、綺麗に十二本ずつ中った的が二つ並んでいた。
「調子は良さそうだな」
「うん……楽しいよ……」
「そうか……」
「ハル、今年も射初式をするんだが、お願い出来るか?」
「は、はい!」
勢いのよい応えに、一夫は微笑む。
「蓮が第一だから、ハルには今年も第二を頼みたい」
「はい、よろしくお願いします」
一礼した遥は、試合のような空気感を纏っていた。
「うーーん……」
思い切り両手を上げて伸びをして、準備運動というよりも気持ちを切り替えているようだ。
あれから……久しぶりに介添の練習をカズじいちゃん指導の元やってるけど……何度見ても、綺麗な射。
音も澄んでるみたいで……心地のよい弦音がしていたの。
「ハル部長ーー、介添やるんですか?」
「えっ?」
「師匠のツテで聞いたんですけど、松風範士が射初式やるって、伺ったんで」
「うん、土曜日にやるよ。私は第二介添だけど……」
「見に行きたいです!!」
「う、うん……青木くん、よく知ってたね」
勢いに終始押され気味だ。
「師匠が、弓具店の知り合いから聞いたらしくて」
「そうなんだ……」
「俺も行く!!」
話を聞いていた陵が反応を示すと、藤澤と一吹も知っていたようで、気づくと全員参加で見学する事が決まっているのだった。
ーーーーまさか……みんなが、見学する事になるとは思わなかった…………
あれから四日後、射初式の道場には清澄の部員だけでなく、多くの弓道を志す者がいた。一夫に師事している者も多数いる証だ。
「蓮、ハル、今日はよろしくな」
『はい』
二人は師に対し、深々と一礼して応えた。
黒い着物に身を包んだ三人が現れると、場内の空気が静寂に変わっていく。
一夫が肌脱をすると、一気に張り詰めた空気に変わる。射初式が始まったのだ。
射手、第一介添、第二介添が一体となって、演武が進行していく。歩き、座りのタイミングだけでなく、座る位置、手の位置、すべての動作が決められている中、遥は耳だけを頼りに一夫の音を見ていた。
ーーーーーーーー心地よい音が聴こえるの。
カズじいちゃんの所作が、頭に浮かんでくる。
去年はみっちゃんと……今年は蓮と、この場に立てる事は私にとって、貴重な体験で……かけがえのない時間。
彼女の耳に拍手が届いた。無事に勤めを果たしたのだ。
「ーーーー去年……映像で見たよりも、すごいな……」
「あぁー、これが九段範士か……」
拍手が響く中、陵と翔は思わず呟いていた。
「あの方って……風颯の部長のお知り合いなんですか?」
素朴な疑問に答えたのは藤澤だ。
「そうですよ、青木くん。松風一夫先生は、松風蓮くんのおじい様ですから」
『えっ?!』
驚きの声を上げたのは、青木だけではない。その事実を二年生しか知らなかったのだから当然の反応だ。
昨年の部員たちの反応を思い出しているのか、藤澤も一吹も微笑んでいる。
「そうだったんですか……他を寄せつけない強さですよね」
「そうですね。もっとも……本人たちにとっては、中りは関係ないようですけどね」
藤澤は何処か遠くを見つめているようだ。
「では、せっかく揃ってる事ですし、声をかけてから帰りましょうか……」
『はい!!』
勢いよく応えた部員たちに、呆れ気味に笑う一吹と、優しく微笑む藤澤がいた。
場内では、一夫の前で遥と蓮は正座をし、姿勢を正していた。
「二人ともありがとう……」
「……一夫先生、ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
一夫は先程までとは違い、孫に向ける笑みを浮かべる。
「ハル、蓮……二人の射形を見てやるぞ?」
『はい!』
二人揃って応える姿に、一夫は更に目を細めた。
いつもの袴姿に着替えた二人が場内に立つと、師に向けて一礼した。
蓮から順に引いていくが、二人に外す素振りは見られない。安定した射形を保っていた。
「ーーーーーーーー上手くなったな……」
溢れ出た一夫の本音は小さく、誰の耳にも届いてはいない。ただ見ていた者は、竹弓を巧みに使いこなす学生に衝撃を受けたようだ。
