第三十八話 射手
昨日は楽しかった…………後半の二回……女子は、清澄が勝ってた。
僅差だけど……それだけでも進歩、大きな一歩。
「遥、おはよう」
「おはよう、蓮」
二人は並んで準備運動を行っていく。まだ朝の七時前だ。
「……強くなったな」
「うん……蓮には届かないけどね」
「いや、強くなったよ」
「ーーーーありがとう……」
まだ誰も起きてはいない。八時半からしか場内には入れない為、並んで校庭をジョギングしていった。
ペットボトルの水を飲み干すと、校舎前の水飲み場で顔を洗う。まもなく食堂が開く時間だ。
「遥ーー、タオル貸して?」
「はい」
彼の顔を拭くと、それぞれ自分の部屋に静かに戻っていった。
「今日は昨日の午後と同様、二手に分かれて練習を行います」
『はい!』
「昨日、私達の元で練習をした一年生は、実践練習で団体戦を行います。残りは、午前中は自由練習とするので部長達の指示に従うように」
『はい!』
二手に分かれ、風颯はいつも通り二人一組になっていく。
「佐野が白河くんと組んでな?」
「了解。蓮は?」
「俺は部長と。男子の方が人数多いからな」
「清澄は美樹とカモちゃん、奈美とマユ。陵と青木くん、雅人と和馬で組んでね。相手の射形を正すいい機会だから、気づいたことは伝えてね」
「了解」
佐野と蓮は、清澄に混ざり自由練習を行っていた。
「一人八射で、矢取りはまとめて行って、効率よくな」
『はい!』
部長の指示は浸透しているのだろう。スムーズに練習が行われていく。
「遥、行くぞ?」
「うん」
部長達のペアになると、二人の射を見ている者がほとんどだ。蓮も視線には気づいたが、そのまま彼女の射を見ているだけで、口を挟むことはない。見て学ぶこともあるからだ。
「……試合のテンポで、残り四射な」
「はい……」
彼女が的に向けて放った矢は、一本も外すことなく八射皆中を決めた。
「ふぅーーーー……」
遥は大きく息を吐き出していた。
「引かないなら、矢取りするからなー」
「蓮! やるって!」
「部長、雑ーー!」
「時間は限られてるんだからなー」
急かされるように、弓を引く部員に遥から笑みが溢れていた。
「二巡したら、また射詰を行うからなー」
『はい!』
遥と蓮は、鏡の前で動作の確認や素引きを行なっている。
「……どうですか?」
「正しいよ。次は俺な?」
「うん」
ーーーー相変わらず……綺麗な射形……まるでーー……
「どうだった?」
「美しいです。部長さん」
「光栄ですね。罰ゲームもなんなかったし、そろそろ時間だな」
蓮が時計を見上げ時間を確認すると、ちょうど二巡した所で一人四射ずつ実践的に引く事となった。昨日の結果を考慮し、的中率が近い者同士が並んで弓を引いていく。
ーーーー自由練習による射形の見つめなおし……実践練習の緊張感のある中で、弓を引くこと。
的が多いと、色んな事ができる。
遥はチームメイトの放つ矢を静かに眺め、自分の番を待っていた。
すべて終え、四射皆中したのは佐野、下村、蓮、足立、翔、遥の六人だ。
「次、皆中した六人が八寸的で引くから、他の者は見学なー。これが終わったら、昼だからな」
『はい!』
「蓮、順番は?」
「また、くじだな」
蓮の用意したくじを引くと、遥、下村、蓮、佐野、翔、足立の順になった。
「蓮……部長さん……また四射ですか?」
「今度は射詰。昨日と同じく残った人の勝ちって事で」
「はい」
遥から順に引き、的に中っていく。一回り小さな的に変わっても彼女には関係ない。
「遥、すごいな」
「うん……」
「ハル部長、まだ外してないですよね?」
「あぁー」
小声で話す清澄の面々の言った通り、彼女は一度も外す事なく中ていた。
最後まで残ったのは、昨日と同じく遥と蓮の二人だけだ。
「時間だから、同点だな。着替えて昼なー。午後は二時から、また試合するからそのつもりでな」
『はい!』
彼女は十二射皆中を決めた的を眺めていた。
「遥、矢取りするぞ?」
「うん」
気が抜けたのかいつもの口調に戻っている。
「松風ー、遥さん! 矢取りが終わったら、ちょっといい?」