「あれ、先生の所のお孫さんだろ?」
「すごいな……まだ高校生だろ?」
「あぁー、女の子は去年も介添してたよな」
「そうだったな……神山兄妹か……」
小声の噂は、場内にいる彼らに届く筈はない。その場にいた清澄の部員にだけは聞こえていた。思っていた以上に、すごい人たちと一緒に弓道をやっていたんだと、特に一年生は気づかされたようだ。
カンと、辺りに響く弦音が止んだ。
的には十二射ずつ中っている。
『ーーーー先生、ありがとうございました!』
揃って一礼する孫たちを抱き寄せた。
「ちょっ、じいちゃん!」 「カズ……先生?!」
声を上げる二人を無視して頭を撫でる。
「ーーーーよくやった」
顔を見合わせ、笑顔で応える。
「ありがとう!」 「ありがとうございます!」
厳しい師としての視線から、孫に甘いいつもの一夫に戻っていた。
「ーーーー松風先生」
「藤澤くんじゃないか……」
「ご無沙汰しております」
藤澤に微笑んで応え、席に座っていた部員に気づく。
「……見ていくかい?」
『はい!!』
先程まで纏っていた凛とした空気ではなく、穏やかな一夫のままだ。
「蓮、ハル、的を変えてくれ」
『はい!』
矢取りを行い場内に戻ると、椅子に腰掛けていたチームメイトにようやく気づき、遥も小さく手を振り返した。
「蓮とハルは、もう帰るか?」
「先生が引くなら、ぜひ拝見したいです」
「はい、拝見したいです」
孫に話しかける口調に対し、二人は師弟関係のまま返す。
「じゃあ、もう少し付き合って貰うかな。蓮、ハル、射詰をしようか?」
『…………はい』
微妙な反応で返した二人は、これが長く続くと分かっていたからだろう。
一夫の射を最初に受けながら挑む射詰に、先程までの穏やかな雰囲気が一変した。
カン、カン、カンと、続く、心地よい音とは違い。的に向き合う二人は、真剣な表情のままだ。周囲に気を取られる事はなく、弓と向き合っている。
ーーーーーーーー間近で聞くと、よく分かる。
音が違うの…………小さい頃に憧れたおじいちゃんの音に、一番近い弦音……一番……届く音…………
永遠のように続くかに思えた射に決着がつく。
「ーーーー私の勝ちだな」
「はい……ありがとうございました」
「……ありがとうございました」
二人の的には十九本ずつ中っているが、一夫の的には二十本中っていたのだ。
正座をしていた二人は、大きく息を吐き出した。緊張感から解放され、全力を尽くした後のようだ。
「あーーーー」
他に人がいないのをいい事に、思わず声を上げたのは蓮だ。
「ーーーーまた負けた」
「……まだ若い二人には、負けられないからな」
「カズじいちゃん、ありがとう……楽しかったよ」
「さすがハルだな。それにしても、たまにはデートしないのか?」
「ぶっ……」
一夫の思いがけない発言に、飲んでいたお茶を吹き出しそうだ。遥は咽せる背中に手を伸ばした。
「ちょっ……蓮、大丈夫?」
「うん……じいちゃん、そういうのは後で聞くから。っていうか、じいちゃんが介添頼んだんだろ?」
「二人とも、やりたくなかったのか?」
『……やりたかったです』
揃って応える素直さに、一夫は満足気であった。
三人の射を目の当たりにした彼らは、初めて部長が外す姿を見た。次々と放たれた射は圧巻だったのだろう。すぐには言葉にならない。
「ーーーーーーーーすごかったですね」
「初めて……遥が外したの見た……」
「あぁー……いつもよりも……」
彼女の見た事のない緊張感のある射詰に、圧倒されていたのだ。
数秒前までは静かだったが、青木が呟くように口にしてからは、いつもの彼らに戻っていた。
「松風範士、面白い方だったね」
「思った。デートとか言ってたし!」
「確かになーー」
近くにいた彼らには、場内の声が聞こえていたのだ。
「ーーーー先生は、普段はお孫さん想いの優しい方ですよ」
藤澤の言葉に、穏やかに挨拶をしてくれた姿を想い浮かべたのだろう。納得な様子の彼らがいた。
こうして思いがけない所で、遥と蓮の関係が清澄の部員に知れ渡る事になるのだった。