『はい……』
良知と一吹の元に行くと、先程まで団体戦を行なっていたメンバーが残っていた。
「両校の部長に射詰を行なって貰います」
「えっ?!」
「ふっ……すみません……」
思わず声を上げた遥に、笑いを堪える蓮がいた。
「四本は通常通りで、五本目からは八寸的。時間的に十二本までとする」
蓮から順に引いていく。
すぐに四射を終え、あらかじめ用意していた八寸的に向けて放つ。
「ーーーーすご……」
一年生から声が漏れる。部長達の凄さを感じずにはいられない射だったからだ。
「二人ともお疲れさん。休憩入っていいぞ?」
「コーチも一吹さんも人使い荒すぎです」
「せっかくアイス奢ってやろうと思ったのになー」
「えっ?!」
「ほら、食券一位の商品な」
「少な……」
「ちょっ、蓮! あ、ありがとうございます」
「午後は、部長らは一年の手本を主にやって貰うからな?」
『はい!』
今度は蓮も、いつも通り応えた。良知コーチとは、軽口を言えるくらいの仲のようだ。
「部長ーー、お昼行きますよー?」
「うん。あっ、お疲れさま」
蓮たちも食堂に向かうようだ。
「お疲れさま。昼、俺達も一緒していい?」
「うん」
遥は清澄の一年を、蓮は風颯の一年を連れて食堂に行くと、他のメンバーも学年や男女関係なく昼食をとっていた。
「部員、たくさん入って良かったな?」
「うん。井上ちゃんと、石田くん、宮崎くんは、初めての試合はどうだった?」
「めっちゃ緊張しました」
「うん……でも、弓が引けて楽しかったです」
「それは、よかったな」
「あの……ハル部長。松風さんとは、お知り合いなんですか?」
「うん……私、この中等部に通ってたの。だから、蓮部長は先輩だよね?」
「まぁーな。敬ってくれていいぞ?」
「はいはい」
二人の気兼ねのない会話に、周囲の緊張感も解けていくようだ。細長いテーブルで清澄と風颯が向き合って座りながら、カツ丼や牛丼を食べていた。
遥と蓮は、一年生の的中率を見ながら、大前や落ちを今後どうするか考えていた。
「遥、さっきのアイス貰ってくるよ?」
「うん、お願いします」
蓮が席を立つと、彼女を知る一年生もいる為、話しかけられる。
「ハル先輩、お久しぶりです」
「みんな、久しぶりだね。的中率上がってるね」
「ありがとうこざいます」
「部長は的中率高いですよね? 緊張しない方法ってあるんですか?」
「うーーん、緊張しない時はないかな。いつも……試合も練習も、一射目は緊張するよ? あとは、どれだけ集中できてるかかな?」
「集中ですか?」
「うん……私の場合はだけど……集中できれば、的に中るから…………一吹さんや良知さん、先生方にもどう向き合っているか聞いてみるといいかもね?」
「一吹さんには聞いたことあるので、良知さんにも聞いてみます」
「うん」
蓮がアイスを両手に持って戻ると、父兄からの差し入れであるスイカが中央のテーブルで振舞われていた。
「スイカ、差し入れだって。みんな、取ってきたら?」
『はい!』
「スイカ、苦手なやついるかー?」
蓮の声かけに応える者はいなかったが、加茂がスイカを食べていない事に気づいたようだ。
「はい、カモちゃんにはアイスね」
そう言って、遥がアイスを手渡す。
「いいんですか?」
「うん」
「遥」
「ふぇっ…」
彼女の口にアイスを入れると、二人はシェアして食べ始めた。
「ごちそうさま。はい、蓮」
「ん、午後は個人戦だな」
人目を機にすることなく、彼の口元にアイスを差し出した。あまりに自然な為、違和感を抱く者はいないようだ。
「うん、割り振り?」
「あぁー、八射六中以上で準決だな」
「翔ー、これでいい?」
「あぁー」
部長たちの周囲には、副部長やチームメイトがいつの間にか集まっていた。
話しながらも周囲を気にする事なく、スイカを蓮の口元に差し出す。彼女はお腹がいっぱいなようだ。
「ん……鈴木ー、午後は白河くんと個人戦って事で頼むな?」
「了解。松風たちは?」
「俺らは、一年と一緒に午後は練習するから。 佐野ー、午後は鈴木と一緒に指示出し頼むなー」
「了解。一位になったら、何か欲しいよな?」
「コーチに頼めよー? 俺らはアイスだったよ」
「うん、ごちそうさまでした」
「良知コーチ、一位になったら何か欲しいです」
良知は佐野に、悪そうな笑みを浮かべた。午後の練習のペナルティーは決めていたようだ。
「八射六中以上を最初の二立目で出さなかったら、外周なー」
「罰ゲームですか……」
「危機感あるだろ? 部長らは、朝一でランニングしてたぞ?」
「……良知コーチ、見てたんですか?」
「あぁー、朝早いのに感心したよ」
「部長らって? 蓮の他にもそんな奴いるの?」
「まぁー、とにかく外周な?」
遥は一年生と話をしていた為、この会話は聞こえていないようだ。
「遥部長ー、午後の予定伝えるぞ?」
「はい」
カフェテリアの真ん中で、蓮の隣に並ぶと、午後の予定を伝えていくのだった。
蓮に続いて遥は、コーチと一年生たちの前で射法八節をゆっくりと行なっていく。
八つの動作は区分されているが、終始関連して一つの流れを作り、動作と動作の間が分離、断絶してはならないのだ。
一射を一本の竹に例えるなら、竹に八つの節があるのと同じ事だ。
つまり、八つの節は相互に関連する一本の竹でありながら、一節ごとに異なった八つの節である事を意識することが大切である。
二人はこの基本的な動作がしっかりとできているからこそ、美しい射と言われるのだ。
彼女が足踏みで足を開き、正しい姿勢を作ると、胴造り。
弓を左膝に置き、右手は右の腰にとる。
弓構え は、右手を弦にかけ左手を整えてから的を見ると、打起し。
そのまま静かに両拳を同じ高さに持ちあげ、引分け。
打起こした弓を、左右均等に引分ける。
会、引分けが完成し心身が一つになり、発射のタイミングが熟すのを待つ。
呼吸を詰めず、お腹の力が八分九分に満ちるのを待つのだ。
そして、離れ。
胸廓を広く開いて、矢を放つ。
射法の七つ目で、ようやく矢を放つのだ。
残心は射の総決算。
矢が離れた直後の、心身の状態の事を表す。
二人の放った矢は吸い込まれるように中る。
「二人ともありがとう。部長たちの射は綺麗だろ? 大会においては的中率が大事だが、中りを求めてはいけない。何故だか分かるか?」
答えられない一年の代わりに応えたのは、蓮と遥だ。
「ーーーー中りを求めると……変な癖がつき、射形が乱れやすいからです……」
「遥さんは?」
「れ……部長の言った通りだと思います。仮に一時的に的中率が上がったとしても、長続きはしません。弓道では、その場の的中よりも……正しい射を求め、向上していく事が、大事にされていると思います」
「そうだな……」
一吹も同意のように頷き、良知も納得していた。彼らの答えは正しいのだと。
「あぁー、だから焦らずにな? 弓道には、正射必中という言葉があるくらいだからな」
『はい!』
はっきりとした口調で応えた彼らに、コーチ等は的に中てるために、正しい射法を目指して日々練習する事が大切だと、改めて伝えたかったようだ。
慣れは時に、射を乱す事にも繋がるからだ。
ーーーー正射必中……正しい射法で射られた矢は、必ず中るという意味。
おじいちゃんもよく言ってた……弓道は、高い指標「真・善・美」を掲げているから…………自分と向かい合い、心を養い、常に平常心でいられる心を作ることが、弓道の本来の目的だって……
正しい射行は、正しい姿勢から……心がけてはいても、難しい道。
修練を続け極めた者だけが、おじいちゃんやカズじいちゃんのように、高段位や称号を得られる。
私達の道は、まだ始まったばかりで……
「ーーーー次は、射形を意識して練習するように」
『はい!』
一人四射ずつ引いていく中、コーチ等が学校に関係なく射形を見て回っている。
「一吹さんも良知さんも的確だね」
「そうだな。さすがコーチだよな」
二人の順番も回ってきた為、一年生に混ざって射ると、四射皆中を決める。練習で外すことは滅多にない。
「松風と遥さんは、そのままで」
「は、はい」
ーーーーそのまま?
二人は顔を見合わせ矢取りを行うと、良知に指示されたとおり、射詰を行なっていく。
一年生が変わるがわる射る中、二人はそれぞれ一つの的に中続けていった。
十二射皆中を決めた所で、的を八寸的に変える。未経験者もいる為、いつもより小さな的に中られるか試すようだ。
「一回り違うだけで、難しくなるからな……」
「そうだね……」
的中率はさっきまでより低いけど……射形は、今までで一番整ってるみたい。
集中が途切れることなく、矢を射ることが出来ている証拠だろう。遥は部員を見つめながら、微かに笑みを浮かべていた。
他校との練習は、良い刺激になっているようだ。特に清澄弓道部員にとっては、他校と練習する機会は殆どない為、貴重な時間と言えるだろう。
遥が後輩の的中を記録していると、良知に声をかけられた。
「最後に部長たちの射を見たら合流だな」
『はい』
用意された八寸的に向け弓を構えると、迷いなく放たれた矢が的に中っていく。先程までの一年生と同じく八本引くと、皆中した所で合流となった。
「ハル、これが午後の結果」
「翔、ありがとう。みんな、外周お疲れさま」
「お疲れー」
「久しぶりに走ったーー」
「うん……」
清澄の面々の疲労具合から、走った事は明白である。
「ハルは何してたんだ?」
「射形の見直しと……八寸的も使って、矢を射る反復練習かな」
翔に応えながらも、個人の結果に目を通す。
ーーーー翔、陵……美樹、マユ、カモちゃんが、八射六中以上……その日のコンディションに左右されるけど、団体メンバーは四中以上してるから……進化していると思うの。
最後まで残ったのは、翔と陵。
優勝は予想通り、佐野さん……風颯は確かに強い。
でも、清澄も……みんなも、強くなってる。
そう感じている中、良知の提案により決勝まで残った八名に部長たちを含め、十名による射詰を行う事となった。
「五本目からは八寸的にするからなー」
『はい』
くじを引き、立ち順通りに並ぶと、蓮から順に引いた。次々と放たれる矢は、今までよりも圧巻である。的中率が高い者しかいないからだ。
それでも二射目以降、外す者は出てくる。八寸的に切り替わる頃には六人になっていた。それほど中る事は難しいのだ。
遥は深く息を吐き出すと、切り替わった的に目掛けて弓を引いた。
「ーーーー部長……すごい……」
加茂が漏らした通り、清澄で残っているのは八射を終えて、遥だけだ。
風颯は佐野と蓮が残っている為、三人だけで弓を引いていく。
「ーーーーそこまで」
十二射を終え、最後まで残ったのは、蓮と遥の二人だけだ。
ーーーー緊張したけど……楽しかった……
「……ありがとうございました」
「ありがとうございました……」
彼に差し出された手を取り、握手を交わす。それは射手として、あるべき姿だった。